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第二部 7章 帰ろう、俺たちの家に

「じゃあ、帰るね」 「うん、気を付けて。明日迎えに行くから」 「……」 「陽汰?どうかした?」  玄関ドアの取っ手を掴んだ陽汰がその場でぴたりと動きを止めた。何かを考え込むように視線を扉、床、晴斗へと移し、じっと彼のことを見つめる。 「ひな…ぅわっ!?」  晴斗の言葉を遮るようにして陽汰が突然ぴょんっと抱きついてきた。  彼の細身の身体が晴斗のしっかりとした身体にぴたりと密着し、柔らかい唇が晴斗の唇に重なり合う。  それは触れるだけの軽い口付けだったが、陽汰は満足気に笑みを浮かべた。 「帰る前にキス、したかった」 「~~~っ!陽汰、ずるいって…またヤりたくなっちゃうじゃん」 「はははっ、それはだめだよ。二人の家に戻ったら、ね?」  お預け、とでも言うように再び軽いキスを落としてから抱きしめていた腕をするりと解き、陽汰はくるっと身を翻して晴斗に背を向けた。  彼の髪の間から僅かに見えるうなじには晴斗の残した噛み跡や赤い跡が残っている。先ほど付けたばかりのそれは情事の痕跡であり、番の証だ。  昨日まではその跡があってもまだ何処かに漠然とした不安が残っていた。  陽汰が突然晴斗の前から消えたのも、ずっと悩みを打ち明けられなかったのも、番として不完全だったからだろう。  まるで身体は番として成立したが、心がまだ追いついていないような感じだった。しかし、今は心も身体も間違いなく繋がり合っていると言える。 「陽汰」 「ん?」 「好きだよ」 「ははっ、俺も。好きだよ、晴斗。じゃあ、もう行くね」  振り返ったら名残惜しくなってしまいそうで、陽汰は背を向けたままひらひらと手を振って外へと出た。  太陽はすでに傾き、空はオレンジ色から濃紺色に変わろうとしている。  静かな田舎道をのんびりと歩いていると穏やかな風がふわりと金木犀の香りを運んできた。その中には微かに森林の香りも混じっており、一瞬、晴斗がすぐ傍にいるのかと錯覚してしまう。しかし、その香りは陽汰から香っているものだった。  うなじから流し込まれた晴斗のフェロモンが陽汰から溢れ出ているようで、少し恥ずかしくありながらも彼に守られているようにも感じる。  隣にいなくてもずっと傍に寄り添ってくれている彼に話しかけるように陽汰はぽつりと言葉を零した。 「ずっと一緒だよ、晴斗」  ◆  翌朝、晴斗が陽汰を迎えに行くと玄関を開けたのは陽汰の父親である蓮だった。  晴斗よりも身長が高く、年齢を重ねても衰えを感じさせない風貌を持つ彼は晴斗にとって憧れの存在だ。  アルファの中でも更に優秀なアルファであり、仕事もかなりできる人物である。家では良き夫、良き父親として柚希と陽汰を溺愛し、晴斗も昔から可愛がってもらっていた。 「お、晴斗、久しぶり。随分男前になったな」 「お久しぶりです、蓮さん。ひな…兄、いますか?」 「ちょっと待ってろ、呼んでくるから」 「はい」  晴斗は思わず『陽汰』と呼びそうになったところをぐっと堪えた。  今まで蓮の前で『陽汰』と呼んだことは一度もない。小さな頃からずっと『ひな兄』と呼んでいたため、いきなり変わったら怪しまれてしまうと思ったのだ。  もっとも、昨日はそんなことに構う余裕がなく、柚希の前では『陽汰』と呼んでしまっていたが。  玄関で陽汰が出てくるのを待っていると部屋の奥のほうから何やらドタバタと慌ただしい音が聞こえてきた。そして、数分もせずに陽汰が現れたのだが、彼は珍しく寝癖を付けたままで、今しがた起きたばかりのように見える。 「晴斗、ごめんっ、ちょっと待ってて」 「う、うん」  それだけを言い残して陽汰は再びバタバタとリビングのほうへと駆けて行き、入れ替わるようにして柚希が現れた。 「晴斗くん、おはよう。ごめんね、陽汰がなかなか起きなくて」 「珍しいですね。いつもはそんなことないのに」 「そうだね、こんなに起きなかったのは小学生以来かも。…きっと、安心したんだろうね」 「安心?」 「うん。昨日、陽汰が晴斗くんにも話したでしょ?ずっと一人で抱え込んでたこと話せて、それを晴斗くんが受け止めてくれたことに安心したのかなって。あと…昨日ちょっと飲みすぎちゃってね」  晴斗の家から戻ってきた時の陽汰はまるで憑き物が取れたかのように晴れ晴れとした表情をしていた。  ずっと一人で抱え込んできたことも、それを隠しているということも重荷になっていたのだろう。  柚希も蓮も陽汰が突然帰ってきた時はその様子のおかしさに心配していたが、昨日の夕飯時は最近の生活や大学でのことを自ら楽しそうに話していた。そして、久々の家族三人での夕飯に気が緩んだのか、ついお酒のペースが上がってしまったのだ。 「ゆず~ぎゅってして」 「はいはい、陽汰は相変わらずお酒飲むと甘えん坊になるね?」  酔いが回る中、柚希の温かな身体に抱きつくとふわりと優しい香りが陽汰を包み込んだ。  安心する腕の中で瞼はゆっくりと下がっていき、身体の力がふっと抜ける。柚希の手が陽汰の背中をゆっくりと撫でるとその心地良さについうとうととしてきてしまう。 「陽汰ー?眠いの?」 「…んぅ……」  肩に顔を埋めた陽汰は額を擦り付けて眠気と戦おうとした。だが、すでに鉛のように重くなってしまった瞼は開くことを拒否している。  お酒の影響と優しく温かな腕の中、意識はすでに半分夢の中だ。  そんな二人の様子を見ながら蓮は何かを思いついたかのようにスマートフォンを取り出した。 「写真、撮っても良いか?こんな可愛い陽汰の姿、残しておかないともったいない」 「いいけど、陽汰が見たら恥ずかしがるからちゃんと隠しといてね」 「わかってるって。はぁ…本当、幸せだな…陽汰も無事にこんなに大きく育ってくれて…」  感慨深げな蓮の言葉に、柚希は陽汰を出産した時のことを思い出した。  陽汰に言ったことはなかったが、柚希は妊娠の確率が低いだけではなく、出産時にも生死を彷徨うほどの経験をしていたのだ。  柚希も陽汰も無事でいられるかわからない。  あの時告げられた言葉は柚希の人生の中で何よりも辛いものだった。  自分はダメでも陽汰のことだけは救ってほしい。だから、陽汰だけは連れていかないで。  そう、何度も願った。  出産時、一度は死の淵に立った。だけど、意識を失った中で陽汰の泣き声が聞こえ、それで柚希は戻ってくることができたのだ。  あの時の陽汰の泣き声は今でも鮮明に覚えている。陽汰は柚希を救い、柚希と蓮の元に来て、ここまで立派に育ってくれた。  この話を陽汰にすることは今後もないかもしれない。陽汰は優しいからきっとこの話をしたら自分のせいで柚希が死にかけたと思ってしまう。それよりも楽しいこと、幸せなこと、それをたくさん受け取ってほしい。それが柚希と蓮の思いだった。 「…んっ…そう、だねっ…幸せ、だね…」  言葉を詰まらせた柚希の頬に、温かく包み込むような大きな手が触れた。僅かに霞んだ視界の中、顔を上げると蓮が微笑みを浮かべている。 「柚希も、陽汰を立派に育ててくれてありがとう」 「…僕だけじゃなくて蓮も、でしょ?」  二人で笑い合いながら柚希が陽汰の背中を優しく撫でていると腕の中からはすぅすぅと心地良さげな寝息が聞こえてきた。  肩に顔を埋めたまま安心したように眠る陽汰の髪に触れると僅かにぴくっと身体を跳ねさせたが起きる気配はなく、背中を上下させながら眠り続けている。 「ふふっ、陽汰、寝ちゃった」 「こんなに甘えて、子どもの頃に戻ったみたいだ…けど、陽汰ももう大人になったんだな」  陽汰のほっそりとした首の後ろ、髪の隙間からは僅かに噛み跡が覗いていた。その場所に残された跡――それが番の証だということは誰が見てもわかるだろう。 「気付いた?」 「まぁ、この跡見ればな。何処の誰かはわからないけど、陽汰が紹介してくれるのを待つさ」  蓮は未だに気付いていないようだ。その跡を付けたのが晴斗だということに。  確かに、陽汰と晴斗は幼なじみで兄弟のように育ってきたから、その二人が番になるなんて想像できないのかもしれない。  柚希はとっくに気付いていたが、それを柚希の口から言うつもりはなかった。陽汰も一番最初は自分の口から伝えたいと思うだろうから。 「きっと、すぐにわかるよ」 「あぁ。そうだと良いな。よし、陽汰のこと、俺が部屋まで運ぶよ」 「うん、ありがと」  こうして陽汰は夜中の間も一度も起きることなく、朝までぐっすりと眠った。だが、朝になってもなかなか起きることができず、結果、寝坊をしてしまったのだ。 「ごめんっ、お待たせ!」 「うん、大丈夫だよ。じゃあ、行こうか?」 「あ、ちょっとだけ待って。父さん、こっち来て」  陽汰は蓮を呼びながら晴斗の横に立った。その表情には何か決意を固めたような雰囲気があり、晴斗も何故か緊張してきてしまう。そして、蓮が玄関に姿を現すと陽汰は一度ごくりと息を飲んでからきゅっと晴斗の手を握った。 「父さん…その…俺たち付き合ってるから」 「え!?」 「え!?」  陽汰のその言葉に驚いたのは蓮だけではなく、隣に立つ晴斗もだった。  まさかここで陽汰がそんなことを言い出すとは思わず、焦りながらも何か言わなければと必死に言葉を探し出す。 「あ、えっと、ひな兄、じゃなくて、ひなっ、陽汰さんとお付き合いさせて頂いております」  緊張と焦りで喋り方がおかしくなった晴斗に、陽汰はつい笑い出してしまいそうになる。握り締めた晴斗の手のひらはじんわりと汗を掻いており、彼の動揺がそこからも伝わってきた。 「そ、そうだったのか…え、もしかして柚希は知ってた?」 「うん、陽汰が帰ってきてすぐ気付いたよ。ほら、陽汰も晴斗くんももう行かないと新幹線に間に合わなくなっちゃうから。今度またゆっくりみんなでご飯でもしようね」  蓮はまだこの状況が飲み込めていないようで困惑していたが、それを宥めるように柚希が彼の腕をぽんぽんと叩いている。  両親の姿にクスッと笑みを零し、陽汰は握り締めた晴斗の手をぐいっと引っ張った。 「父さん、ゆず、また来るね」 「うん。気を付けて帰ってね」 「あっ、蓮さん、柚希さん、おじゃましました。あの、陽汰のことは任せてください!」  慌ただしくありながらも両親に晴斗との関係を伝えることができ、大切な人たちへの隠し事がなくなったことに陽汰の心が軽くなっていく。  ただの幼なじみではなく、番として晴斗と並んで生きていく。  柚希、蓮、そして、晴斗。愛してくれる人たちにこれが陽汰なりの生き方だって自信を持って言えるよう、もう自分が出来損ないだって悩んだりしないと決めた。  金木犀が香る秋晴れの心地よい太陽の下、隣に立つ晴斗の手をしっかりと握りしめながら陽汰は柔らかな笑みを浮かべた。  彼の明るい声が爽やかな風と共に晴斗の耳へと届く。 「帰ろう、晴斗。俺たちの家に」

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