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番外編 1章 抑制剤が効かない

 S高校、この学校には二人の有名なアルファとオメガがいる。  高身長、頭脳明晰、運動神経抜群のイケメンアルファである東条蓮。  男であるが可愛らしい見た目と優しい性格、成績は常にトップクラス、オメガの白川柚希。  二人はこの学校を代表するほど有名である。だが、二人きりで話すという機会は高校三年生になるまで一度もなかった。  ある日の放課後、柚希は体調を崩して保健室で休んでいた。オレンジ色の夕焼けが窓から差し込む中、ベッドで横になっているとガラッと扉の開く音が耳に入り、続いて「失礼します」という凛とした男性の声が聞こえてくる。 「あれ…先生、いませんか?」  保健室の先生を探しているであろう声が聞こえ、柚希は先ほど会議で先生が呼び出されていたことを思い出した。  この声の人物、保健室に来たということはきっと怪我をしたか体調を崩したということだろう。  柚希は自分の体調も悪かったが、保健室に用がある人物を放っておくこともできず、重い身体を起こしてカーテンを開けた。 「先生、会議でいないよ…」  扉の前に立つ人物――高身長のアルファ、東条蓮だ。  これが、柚希と蓮が初めて二人きりで会った瞬間だった。 「あれ、お前…白川柚希?」 「…そうだけど…君、怪我でもしたの?」 「あぁ、そうそう。ちょっとバスケでやらかしてさ。湿布とか何処にあるかわかる?」  そう言った蓮の脚へ視線を向けると、足首を捻りでもしたのか少しだけ歩き方がおかしいようにも見える。 「東条…くん…こっち、来て」 「ん?もしかして手当してくれる感じ?」 「うん」  薬品棚から湿布と包帯を取り出し、柚希は蓮を椅子に座らせて自分はその前にしゃがみこんだ。  昔からこのような手当をすることには慣れており、柚希は手際良く処置を施していく。 「あっ、白川、ちょっとストップ」 「ん?」  彼の手が柚希の柔らかな髪へと触れる。  くいっと軽く引っ張られる感覚に一瞬ドキッとしてしまうが、その手はすぐに離れていき、彼は爽やかな笑顔を見せた。 「寝癖、ついてたぞ。それにしても…こんなに近くで見たの初めてだけど、お前って本当、可愛い顔してるな」 「……それはどうも。はい、できたよ」 「おっ、さんきゅ。助かったわ。随分手馴れてるんだな」 「ん…自分で手当てすること多かったから…」 「ふぅん……そういや、お前まだ帰んないの?もうそろそろ暗くなるぞ」  蓮の言葉に視線を窓のほうへと向けると、先ほどまでのオレンジ色の光はほとんどなくなり、辺りは濃紺色へと変わろうとしていた。  彼の言う通り早めに帰ったほうが良いのだろうが、柚希の体調は悪くなる一方だ。この状態では帰れる気がせず、視線を床へと落とす。 「そのうち、ね…」 「送ってやろうか?顔色悪いし、変なのに襲われたら大変だろ」 「…大丈夫だよ…平気…ッ」  立ち上がった瞬間、激しい目眩に襲われる。ぐらぐらと歪む視界に立っていることができず、柚希は再びその場にしゃがみこんでしまった。  キーンッという耳鳴りが周りの音を遮断し、呼びかけられているような気はするが、それが何と言っているのか全く理解できない。 「…っ…ぁ…」 「おいっ!白川!大丈夫か!」  彼の声がはっきり聞こえるのと同時に周りの景色が徐々に戻り始める。  顔を上げるとすぐ近くには焦った様子の蓮の顔があった。彼は柚希の肩を両手で掴み、先程までの余裕を持った表情とは違って眉尻を僅かに下げている。 「と、うじょう…くん…?」 「はぁ…焦った…大丈夫か?って大丈夫じゃないよな。そんな状態で一人で帰るのなんて無理だろ」 「……ごめん…」  会って数分で目の前で倒れるなんてあまりにも申し訳なさすぎる。  穴があったら入りたいくらいだと、俯いていると蓮がしゃがんだまま背中を向けてきた。 「ほら、送ってってやるから背中乗れよ」 「い、いいって…」 「つべこべ言わない。ここにいるより家のほうが安心できるだろ?」 「…ぅ、わぁっ!?」  目の前の広い背中に躊躇していると痺れを切らした様子の彼が柚希の腕をぐいっと引っ張った。そのまま首に腕を回す形にさせられ、有無を言わさず背負われてしまう。  ふわっと爽やかな香りが鼻腔をくすぐり、体勢も相まって顔がじわりと熱くなっていく。 「汗臭かったらごめんな」 「…臭くないよ」 「ははっ、それなら良かったわ。それよりお前、結構熱あるだろ?早く帰ろう」 「うん…ありがとう」  幸いなことに下校時間をとっくに過ぎていたため、周りには人がほとんどいなかった。  こんな姿を同級生にでも見られていたらきっと明日には学校中で噂になっていただろう。  学校一有名なアルファとオメガが一緒にいただけではなく、おんぶをして帰っていた、なんて。  蓮にも柚希にも隠れファンクラブがあるくらいなのだから、この姿は大事件と言ってもいいくらいだ。だが、蓮はそんなこと全く気にしていないようで、柚希のことをしっかりと背負いながらスタスタと歩みを進めていく。 「ここまでで良いよ」 「お前ん家どこ?」 「そこのアパート。この距離なら歩けるから」 「ここまで来たなら玄関まで送るよ。途中で倒れられたら困るからな。それに、気付いてるか?さっきより熱上がってるぞ」  それは柚希自身も薄々感じていた。家が近付くにつれて身体の重だるさは増しており、全身が熱を帯びて制服の下には薄っすらと汗をかいている。  背中にぴったりとくっついていたからこの熱が蓮にも伝わってしまっていたのだろう。  きっとこの状態で下ろしてほしいと言っても彼は下ろしてくれない。なんとなくそんな気がして、柚希は仕方なく家までそのまま連れて行ってもらうことにした。 「送ってくれてありがとう」 「どういたしまして。親御さんはまだ帰ってきてないのか?」  玄関の前で下ろしてもらい、鍵を開ける最中にかけられた何気ない質問に一瞬だけ動きが止まってしまう。 「……」  柚希に両親はいない。  母親は柚希を産んだ時に亡くなり、父親は新しいパートナーを見つけて家を出て行ってしまった。生活費だけは援助してくれているが、もう随分長いこと父親には会っていない。  この生活にも慣れたはずだったが、無意識に扉の取っ手を掴む手に力が入ってしまう。 「親は…いないよ。一人暮らし」 「…そうか…悪いこと聞いたか?」 「ううん、大丈夫」  一人には慣れている。今は不意に親のことを聞かれて少し動揺してしまっただけだ。  蓮にもう一度お礼を言ってから家に入ろうと彼の方へと視線を向けようとしたのだが、その瞬間、ドクンッと心臓が脈打ち、視界がぐらりと歪んだ。 「っ…」 「おっと、大丈夫か?まったく…体調悪いなら強がるなよ。悪いけど中まで上がらせてもらうぞ」  柚希が何か言葉を発する前にその身はまたもや蓮に抱き上げられてしまった。先程とは違い膝裏に腕を通され、彼の逞しい胸筋が制服越しに顔に触れる。 「!?」  すぐ近くに感じるアルファの身体に心臓がバクバクと煩い音を立て、触れられた場所からむず痒いようななんとも言えない熱さが広がっていく。  今までもアルファが近くにいるという状況はあったが、こんなにも近くで触れ合ったのは初めてだった。それに、自分の心臓がこんなにも煩く鳴っているのもきっと初めて。  やはり、これが学校一有名なアルファの魅力というやつなのだろうか。それとも何か別の理由が―― 「少し休んでろ。何か食べられそうか?簡単なもので良ければ作れるから」 「え、悪いよ、そんな…」 「悪くない。病人は素直に甘えとけ。食材とか適当に使わせてもらうぞ」 「う、うん…」  ベッドに降ろされ、呆然としながらキッチンへと向かう蓮の背中を見送る。  パタンッと閉められた扉を見つめていると冷蔵庫を開ける音が耳に入った。そして数秒後、柚希はハッと我に返り、今の状況のおかしさに気づく。  蓮の勢いに押されて彼に夕飯を作らせてしまっている。そんなことまでさせるつもりなかったのに。  どうにかベッドから立ち上がろうとしたが、身体が燃えるように熱く、じくじくと疼くような感覚があまりにも酷い。そして、その疼きはある場所に顕著に現れていた。  それは、蓮に触れられた場所と首の後ろ―― 「ッ…!」  柚希はバッとカレンダーへと目を向けた。  そんなわけがない。  前回の発情期から一週間も経っていない。そんなすぐに次の発情期がくるわけない。  これはきっと気のせいだ。ただの風邪だ。  自分に言い聞かせるように頭の中で繰り返す。だが、それを裏切るように香ってきてしまった。  アルファを誘惑する甘いスズランの匂いが。  どうしてよりにもよってアルファである蓮が家にいるときに。  普通のオメガならば抑制剤を打てば対処できたかもしれない。しかし、柚希は発情期が来る前に抑制剤を打たなければ効かないという少し変わった体質を持っている。  症状が出てしまったこの状況ではもう遅いのだ。 「は、っ…ぁっ…はぁっ……っ…」  本能がアルファの熱を欲している。  このままでは扉の向こうにいる蓮のことを求めてしまう。  それだけは、ダメだ。 「だ、め…っ……」  喉がカラカラに乾き、視界が涙で滲んでいく。柚希は倒れそうになりながらも必死に扉のほうへと歩いた。  ガタンッと扉にぶつかるようにしてそこにしゃがみこみ、大きく息を吐き出す。  ここさえ塞げば蓮は入って来れない。このまま自分のことなど放って帰ってくれれば何も起きずに済む。  ハァハァと呼吸の乱れが酷くなっていく中、柚希の塞いだ扉を叩く音と蓮の焦りの混じった声が聞こえてきた。 「おいっ!どうしたんだ!」 「っ…ごめっ…かえって……おねがっ…」 「帰れって…何があったんだよ」 「んっ…っ…きちゃった、からっ…くすり、きかないのっ…おねがいっ…」  部屋の中に漂うフェロモンの香りがますます濃くなっていく。  早くしなければ扉を閉めていたってその隙間から漏れ出てしまうかもしれない。  両手で自身の両腕をぎゅっと掴み、カタカタと震える身体を抑え付けようとするが、柚希の意志に反して身体は欲望を表してくる。 「抑制剤が効かないって…お前、どうするんだよ」 「…だいじょうぶっ、だから…」 「…それ、本気で言ってるのか?一人でどうにかできるのか?」 「……」  その質問に柚希は答えられなかった。理性では「大丈夫」だと言わなければいけないとわかっている。しかし、本能がその言葉を抑え込んでいた。  欲しい、アルファの熱が。彼に全てを埋めつくしてほしい。 「……白川、ここ、開けて」  ビクリと身体が跳ね上がり、目を見開く。  ダメだと思っているのに視線は上へと向き、彼の元へと繋がるドアノブを見てしまった。  蓮がどうするつもりなのかなんてわからない。だけど、彼なら助けてくれるんじゃないか。彼なら柚希の求めているものをくれるんじゃないか。その気持ちがどんどん大きくなっていく。  数秒間その場所を見つめ、今にも切れそうな理性で視線を外そうとする。だが、再び彼の甘い誘惑が扉の向こうから聞こえてきた。 「大丈夫だから。怖くないよ。立てるか?」  殊更優しい声。少し掠れの混じったその声は柚希を誘導するには十分すぎた。  身体は熱く、震えも止まらない。しかし、柚希はその場に立ち上がってしまった。そして、欲望を孕んだ瞳でドアノブを見た後、白い指先がそこを掴んだ。  ゆっくりと開けられていく扉の先――そこにあったのは、冷静さの中に獣の光を宿した瞳だった。

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