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第一部 9章 もう一回言って
「晴斗!」
車の窓を開け、少し遠くにいる晴斗へと声をかける。
制服にロングコートを着た彼はその身長の高さもあって、周りの同じ高校生の中でも飛びぬけて目立っていた。
いつも家で見る時はそこまで意識したことがなかったが、こうして他の学生と比べてみると彼のスタイルの良さが際立ち、陽汰はなんとなく恥ずかしい気持ちを抱いてしまう。
「ひな兄、迎えと車ありがとう。結構待った?」
「いや、さっき着いたとこ。それより早く乗れよ、寒いだろ?」
晴斗が助手席に乗り込むと彼の身体と共にひんやりとした空気が車内へと流れ込んでくる。陽汰は暖房を少し上げてから車を発車させた。
「試験、どうだった?」
「多分大丈夫。この前ひな兄に教えてもらったのと似たような問題結構出てきたんだよ」
「ははっ、それは良かったな」
車内に流れる穏やかな雰囲気に、陽汰の顔には自然と笑みが浮かび上がった。
何気ない会話を続けながら車を走らせ、都会の景色から海の見える景色へと変わり、海辺の駐車場へと車を停める。
2月下旬という時期もあり、海には二人以外の姿は見当たらなかった。
「うっ…やっぱまだちょっと寒いな」
「あ、ひな兄ちょっと待って。はい、これ」
「ん?」
晴斗のほうを振り向くと彼が巻いていたマフラーが陽汰の首へと巻かれた。彼の香りが鼻腔をくすぐり、その香りと暖かさに包まれる。
「俺はそんな寒くないから、ひな兄が使って」
「…ん、ありがと」
彼のさり気ない優しさに耳の先が赤くなるのを感じ、陽汰はそれを隠すようにマフラーに顔を埋めた。
マフラーから香る爽やかな匂いの中には少しだけ甘い香りも混ざっている。
馴染み深い、金木犀の香り。それは紛れもない陽汰の香りだ。
一緒に暮らしているのだから香りが混じり合っていてもおかしくはないが、二人の香りが混じっていることに以前は抱かなかった感情が湧き上がってくる。それを深く考えるのは何故だか気恥ずかしく、陽汰は小さくふるふると首を横に振った。
「ひな兄、どうかした?」
「…なんでもない」
耳だけではなく頬まで赤くなっている気がして、陽汰はそれを隠すようにスタスタと歩き出した。
夕日の中、陽汰のネイビーのロングコートが風ではためき、黒のスキニーパンツを履いたほっそりとした脚が覗いた。身長が高いほうではないが、その後ろ姿からは人を惹き付ける魅力が漂っている。
晴斗が立ち止まったままぼんやりとその後ろ姿を見つめていると、陽汰がくるりと振り返った。風で乱れた髪がいつもとは違う雰囲気を醸し出し、晴斗の心臓がドキッと跳ね上がる。
「晴斗?どうした?置いてくぞ」
「あ、うん、今行く」
小走りで陽汰に追いつき、隣に並んでちらりと彼の方へと視線を向ける。すると彼は晴斗の視線にすぐに気がつき、ばちりと目が合った。
大きな瞳、僅かに赤くなった頬、潤いのある唇、魅力的な彼の顔から目が離せなくなり、今すぐにでも抱きしめたい衝動に駆られる。だが、両手をぎゅっと握りしめてその暴発しそうになった感情をなんとか押さえ込んだ。
「俺の顔に何かついてる?」
「えっ?」
「なんかじっと見てたから」
「な、なんでもないよ!あ、あそこのベンチ、ちょっと座らない?」
晴斗の指さす方向には海を見渡すようにベンチが置いてあり、二人揃ってそこに腰かけた。
夕日のオレンジ色が海に反射し、キラキラとした光が美しく輝いている。ゆっくりと沈んでいく太陽を眺めながら静かな波の音を聞いていると冷たい風が頬を撫ぜた。
「…もうすぐで卒業か…」
陽汰がぽつりと漏らした「卒業」という一言。それは二人で決めた期限でもある。
「うん…そうだね…」
ちらりと晴斗のほうを見ると彼は陽汰のほうをじっと見つめていた。目が合うと何かを言いたげに軽く口を開いたが、それはすぐに閉じられてしまった。
陽汰は視線をゆっくりと海の方へと戻し、揺らめく水面を見つめていると小さな声が聞こえてきた。
「……陽汰」
いつもとは違う呼び方に指先がきゅっと丸まる。心臓の鼓動が僅かに早まるのを感じながらも視線を動かさずにいると、再び二人の間を風が通り過ぎた。
「……好きだよ…ごめん……」
その声は風の音と波の音で掻き消されてもおかしくない声量だった。だが、陽汰の耳にはそれがはっきりと聞こえていた。
彼の口から何度か聞いた「好き」という言葉。
今までその言葉を受け入れることができなかったし、受け入れてはダメだと自分に言い聞かせていた。だけど、今聞いた「好き」という言葉は今まで拒んでいたのを全てひっくり返すようにすとんと胸の奥へと落ちていく。まるで今まで固く閉じていた蕾が春の暖かさで花開くように、陽汰の心の中に温かさと幸せな気持ちが広がっていった。
陽汰は一度瞼を伏せたあと、視線は海のほうを見たまま呟いた。
「今の、もう一回言って」
「ごめん…」
「その前」
晴斗はその言葉に少し躊躇しているようだった。
彼が今どんな表情をしているのかはわからない。意を決したように両手を握り締めたのが視界の端にちらりと映り込んだが、聞こえてきた声は先ほどよりも小さく震えていた。
「……好きだよ、陽汰」
潮の香りの中に僅かに香る、晴斗の香り。最初は怖かったその香り。だけどいつからかその香りは陽汰を優しく包み込み、安心感を与えてくれるようになっていた。
海のほうへ向けていた視線を晴斗のほうへと向けると、彼は俯いたままぎゅっと握り締めた手を見つめている。握り締めすぎているせいなのか、寒さからなのかはわからないが、その手は赤みを帯びていた。
陽汰は彼の赤くなった手にそっと自分の手を重ね合わせた。晴斗の身体がピクッと跳ね、恐る恐るといった様子で陽汰のほうへと顔を向ける。
「ひな…ッ!?」
彼の言葉を遮るように陽汰は彼の唇へ自分の唇を重ねた。
それは軽く触れるだけの口付け。
2月の寒さで二人とも唇は冷たくなっていたが、触れ合った場所からは一気に熱が広がっていく。
伏せていた瞼を開け、両手で晴斗の頬を包み込んだ。彼は一体何が起こったのか理解できていないという表情を浮かべており、その顔に小さく笑みが零れてしまう。
ずっと弟みたいだと思っていた晴斗。けど、いつの間にかその存在は別のものになっていたんだ。
自分の心に正直になるのが怖くて逃げてたけど、もう逃げたくない。
「…晴斗、俺も…お前のことが好きだよ。もうお前のこと弟だとは思ってないから…これからは俺のこと…その…彼氏、って思ってくれる?」
晴斗は目を見開いて驚きの表情を浮かべていた。夕日に照らされた瞳が徐々に潤んでいき、目尻に綺麗な雫が溜まっていく。その雫が落ちる前に陽汰は指先でそれを拭い、眉尻を下げながらも口元には笑みを浮かべた。
「バカだな、泣くことないだろ」
耐えようとしていたが陽汰の声にも若干の震えが混じっており、目頭が熱くなっていた。それを誤魔化すように少し俯くと、今度は晴斗の大きな手が陽汰の両頬を包み込んだ。
指先は少しひんやりとしていたが、その手のひらはとても温かく、寒さを忘れさせてくれるようだった。
晴斗の両手に顔を上げさせられ、瞳をじっと見つめられる。
潤んだ視界に映る彼は優しい微笑みを浮かべていた。
「そう言う陽汰も泣いてるじゃん」
既視感のある言葉にピクっと身体が震えた。その言葉は前に見た夢の中で晴斗が言っていた言葉と同じだ。
あの時は二人で子どもができたことを喜んでいた幸せな夢。自分には到底掴めないと思っていた幸せ。状況は違えど、今の幸福感はあの夢の中と同じに思える。
それに気付いた瞬間、堪えようと思っていた涙がじわりと浮かび上がってきてしまい、今度は晴斗が陽汰の涙を指先で拭った。
「ねぇ、晴斗…さっきのもう一回言って?」
「好き、大好きだよ、陽汰。俺が陽汰のことを誰よりも幸せにしてあげたいし、一緒に幸せになりたい」
こくりと頷き、陽汰は再び晴斗の唇へと自分の唇を重ね合わせた。
ちゅっと軽く触れるだけにしようと思っていたが、それだけでは物足りなく感じてしまい、何度もちゅっちゅっとキスを繰り返していく。
少し唇を開けると晴斗も同じように唇を開けて互いの舌先を合わせた。晴斗の舌の熱さにピクッと身体が跳ね、反射的に舌を戻すと、晴斗がそれを追うように口内に舌を侵入させてくる。
「んっ…ぅっ…ちゅっ…」
口蓋や歯列を舐められ、舌を絡め取られ、呼吸がどんどん乱されていく。何度も唇を重ね、少し離れては惜しむように再び求め合った。
まだ寒さの残る夕暮れ時、気温はますます下がっていったが、二人の間で混じり合う息は何よりも熱くなっていた。
「っ…陽汰、ここ、乗って」
晴斗が指差したのは彼の腿の上だ。外でそんな恥ずかしいことできないと、一瞬逃げようかと思ったが、それよりも早く晴斗に抱き上げられてしまった。そして、晴斗を跨ぐ形で座らされてしまう。
「はるとっ、誰か来たら…」
「ちょっとだけ。こうさせて」
晴斗の左腕が陽汰の細い腰を抱き、右手は陽汰の髪へと差し込まれた。
少し茶色がかった黒髪は、今は夕日に照らされていつもよりも茶色みを増している。細くさらさらとした髪が指の間を滑り落ちていき、そのまま耳を指先で撫でると陽汰の身体が小さく跳ね、頬の赤みが増した。
「可愛い」
「うるさっ…ンッ」
耳の縁を親指と人差し指で揉まれ、つい甘い声が漏れてしまう。晴斗に触られた場所から熱が広がっていき、ダメだと思っても身体が晴斗のことを求め始めていた。
「はる、とっ…」
「んー?」
わざとらしく間延びした返事をしながら、晴斗は未だに陽汰の耳を弄っている。
ぴくぴくと反応を示してしまうのが悔しく、陽汰はそれを止めさせるように晴斗の下唇を軽くかぷっと噛んだ。すると、お返しとばかりに噛み返され、それだけでなく舌も強めに吸われてしまう。
「んっ、ぅっ…」
ぢゅっと吸い上げられ、キスだけで頭がくらくらとしていく感覚に陽汰の瞳には生理的な涙が浮かび上がった。
空がオレンジ色から濃紺色に徐々に変わっていく中、陽汰の潤んだ瞳には晴斗だけが映っている。
「はると…」
「うん」
こんなこと言っても良いのかな、と一瞬迷ったが、陽汰はもう自分に嘘はつかない、正直にいようと思った。
長い睫毛を少し下げ、晴斗にぎゅっと抱きつく。そして、彼の耳元で堪えきれなくなった気持ちを囁いた。
「……晴斗、お前が、欲しい…発情期とかアルファだからとか、関係なく…晴斗が欲しい」
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