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第二部 3章 晴斗、ごめん
「あれ?陽汰出かけるの?今日バイトだっけ?」
「ううん、ちょっと用事。そんなに遅くはならないと思う」
「何処行くの?」
「んー、内緒」
陽汰は悪戯っぽく口角を上げ、しーっと人差し指を唇に押し当てた。
今日の彼は朝から何やら機嫌が良く、それがこの用事に関係しているのかもしれない。
「変なとこには行かないから心配しなくて良いからな。帰ってきたら教えるよ、多分」
「多分、なんだ?」
「まぁね、そこは俺の気分次第ってことで」
「ははっ、わかった。教えてくれること楽しみにしてるよ。あ、陽汰、ちょっと待って」
陽汰が顔を上げると晴斗の柔らかな唇が陽汰の唇に重なった。
それは触れるだけの口付けだったが、離れた後の晴斗の表情はまさに幸せに満ち溢れているといった様子で妙に気恥ずかしくなってくる。
「いってらっしゃいのキス」
「…は、恥ずかしいこと言うなよ…」
「良いじゃん、新婚さんみたいで。あ、あとこっちも」
「ん…っ…ぁっ…」
うなじに柔く噛みつかれ、つい口から甘い声が漏れ出てしまう。
そこには一ヶ月ほど前に晴斗によってつけられた番の証が残されていた。
もう番になったのだから心配しなくても良いはずなのだが、晴斗は何かにつけてこの場所にキスや噛み跡を残してくる。まるで傍にいなくても陽汰のことを必ず守るとでも言っているようで、陽汰自身もその行動に嫌な気はしなかった。
新たについた歯形をぺろっと舐められ、身体がじわじわと熱くなってしまう。
そのまま流されそうになったが、家を出なくてはいけない時間が迫っていることを思い出し、陽汰は慌ててうなじを手のひらで覆い隠した。
「も、もうおしまい!行ってくるから!」
「うん、気を付けていってらっしゃい」
「い、ってきますっ…!」
赤くなった顔を誤魔化すように陽汰は玄関を飛び出し、熱を逃すように首を横にふるふると振った。
最近ますます晴斗が大人っぽくなってきたような気がする。それと同時に前にはなかった余裕が見えるようになり、陽汰のことをこんな風に翻弄してくるのが日常茶飯事になっていたのだ。
「はぁ…俺のほうが年上…だよな…」
独り言ちながら手元の時計を見ると予約の時間までもうあまり残されておらず、陽汰は歩調を少し早めて目的地へと向かった。
◆
「陽汰くん、久しぶり。今日はどうしたの?」
「あの…改めて検査してもらいたくて…その、妊娠しているかと、もし、していなくても確率上がっていないかなって…」
医薬品の匂いが漂う診察室内。陽汰は以前にも世話になった医師の元を訪れていた。
あの時は、無理やりの行為で妊娠していたらどうしようかと不安でいっぱいだった場所。そして、妊娠しにくい身体だとわかり、自分は出来損ないのオメガだと突きつけられた場所。
そんなあまり良い思い出のない場所に自ら足を運んだのは、番になったときに晴斗が言っていた『奇跡』を信じてみたい、そう思ったからだ。
妊娠していたら、今なら心から喜べる。していなくても確率が5%から少しでも上がっていたら、これからの奇跡を信じて治療に踏み切ろうと。それがこの一ヶ月考えて出した陽汰の決断だ。
検査することに不安が少しもないというわけではないが、それよりも二人の幸せな未来を描きたいという気持ちのほうが大きかった。
その期待が顔にも滲み出ていたのか、医師は一瞬驚いた様子を見せたもののその表情はすぐに柔らかなものへと変わった。
「なるほど。あの時の彼と上手くいったんだ?」
「はい、いろいろありましたが、彼と番になりました」
「それは良かった。じゃあ、検査だけど、前回と同じ感じで進めるので大丈夫かな?」
「はい、よろしくお願いします」
前回の検査では初めてのことばかりで緊張してしまったが、今回は二回目ということもあり、前回ほどの緊張はなかった。しかし、生殖腔を調べる時には前回のときもあった痛みが再び起こり、やはりこの痛みはなくなっていなかったか…と心の中で溜め息を吐いてしまう。
内診までを終わらせ、服を整え終えると医師は顎に手を当てながら陽汰に話しかけた。
「陽汰くん、残念だけど今回は妊娠してなかったよ」
「そう、ですか…。ははっ、そんな上手くいくわけないですよね」
「うん。それで、妊娠の確率だけど、今回もMRIやらせてもらっても良いかな?」
「大丈夫です」
妊娠していなかったことに少し落ち込みはしたが、その結果を悲観するほどではなかった。
元々妊娠確率が低いのだから番になってすぐにできるわけがないと心の片隅で思っていたのもあるかもしれない。けど、それ以上に、実際に晴斗が近くにいなくても彼がすぐ傍で陽汰のことを温かく包み込んでくれている。そんな感覚がしていたのが大きかった。
妊娠してなくても良いんだよ、これからもずっと一緒にいるんだから。
そんな風に彼が言ってくれている気がしたのだ。
うるさい音が鳴り響くMRIの検査中も陽汰は不安よりも期待のほうが大きかった。
なんとなく、全てが良い方向に向かっているような気がしており、長めの検査もそこまで疲れを感じることなく終わりを迎えた。
「東条さん、診察室に入ってください」
「はい」
再び診察室に呼ばれ、椅子に腰掛けながら机の上に置かれている紙へと視線を向ける。そして、陽汰の視線はある一点で固まってしまった。
【1】
初めてこの紙を見た時だったらその場所に書かれている数字が何を表しているのかわからなかっただろう。しかし、陽汰がこの検査結果の用紙を見るのは二回目だ。そして、前回のその場所に書かれていた数字はよく覚えている。
【5】であったと。
それは陽汰の妊娠の確率を表していた。
前回は5%だったはず。たったの5%。だが、今そこに書かれているのはそれよりも低い【1】だ。
陽汰が固まっていると、医師も言いにくそうにしながらも職務を全うするように口を開いた。
「陽汰くん…前回も見たからわかるよね…君の妊娠の確率、1%に下がっている」
「……どう…して…」
静かな診察室内に小さな声が零れ落ちる。視線は紙の上に囚われたまま動かすことができず、血の気が引いたように唇が冷たくなっていく。
「……原因はわからない…だけど確率が下がってしまったのは事実なんだ…僕も力になってあげたいんだけど、治療をして改善するという約束をすることはできない…医師としても、僕個人としても本当に悔しいんだけど…ごめん」
医師の口から零れた無力感に満ちた謝罪に、陽汰はゆっくりと紙の上から視線を動かした。
視界に映った医師の顔には悔しさが滲んでいる。彼が嘘を言っているようには到底見えない。
「……謝らないで、ください…俺の身体が…悪いんですから…」
「陽汰くん、あまり自分を責めないで。ここの病院じゃちょっと無理だけど、大きな病院だったら治療法があるかもしれない。もし必要なら紹介状も書くから」
陽汰は小さく首を横に振った。
いろんな感情が浮かび上がってきそうになる。だけど、今は何も考えられない……いや、考えたくなかった。
「…いえ、大丈夫です…元々5%で、諦めていたことなので…検査、ありがとうございました…」
「……うん」
少しふらつきながらも椅子から立ち上がり、診察室から出るとちょうど目の前にはお腹を大きくした男性オメガがいた。その傍らには優しげな表情を浮かべた男性がおり、オメガのお腹を愛おしげに撫でている。
「……」
彼らの幸せな光景を横目に陽汰は会計を済ませて帰路へとついた。
何も考えることができず、どの道を通ってどうやって家に帰ったのかわからない。だが、気が付けばキッチンの前に立っていた。
壁にかけてある時計のカチカチという音が陽汰を現実に引き戻し、窓の外から差し込む夕日が時間の経過を告げている。
「……夕飯…作らなきゃ…」
自分に言い聞かせるように呟き、いつもと同じ動きを再現しようとする。
いつものように乾いた食器を片付ける。いつものように料理をする。そう、いつも通り、何も変わらない。
何も変わっていなかったんだ。
晴斗が帰ってくる前に夕飯の準備を終わらせて、晴斗と一緒に笑いながら食事をすれば、きっと大丈夫。
「…ふっ…ぅっ…っ…」
陽汰の意思に反していつも通りにしようと思えば思うほど瞼は熱くなり、瞳からは堪えきれなくなった涙がぼろぼろと頬を伝って落ちていく。
霞む視界の中、震える手で食器を片付けようとしたが、その手はグラスを上手く掴むことができずに手の中から滑り落ちてしまった。
ガシャンッ――
大きな音が鳴り響き、ガラスが床に飛び散る。その破片はスキニーパンツの隙間から僅かに覗いていた陽汰の素肌を切り裂いた。
「痛っ……」
鋭い痛みに眉を顰め、床へと視線を落とす。涙で歪んだ視界の中に金色で書かれた文字が見えた。
それはシンプルな書体で書かれた文字の一部。
陽汰と晴斗が付き合った日の日付だ。
粉々になってしまったグラスは少し前に陽汰が晴斗にプレゼントしたものだった。
自分は晴斗に何もあげてやれない。だから、せめて記念日は大切にしたい。そんな思いでこれを彼に送った。
その瞬間、陽汰の中でギリギリで保っていたものがパリンッと音を立てた。それはまるで目の前のグラスのように。
「…っ…はる、とっ……ごめっ…ひ、ぅっ…ごめんっ……」
◆
「ただいまー…あれ、陽汰…?」
いつもならば陽汰がキッチンで夕飯を作り、家の中は良い匂いと明るい光で溢れている時間だ。しかし、家の中は真っ暗で声をかけても返事はない。
まさかまだ帰って来ていないのかと訝しみながらカチッと玄関の電気を点ける。そこに陽汰の靴はなく、やはり家の中に人の気配はなかった。
今日はそんなに遅くなるとは言っていなかったし、何処に行くのかも内緒だと言っていた。もしかしたら、その用事が長引いてしまっているのかもしれない。そう思いながら家の中に入り、キッチンの電気を点けた瞬間、晴斗の思考が停止した。
床に散らばる砕けたガラス。ぽつぽつと残る乾いた血の跡。
スッと血の気が引き、何か考えるよりも先に晴斗は陽汰の部屋へと駆け込んだ。
「陽汰!」
部屋の中は真っ暗だ。陽汰の姿も書き置きすらもない。
急いで陽汰に電話をかけてみるが電源が入っておらず、そこから流れてくるのは虚しい自動音声のみ。
もしかして、何か事件に巻き込まれたのでは。事故にあったのでは。
嫌な予感が頭の中を埋め尽くし、気が付けば晴斗は家を飛び出していた。
何処に行けば良いのかなんてわからない。とにかく陽汰の行きそうな場所を手当たり次第探すしかなかった。
大学の中、バイト先、いつも陽汰が行くスーパー、大学の帰りによく二人で寄るコンビニ、講義の時間が合った時は一緒に歩く大学までの道。考えられるありとあらゆる場所を駆け回った。しかし、その何処にも陽汰はいない。
「は、ぁっ…はぁっ…陽汰っ…」
もうどれくらい走り回ったかわからないが、全身汗だくになっていた。
汗の匂いに混じって抑えきれないアルファフェロモンも出ており、すれ違う人々に訝しげな視線を向けられる。だが、そんな視線を気にしている余裕なんてなかった。
晴斗は自身から漂う森林の香りを感じながら大きく息を吐き出した。
「…何処、行ったんだよ…」
もう行きそうな場所は行き尽くしてしまった。この街で陽汰が行きそうな場所は他にないはずだ。
たった一人の、大切な人を見つけだせないなんて。
周りはしんっと静まり返っており、小さく鳴く虫の音と晴斗の息遣いだけがその場に響いていた。
もう一度、陽汰が行きそうな場所を考えてみよう。
自身を落ち着けるように息を吐き出してから頭上を見上げる。すると、そこにはたくさんの星が輝いていた。
街の明かりによって都会ではなかなかみることのできない光景だったが、少し郊外の公園で足を止めたことでその星の輝きが瞳に映った。
こんな風に星を見上げることなんていつぶりだろうか。
昔は田舎に住んでいたから陽汰とよく天体観測をしていた。二人が育ったあの場所はいつでも綺麗な星が見れる場所だったから。
「……星…田舎…もしかして…」
晴斗は藁にも縋る思いで連絡先から「東条」の名前を探し出し、そこに電話をかけた。
数回のコール音の後、懐かしく、優しい男性の声が聞こえてくる。
「晴斗くん?久しぶりだね」
「お久しぶりです…あの…陽汰、そっちに帰ってませんか?」
「…うん、帰ってきてる」
「本当ですか!?あの、俺も今すぐそっち行きます」
「待って。もう新幹線の時間、終わってるよ」
彼の言葉に腕時計を確認すると時刻はすでに深夜0時を回ろうとしている。
陽汰を探すことに必死になりすぎてこんなにも時間が経っていたことに全く気付かなかった。
「陽汰は家にいるから大丈夫だよ。もし、来るなら明日、ね?」
「……はい…明日、必ず行きます…こんな遅くにすみませんでした」
「ううん、気にしないで。じゃあ明日ね」
電話を切り、晴斗は再び空を見上げた。
空に輝く星空が二人を繋いでくれているような気がして、不安、焦り、恐怖、いろいろな感情が渦巻いていた気持ちが少しずつ落ち着きを取り戻していく。
陽汰に一体何があったのかはまだわからない。だけど、彼が何も言わずに実家に帰るなんて相当なことがあったはずだ。
番として、恋人として、彼の支えになれていないことは悔しかった。だけど、今はただ彼が無事だったということに、晴斗の壊れそうになっていた心は持ちこたえることができていた。
晴斗は空を見上げたまま拳を強く握りしめ、言葉を紡いだ。それはまるで遠くにいる陽汰に話しかけるかのように。
「陽汰、絶対、俺が陽汰の支えになるから」
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