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番外編 3章 君って優しいね
遠くのほうからゴウンゴウンと洗濯機の稼働する音が聞こえてくる。
柚希がゆっくりと目を開けると、そこにはいつもの見慣れた天井。しっかりと布団をかけた状態で寝ており、普段と何ら変わりがないように思えてくる。しかし、徐々に頭が冴えていく中、眠る前に起こった出来事を薄ぼんやりとだが思い出した。
――自分の発情期に東条蓮を巻き込んでしまった。
発情期中に何をやってしまったのかは断片的にしか覚えていない。だが、蓮に迷惑をかけてしまったのは間違いなかった。
一人で処理しなければいけなかったのに。彼に助けを求めてしまった。
罪悪感が一気に襲い掛かり、柚希は頭を押さえながらベッドから起き上がって辺りを見回した。
部屋の中に蓮の姿はない。
きっと帰ってしまったのだろうと小さく息を吐き出す。その瞬間、キッチンへと繋がる扉がガチャッと音を立てて開いた。
「ぁっ…」
「おっ、起きたか。ちょっと待ってろ」
柚希が言葉を発する前に蓮は再びキッチンのほうへと姿を消してしまった。そして、数分もしないうちにマグカップを持って柚希の元へと戻り、それを柚希に手渡した。
「これ…」
「白湯だよ。喉、つらいんじゃないかと思って」
彼に言われた通り、柚希の喉はカラカラに乾いて少し掠れていた。
申し訳ないな、と思いつつもこくりと頷いたあと白湯を喉へと流し込む。熱すぎず、冷たすぎず、ちょうど良い温度の液体が喉の渇きを潤し、気持ちも落ち着かせてくれる。
「白川、さっきはごめんな」
「え…?」
「首の後ろ、嚙んじまった。数日で消えるとは思うけど、その…彼氏とかに疑われたら俺が全部悪いってことにしてくれれば良いから」
蓮からの謝罪、仮マーキング、彼氏……突然いろいろな情報を言われて柚希は一瞬フリーズしてしまった。
何から答えれば良いのかまだぼんやりとした頭では判断することができず、咄嗟に出てきたのは最後に言われた内容だ。
「彼氏なんていないよ…」
「そうなのか?」
「うん…人をそういう意味で好きになったことってないし…」
言っていることに間違いはない。
恋人なんて今までいたことなかったし、作ろうと思ったこともなかった。告白してきてくれる人は何人もいたりしたが、それも全て断ってきた。
自分なんかが釣り合うわけがない、そう思ったら他人と深い関係になるのが怖くなり、誰に対しても一歩引いた状態になってしまったのだ。
周りからは白川柚希は誰に対しても優しく無害なオメガだと思われているが、実際はただ臆病なだけ。
だから、蓮に仮マーキングされたところでそれを咎めるような人は誰一人としていない。少しだけ、身体が変な感じはするが。
それよりも彼のほうが問題なのではないのだろうか。こんなにも学校で有名なアルファだ。周りが放っておくはずがない。
「その…そういう東条君こそ恋人の一人や二人いるんじゃないの?」
「一人や二人って…ぷっ、あははっ、白川、俺のこと遊び人とでも思ってるのか?」
「ちがっ…いや、ちょっとだけ思ってたかも…」
「正直に言ってくれるな?まぁ、今日初めて話したばっかだし、そう思われててもしょうがないか。けど、これだけは言っとくぞ、俺は遊び人じゃないし、恋人もいない。付き合うなら誠実なお付き合いしかしないからな」
「ぷっ…誠実なお付き合いって…」
蓮の口からまさかそんな言葉が出るとは思わずじわじわと笑いが込み上げてきてしまう。
今まで遠くからしか見たことのなかった彼は優秀なアルファということもあり、近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。しかし、実際に話してみると冗談も言うし気配りもでき、親しみを持てる性格をしている。
クスクスと笑っていると彼の手が伸び、柚希の頬をむにっと摘まんだ。彼の顔には悪戯っぽい笑みが浮かんでおり、その表情に少しだけ見惚れてしまう。
「笑いすぎだぞ。まぁ、お前の元気が出たなら良いや。身体は大丈夫か?」
「うん、平気…ごめん、あんまり覚えてないんだけど、迷惑かけたよね…」
「全然、気にすることないから謝らなくて良いよ。オメガもアルファもお互い大変なんだからさ。今回は助け合ったってことにしよう?」
柚希の発情期がきっかけなのだから柚希に100%非があると言われる覚悟すらしていた。しかし、彼は責める言葉なんて一つも吐かず、優しい言葉のみをかけてくれる。それも同情なんかではなく、オメガもアルファも同じように苦労しているんだという言葉で。
「東条君って本当優しいね」
「そうか?お前には負けると思うけど、そう言ってくれて嬉しいよ」
「うん、あっ、東条く…」
言葉の途中で蓮のスマホから着信音が鳴り響いた。彼は画面を見たあと少しだけ眉間に皺を寄せ、一度柚希に断りを入れてからその場で電話に出た。
「もしもし。うん、わかってる。もう帰るよ。車はいつものとこにいてもらっていいから」
「……」
彼の会話から察するに相手は家の人だろう。壁にかけてある時計を見ると時刻はすでに22時を過ぎており、こんなにも遅い時間まで彼を留めてしまったことに罪悪感が募っていく。
数言だけ交わした蓮は電話を切ったあと小さく溜め息を吐いたが、すぐに表情を戻して柚希のほうへと目を向けた。
「悪い、白川、そろそろ帰らないと。あ、さっき何か言いかけた?」
「…ううん、なんでもない。ごめんね、こんな遅くまでいてもらっちゃって」
眠っていたからまさかこんなにも遅い時間になっているなんて気付いていなかった。さっきの電話がなかったら「一緒に夕飯でもどう?」と口から出てしまっていたところだ。きっとそれを言っていたら蓮は時間を気にせず付き合ってくれていただろう。
少し寂しい気もしたが、彼をこれ以上引き止めるわけにはいかない。
布団をぎゅっと握り締めると蓮の手が柚希の髪をくしゃっと撫でた。
「無理するなよ」
「……無理なんてしてないよ。本当になんでもないから。ほら、早く帰らないと親御さん心配してるんでしょ?」
「はいはい。あ、そうだ、夕飯二人分作っちゃったから余ったら明日にでも食べて」
彼の言葉にパッと顔を上げる。まさか蓮が食事を作ってくれたうえに一緒に食べようと思っていてくれていたなんて。
「作って、くれたの…?」
「ん?あぁ、簡単なものだけどな。一緒に食べれたらなって思ったけど、残念ながら時間切れだ。また今度一緒に昼飯でも食べよう」
「う、ん…ありがとう…」
未だに信じられずに少し歯切れ悪く答えると彼はクスッと笑ってから鞄を持って立ち上がった。
その姿を見て柚希も慌ててベッドから立ち上がり、見送りのために彼の後をついていく。
身体はまだ少しふわふわとしている感じがしたが、発情期のひどい症状はなくなっていた。一人でも問題なく歩けることに安堵しつつ、目の前を歩く広い背中を見上げる。
彼から香る落ち着く匂いが鼻腔をくすぐり、引き止めたい衝動に駆られてしまうが、柚希はふるふると小さく首を振ってその衝動を掻き消した。
「なぁ、お前のこと柚希って呼んでも良いか?」
突然の名前呼びにドキッと心臓が一つ飛び跳ねる。
振り向いた彼の表情からは何故そんなことを言い出したのか読み取ることはできず、柚希は一瞬視線を泳がせたあと彼のことを見つめて問い返した。
「良いけど、なんで?」
「深い意味はないんだけどさ、柚希って良い名前じゃん?だからお前のこと名前で呼びたいなって。俺のことも名前で呼んで良いから」
「……蓮?」
「うん。ははっ、お前に名前呼びされるの結構クるな」
「…からかうなら呼ばないよ」
「冗談冗談。よし、じゃあ帰るよ。お見送りありがとな。もし何かあったらいつでも連絡してくれ」
こくっと頷くとまたもや髪をくしゃくしゃと撫でられた。
子ども扱いされているような気もしたが、彼の大きな手に撫でられるのは全く嫌な気がしない。それどころか心地良ささえ感じてしまい、これ以上続けられたら離れがたくなってしまう気がして両手で蓮の腕を掴んだ。
「撫ですぎ。帰らないとでしょ」
「悪い悪い、お前の髪、気持ち良くてさ。じゃあ、また明日学校でな」
「うん、また明日…いろいろありがとね、蓮」
小さく手を振って彼を送り出し、パタンと閉まった扉をしばらくの間見つめる。
一人になった瞬間、さっきまでのことは夢だったのではないかと思えてしょうがなかった。
蓮がこの家に来て、発情期の自分を助けてくれたなんて。
相手は学校でも有名なあのアルファだ。夢だったと思ったほうが納得がいく気がしてしまう。
少しの間その場で呆然としていたが、カチャンッという音が耳に届いたことで柚希の意識は現実に引き戻された。
「?」
音のした方へと向かうと、それは洗濯機が止まった音だった。中には白いシーツ、制服のズボン、そして、自分の下着…。
「…!」
それらが目に入った途端、顔がカーッと熱くなっていき、思わずその場にしゃがみこんでしまう。
部分的に残っている記憶の中にあったそれらは柚希の体液によって汚された姿だ。そして、蓮に囁かれた言葉が脳裏を過る。
寝て良いよ、片付けとくから――
曖昧な記憶の中でも何故かそれを言われたということだけははっきりと覚えていた。そして、彼は言葉通り洗濯をしてくれていたのだ。汚してしまった柚希の身に着けていたものもまとめて。
あまりの恥ずかしさにその場で叫びたい気持ちになったが、こんな遅い時間に叫んだら近所迷惑になるし、下手したら通報されてしまう。なんとか衝動を抑え込み、冷静になれと自分に言い聞かせてから洗濯の終わったものたちを取り出した。
余計なことを考えないように手早く浴室乾燥にかけ、キッチンへと向かう。
顔の火照りがおさまらないまま手でぱたぱたと顔を仰いでいると視界の中に二つの鍋と一枚のメモが映った。
メモを手に取ると綺麗な文字でメッセージアプリのIDと電話番号、そして「蓮」と書かれている。
「あっ……」
この時になって彼と連絡先を交換していなかったことに気が付いた。
いつもの柚希だったら彼が帰る前に気付いていただろうが、今日に関してはいろんなことが起こりすぎて連絡先の交換のことは完全に抜け落ちてしまっていた。
蓮も柚希の状態をわかってくれていたから、こうやってメモに残したのかもしれない。
視線をコンロの上の鍋へと向けると一つの鍋には鶏肉と大根の煮物、もう一つには卵スープが入っていた。彼が言っていた通り一人で食べるには多く、二人で食べるのにちょうど良さそうな量が入っている。
簡単なものしか作れないと言っていたはずだが、この短時間で煮物とスープを用意するのは素人には無理だろう。
優秀なアルファは料理まで完璧にできてしまうのか…?
ついさっきまで空腹など全く感じていなかったはずだが、その料理の見た目と匂いにお腹からくぅ…と小さな音が鳴ってしまう。この空間には一人しかいないが、そのお腹の音に耳が熱くなり、柚希は誤魔化すように急いでお椀に鍋の中のものをよそってテーブルへと並べた。
「いただきます」
大根を口に運ぶとやさしい味付けの中に少しだけ生姜のピリッとした辛みがあり、疲れた身体にじんわりと染み渡っていく。
他人が作った家庭料理を食べるなんていつぶりだろうか。父親が家にいた時はたまに作ってくれていたから、それ以来かもしれない。
一人で食べる食事には慣れているはずなのに何故か無性に寂しさが込み上げ、温かく優しい味がじわりと目に熱いものを浮かばせた。
「…っ…ふっ…」
嗚咽が漏れそうになるのを堪えるように手の甲で目元をごしっと拭い、一つ息を吐き出す。
予定外の発情期のせいでまだ少し情緒不安定になっているのかもしれない。
一旦自分を落ち着かせるためにも蓮にお礼のメッセージを先に送っておこうと、箸を置いてスマホを取り出した。
料理が美味しかったことと、洗濯のことも……いや、洗濯のことを言うのは恥ずかしい気もする…。
そんなことを考えながらメッセージアプリに蓮のことを追加し、文字を打ち込もうとしたのだが、入力画面は瞬時に着信画面へと切り替わった。その画面には今まさに追加したばかりの相手の名前が表示されている。
驚きのあまり切断ボタンを押しそうになったが、ギリギリのところで応答ボタンへと指を移した。
「もしもし…?」
『追加ありがとな。急に電話して悪い…もしかして泣いてた?』
「な、泣いてなんかないっ…」
たった一言しか発していないのに泣いていたことがバレてしまうなんて思わず、慌てて否定すると電話の向こうからは笑い声が聞こえてきた。
『それなら良かったよ。体調は大丈夫か?』
「うん、大丈夫。あ、ご飯ありがとう…すごい、美味しい」
『どういたしまして。機会があったらまた作るよ。じゃあ、遅い時間に悪かったな』
「え、あ、うん……用事って体調の確認?」
『あぁ。倒れてないか気が気じゃなくてな。飯も食ってくれたみたいだし安心した。しっかり休めよ』
電話を切ろうとする彼に、柚希は瞬時に自分に何かできることがないかを考えた。こんなにもいろいろと優しく、気を配ってくれた彼に恩返しがしたい。しかし、自分にできることなんてあるのか。何か言って迷惑にならないだろうか。
「……」
『柚希?』
「蓮…あの…嫌だったら断ってくれて良いんだけど…今度お弁当作ってったら、食べてくれる?』
お弁当だけではこの感謝の気持ちを表すには全然足りなかったが、今考えられるのはこれくらいしかなかった。もし、断られたら断られたで仕方がない。
スマホを握る手にぎゅっと力が入り、彼の返答をドキドキとしながら待っていると電話越しにフッと笑う声が聞こえてきた。
『嬉しすぎて一瞬フリーズしてたわ。柚希の手作り弁当なんて知ったら学校中で奪い合いになるだろうな』
「そんな大袈裟な…」
『大袈裟じゃないよ。奪われたら泣くだろうな』
「ぷっ…泣くって、蓮が?」
あの容姿端麗で優秀な蓮が泣く姿なんて想像できず、つい笑いが込み上げてきてしまう。しかも泣く理由が柚希の手作り弁当を奪われたから、なんてあまりにもおかしい。
『あ、笑ったな。まぁ、けど本当に誰かに奪われたくないから、秘密の場所で一緒に昼飯食べようよ』
「秘密の場所?」
『そ、秘密って言っても屋上なんだけどな。あそこの鍵壊れているのこの前見つけちゃってさ。他の生徒はまだ気付いてないから誰も来ないはずだ』
確かに屋上の鍵が壊れているなんて話は誰からも聞いたことがない。そもそも屋上に続く階段を上る生徒自体が稀だ。
どうしてそんな場所を蓮が見つけたのかは謎だが、柚希としても他の生徒に見られたくはないため、その場所は好都合だった。
今まで会話したこともなかったはずの学校一有名なアルファとオメガが突然一緒にお弁当を食べている、なんて知られたらただの友達だと言い張ってもきっと変な噂を流されてしまうだろう。
「わかった。屋上で良いよ。いつにするかはまた連絡する…で良いかな?」
『うん、それで良いよ。体調優先でな』
「ん、ありがと。じゃあ、そろそろ切るね」
『あぁ、おやすみ』
おやすみ、と返して電話を切り、彼とのトーク画面を見ているとぽこんっと可愛らしいうさぎのスタンプが送られてきた。
おやすみという文字と布団に入っているうさぎのイラストのスタンプ。それがあまりにも蓮の印象と合っておらず、クスクスと笑いが込み上げてくる。
彼の印象でいったらカッコいい狼とかだろう。何故こんな可愛いスタンプを送ってくるのか謎だったが、それならばと柚希は狼のスタンプを見つけ出して蓮に送り返した。
うさぎと狼が並ぶトーク画面を見ていると今も蓮がすぐ傍にいてくれるような気がしてくる。
そんな不思議な感覚に、スマホの向こうにいる人物に向かって柚希は小さく呟いた。
「本当、君って優しいね、蓮」
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