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第二部 4章 優しさが、苦しいんだよ
陽汰がいない夜を過ごし、晴斗は朝一の新幹線で地元へと帰った。
駅を出ると真っ先に陽汰の実家へと向かい、一度呼吸を整えてから玄関のインターホンを押す。
バクバクと鼓動が早まり、もう一度深く息を吐き出すのと同時にガチャと扉が開いた。
「ひなっ…!あ、柚希さん、すみません…」
「あははっ、陽汰と間違えるくらい似てた?それにしても晴斗くん、久しぶりだね。ごめんね、陽汰が迷惑かけちゃって」
愛らしい笑顔を向ける陽汰にそっくりの男性、それは陽汰の生みの親のオメガだ。陽汰よりも少し身長は低いが、顔は陽汰にそっくりであり、親というよりも兄弟に見えるくらいに若々しい。
「いえ、迷惑だなんてそんなこと…それより、陽汰は大丈夫ですか?」
「んー…本人は大丈夫って言ってるけど、相当参ってるみたい。帰ってきてからも部屋に篭りっきりで」
「そう、ですか……あの、会っても良いですか?」
「うん。入って」
案内されるまま陽汰の部屋へと向かい、コンコンと小さくノックをする。しかし、部屋の中からの返答はなく、軽く息を吐いてから柚希のほうへと視線を向けた。
「いいよ、部屋入っても。もしかしたら寝てるかもしれない」
「はい…」
部屋の中は電気が点いておらず、閉められたカーテンの隙間からは微かに太陽の光が漏れている。
久しぶりに足を踏み入れる陽汰の部屋は、一見すると以前と何も変わっていないように見えた。だが、いつもは整理整頓されているはずの机の上には無造作に鞄が置かれ、中身が散乱している。
その中にはずっと繋がらなかったスマートフォンも混ざっていた。きっと電源は入っていないのだろう。画面は真っ暗なまま、通知を知らせる光すらも点いていない。
胸がズキっと痛みながらも視線をベッドのほうへ移すとそこには膨らみがあり、陽汰が頭まですっぽりと覆って中にいることがわかった。
「……」
「…晴斗くん、僕は外で待ってるね」
「はい、すみません…ありがとうございます」
ゆっくりと扉を閉め、ベッドのほうへと足を進める。
陽汰は寝ているのか…?
もし寝ているのなら起こさないほうが良いのだろうが、一目だけでも良いから顔が見たかった。
あと数歩の距離まで近付いたところで、布団の中で丸まっている陽汰がぎゅっと身を縮こまらせた。まるで自分を守るように布団を強く掴み、身体を震わせている様子が布団越しにも伝わってくる。
「……ッ」
晴斗は少し躊躇った。しかし、ぎゅっと手を握り締めた後、布団の中にいる彼を怖がらせないように優しく声をかける。
「陽汰、大丈夫?」
「……大丈夫」
くぐもった声が聞こえ、陽汰が完全に晴斗のことを拒否しているわけではないことに少しばかり気持ちが軽くなる。しかし、聞こえてきた声は小さく、掠れ、言葉とは裏腹に全然大丈夫なようには思えなかった。
「陽汰…」
縮こまっている彼の身体を布団の上から撫でようとしたのだが、触れる直前に微かな震えを感じ取ってしまった。
指先をきゅっと丸め、眉間に皺を寄せながら奥歯を噛み締める。そして、喉から絞り出すように声を出した。
「……全然、大丈夫じゃないよ、陽汰。お願い、顔見せて」
陽汰は出てきてくれないかもしれない。
彼が晴斗に対して理由もなく、ここまで怯えた姿を見せたのは初めてだった。晴斗がアルファになって制御できずに彼を組み敷いてしまった時でさえ、彼は恐怖を押し殺して晴斗と向き合ってくれた。だが、今の彼は理由も言わず、手負いの動物が傷を隠すようにその身を隠している。
カチッ、カチッと鳴る時計の音だけが室内に響き渡っていた。
その一秒一秒を刻む音が晴斗の心を急かせ、それを表すかのように意図せずにアルファフェロモンが流れ出てしまう。
晴斗は自分の香りにハッと気がついたが、すでにその香りは部屋の中に充満しており、元々あった陽汰の香りを覆い尽くそうとしていた。
それは布団の中にいる陽汰にも届いてしまったようで、布団がもぞもぞと動き、丸まっていた身体がゆっくりと起き上がった。
たった一日離れていただけなのにその顔は随分とやつれたように見える。そして、ずっと泣いていたのか目元は赤くなり、目の下にはクマもできていた。
陽汰は視線を落としたまま、まるで差し伸べられた手を振り払うかのように小さく呟いた。
「本当に大丈夫だから…放っといて…」
「ッ……放っとけるわけ、ないっ…陽汰が俺のことを昔から見ていたように、俺も陽汰のこと昔から見てたんだよ…何かあったんだよね……俺には、言えないこと?」
「……」
陽汰は少しだけ視線を上げて晴斗の顔を見た。
晴斗が優しさで言ってくれているのは痛いほどわかる。きっといきなりいなくなった陽汰のことを必死に探したはずだ。
昨日の夜、柚希に電話がいったことも、今日も朝から晴斗が来ることも知っていた。
晴斗はこんなにも陽汰のことを思ってくれている。
「陽汰…?」
……本当は、素直に嬉しいって言いたい。だけど、今の自分には彼の優しさを素直に受け止めることができなかった。
優しくされればされるほど、自分が晴斗に返してあげられるものは何一つない気がしてきて……今はその優しさが、辛かった。
「……もう、俺に優しくしないで…お前の優しさが……苦しいんだよ…」
静かな空間に零した言葉に、視界の端に映る晴斗の手が強く握りしめられるのが見えた。陽汰はそれから目を逸らすように視線を落とし、布団の上を見つめる。
震える手で布団を握りしめながら零した言葉は、お願いであり、拒絶だった。
どんなに優しい晴斗でも、こんなことを言われたら陽汰のことを見捨てるかもしれない。心ではそんなことにはなってほしくないと叫んでいたが、口から出たのは彼を突き放す言葉だった。
「ひなっ」
「もう…嫌なんだよ……どうせ俺は出来損ないなんだ。お前に優しくされる資格も、お前を幸せにしてやる資格もない。お前の優秀な遺伝子を残してやることもできない。こんな俺に構わなくていい」
ずっと堪えていたものがガラガラと音を立て、崩れていくような感覚がした。
声が震え、流し尽くしたと思っていた涙が浮かび上がってくる。
こんなこと晴斗に言いたくない。
だけど、一度溢れてしまったものは陽汰自身にも止めることができなくなってしまった。
「晴斗は奇跡が起こるかもって言ってくれたっ…だけど、俺にはそんな奇跡は起こせな、いっ…っ……おれにはっ…何も、できないっ…ふっ…ぅっ…ひっ、くっ…もう、やだっ…こん、な…からだっ…なんでっ…ひ、ぅっ…」
もう陽汰は自分でも何を言っているのかわからなかった。ぼろぼろと涙が頬を伝い落ち、言葉は嗚咽に変わっていく。
それを隠すように両手で顔を覆うが、暗くなった視界は更に涙を流させた。
「ひっ、く…っ…ふ、っ…」
「陽汰…」
顔を覆って肩を震わせながら泣き続ける陽汰を晴斗はそっと抱き締めた。
今の陽汰に一体どんな言葉をかければ良いのかわからない。何か言わなければいけない。陽汰を落ち着かせる言葉を言わなければ。だけど、こんな時に限って上手い言葉が何一つ出てこない。
「ひ、な…」
言いかけた彼の名前は、ぐっと胸を押されたことによって遮られてしまった。
押したのは他の誰でもない、腕の中に抱いた陽汰だ。
「……少し…一人にして…」
か細く震える声がそう告げた。
晴斗の胸を押す指先は震えており、今すぐにでも両手でそれを包み込んであげたかった。だが、それを拒否するように陽汰の口から再度言葉が漏れた。
「…お願い…」
「っ…」
離れたくなかった。せっかく腕に抱いた陽汰をまた離してしまうなんて。しかし、晴斗の思いを拒絶するように陽汰は胸を押す手の力を強めた。
「……わかった…」
晴斗は陽汰を抱き締めていた腕をゆっくりと下ろし、振り返ることなく陽汰の部屋を出て行った。
廊下に出ると窓から差し込む明るい日差しの中、柚希が眉尻を下げて立っていた。
「晴斗くん、大丈夫?」
「…はい…俺は全然……ただ、陽汰のこと支えられない自分が情けなくて…」
「晴斗くんは十分陽汰の支えになってるよ。ただ、今は少し陽汰に時間をあげてほしいな。冷静になれば陽汰のほうから話すと思うから」
確かに、彼の言う通りなのかもしれない。
陽汰は明らかに混乱していた。きっと陽汰自身もあんなこと言おうとは思っていなかったはずだ。そして、晴斗自身も冷静さを欠いていたのは事実。でなければ陽汰が出てこないことに焦ってフェロモンを放出するなんてことしなかっただろう。
あれはまるでフェロモンを使って陽汰を脅し、無理やり彼の殻を破ってしまったようだった。
今はお互いに少し冷静になる時間が必要なのかもしれない。
「すみません、ご迷惑をおかけして。俺、一回家に帰りますね。もし、陽汰が話せるようになったら教えてください」
「うん、わかった。晴斗くんも実家に帰るの久しぶりでしょ?お母さんたちに立派になった姿見せてあげるといいよ。こんなに良い男になったんだから」
ぽんぽんと肩を叩く柚希の姿に思わず笑みが浮かび上がる。
柚希は昔から人を慰めたりなだめたりするのが得意だ。それこそ、晴斗が両親と喧嘩して家を飛び出した時も柚希は優しく慰めてくれた。そのことは今でも鮮明に覚えている。
「相変わらず柚希さんは口が上手いですね」
「えー、本当のことなのに。僕が陽汰だったら間違いなく惚れてたな。あ、けどうちの蓮には敵わないか」
「蓮さんとラブラブなのも相変わらずですか?」
「もっちろん!蓮は年とってますます男らしさがアップしたしね、自慢の旦那様だよ。あっ、ほらほら、こんな所もし蓮に見られたら嫉妬されちゃうよ」
「ははっ、そうですね。じゃあ、おじゃましました」
よく晴れた秋空の下、晴斗はスーッと大きく息を吸い込んだ。肺に入る新鮮な空気が頭と心をすっきりとさせていく。
不安が完全になくなったわけではない。だが、陽汰とそっくりな柚希の笑顔を見たことによって少し前向きに考えられるようになっていた。
彼の笑顔は、陽汰も晴斗も大丈夫だよ、と言ってくれているような不思議な力があった。
「やっぱ、さすがだな…俺ももっと強くならないと」
気合いを入れるように呟くと、ふわりと風に乗って金木犀の香りが晴斗を包み込んだ。
9月も後半に差し掛かり、陽汰と同じ香りの花が咲く季節。この辺りは特に金木犀の木が多く、晴斗にとって大好きな場所だった。
チリン、チリン
「ん?」
風に乗って聞こえてきた鈴の音に辺りを見渡すと薄茶の毛をした猫がタッタッタッと金木犀の木の下を走って行った。
その猫はちょうど陽の当たるコンクリートの上に寝転がり、そのまま気持ちよさそうにごろごろと転がり始めた。
自由気ままなその姿をしばらく見つめていると、ふと過去に陽汰と交わした言葉が頭を過ぎっていく。
それは二人が田舎から都会に引っ越す前に交わした何気ない会話だ。
「ひな兄、引越し先って猫OKなんだね」
「ん?あぁ、そういえばそうだった。寂しくなったら飼おうかな」
「寂しくなることなるかあるの?」
「…晴斗がいるならそれはなさそう。だけど、お前もいつまでいるかわからないからな」
「えー、なんかそれひどくない?」
「プッ、ごめんごめん。可愛い彼女ができて出ていくとか言い出すかもって思ってさ。ほら、さっさと必要な物買って帰ろう」
あの頃はまさか陽汰と付き合うことになって、番になるなんて思ってもいなかった。だが、今は恋人であり、番である。かけがえのない存在だ。
そんな大切な存在である陽汰が立ち直るために晴斗ができることはきっと何かしらあるはず――
「そうだ…!」
ハッとあることを思いついた晴斗は金木犀の木の横を急いで駆け出した。
陽汰がこの提案を飲んでくれるかはわからない。だけど、今できることは全部やりたかった。
「陽汰、俺たちなら、きっと大丈夫。乗り越えられるよ。だって、ただの幼なじみじゃないんだから」
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