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番外編 7章 嘘、下手だな
「はぁ…緊張する…」
「そんな硬くなるなって。ほら、ゆずスマイル」
「ぷっ…何それ」
卒業式から数日後、蓮の運転する車で二人は蓮の実家へと向かっていた。目的はもちろん結婚の挨拶。
電話で結婚のことを伝えるとなるべく早く顔を見せにくるようにと言われ、二人で早速向かうことになったのだ。
蓮の実家は東条財閥と呼ばれるこの地域では知らない者がいないほどに有名な家である。
まさに柚希の家とは天と地ほどの差。柚希は挨拶に行く日が決まったときからずっと緊張感が抜けずにいた。
その緊張はすぐに蓮に見抜かれ、そわそわと落ち着かなくなっていたときに彼が呼び出したのが「ゆず」という呼び方だ。少し甘えるような気の抜けた呼び方をされ、フッと身体の力が抜けるような感じがしたから呼び方一つにも効果はあったのかもしれない。
「もうすぐ着くぞ。いつも通りにしてれば大丈夫だからな」
「うん…ガンバリマス」
「ゆず、リラックス」
駐車場に着き、髪をくしゃっと撫でられてから車を降りると、そこには噂に聞いていた通り、いや、噂以上に大きく見える豪邸が建っていた。
自分の家とあまりにも違いすぎてすぐさま車に引き返したくなったが、あいにく蓮に鍵を閉められてしまった。そのうえ彼に手を握られ、そのまま逃げる隙もなく目の前の豪邸のほうへと連れて行かれてしまう。
「蓮様、おかえりなさいませ。旦那様と奥様がお待ちです」
「あぁ」
執事の男性に案内され、豪華な廊下を進んでいく。心臓はずっとバクバクと煩いままで蓮に握られた手は汗でびっしょりだ。
落ち着け、落ち着け、と心の中で繰り返し、蓮の父親と母親が待つという部屋の前で止まると蓮がフッと笑みを零して柚希の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「何か答えづらいこととか聞かれたら俺が答えるから、安心しろ」
「うん…ありがと」
ふぅーっと大きく息を吐き出し、蓮のほうを見てこくりと頷く。それを見た彼も一つ頷いてからゆっくりと扉を開いた。
まず見えたのは蓮の母親。スタイルが良く、まさにキャリアウーマンという言葉がぴったりの見た目をしている。母親というより姉と言ってもおかしくないのではないかと思えるほどに若々しく見えるが、彼女から漂うオーラが蓮の母親であることをはっきりと証明していた。
そして、その奥に見えたのが蓮の父親。見た目は蓮にそっくりだが、蓮よりも遥かに威厳があり、彼に睨まれでもしたらその場から一歩たりとも動けなくなってしまうのではないかと思えてくる。
「父さん、母さん、柚希連れてきたよ」
「は、初めまして、白川柚希です」
「柚希さん、初めまして。どうぞ座ってちょうだい。ゆっくり話しましょう」
ドキドキとしながら椅子に腰かけ、蓮のほうをちらりと見ると彼は勇気付けるようにこくりと頷きを返し、自分たちのことについて話をし始めた。
柚希は彼の話を聞きながら時折相槌を打つ程度だったが、どうやら見た目がそれなりに良いことも手伝って両親からの第一印象は悪くないようだ。
緊張感も徐々に和らいできた頃、蓮の父が柚希に話を振ってきた。
「そういえば柚希くんは今ご両親と一緒に暮らしてるのか?仕事は何を?」
ティーカップを掴んでいた指がピクッと震える。この話題は一番避けたいところだったが、避けられない話題であることもわかっていた。
「父さん、それは」
「蓮、大丈夫……母は僕が産まれた時に亡くなってしまって……父も再婚して今は別々に暮らしています。仕事は地元の中小企業なので社名を言ってもご存じないかもしれません」
「……そうか、すまなかったね。答えづらいことを聞いてしまって」
「いえ、大丈夫です」
もう少し深く聞かれるかと思ったが、その話題にはもう触れられることはなく、ひとまずホッと胸をなでおろす。
このまま大きな失敗をすることもなく良い印象を与えたままなんとか終えられそうだ。そう思っていた矢先、扉のところで控えていた執事が蓮の元へ近付き、何かを差し出した。
「蓮様、あちらの部屋で確認とサインをお願いします」
「今?ここじゃダメなのか?」
「はい、急ぎの案件ですが、社の機密事項も含まれていますので」
「……はぁ…わかったよ。柚希、悪い。すぐ戻る」
「あ…うん…」
書類をまとめて手に持った彼は安心させるように柚希の肩を軽く叩いたあと足早に部屋から出て行ってしまった。
会社のこと、と言っていたから仕事関連の書類なのだろう。蓮は家業を継ぐため、東条家が経営する企業の一つに就職した。入社したばかりだが、すでにいくつかのプロジェクトを持たされることになったと話していたからそれ関連の書類なのかもしれない。
蓮がいなくなったことで彼の父親と母親、そして柚希という空間になんとなく居心地の悪さを覚える。
目の前に置かれたティーカップをじっと見つめ、自分の心臓の音がドキドキと大きくなっていくのを感じていると目の前に座る蓮の父親が僅かに目を細めながらカップを手にした。
カチャンッと軽い音が静かな部屋に鳴り響き、それと同時に低く落ち着き払った声がまるで世間話でもするかのように告げた。
「柚希くん、蓮に財閥のお嬢さんからお見合いの話が来ているのは、聞いているか?」
「え……」
お見合い…?
そんな話、今まで一度も聞いたことがない。しかし、蓮のような立場ならお見合い話の一つや二つ来ていてもおかしくはないだろう。
蓮が言わなかったのは全部断っているからだと予想はついたが、どうして彼の父親が今この話題を、あえて蓮がいないときに出したのか。
考えたくはなかったが、その答えは一つしか思いつかなかった。
喉が締め付けられたかのように息ができなくなり、視線を上げることができない。彼の父親の目を見ることができないまま柚希の耳に無情な、冷たい言葉が響いた。
「単刀直入に言うけどね、息子と別れてほしい。あいつには良い家柄の子と結婚して東条家の後継者としての自覚を持ってほしいんだ」
頭の中が真っ白になった。
全身から血の気が引いていき、身体の感覚、視界に映っている色、空気、全てのものが一瞬にして奪われたような感覚に襲われる。
彼の父親が言っていることはもっともだ。身分が違う。不釣り合い。そんなの昔からわかってた。
それでも、蓮は選んでくれた。愛してくれた。
だけど、彼の家系は、家族は、柚希のことを望んでいない。
「……」
何か答えなければ、彼の両親が望む答えを返さなければ。そう思っているのに言葉が何も出てこない。
脚の上に置いた震える手をぎゅっと握り、せめて頷きだけでも返そう。そう思った瞬間、バタンッと扉の開く音が鳴り響き、蓮が足早に戻ってきた。
異様な雰囲気を感じ取ったのかすぐさま俯いている柚希の顔を覗き込んでくる。
「柚希?どうかしたか?」
「……ううん、なんでもないよ…大丈夫」
無理やりにでも笑みを浮かべるが、それが上手く笑えているかなんてわからなかった。ただ、彼の父親に言われたことをこの場で蓮にバレたくない、その一心だった。
「……柚希、今日はもう帰ろうか」
「ん……」
彼の優しい声に目頭が熱くなっていく。しかし、ここで泣いてしまったら蓮に迷惑をかけるだけでなく、彼の両親を更に失望させてしまいかねない。
きゅっと唇を噛みしめて溢れそうになる涙をなんとか抑え込み、その場に立ち上がる。冷たい空気の中でも微笑みを作り、彼の両親へと別れの挨拶をしたが、最後まで彼らの目を真っ直ぐと見ることはできなかった。
◆
「帰り、ちょっと寄り道していこう」
「……ん」
信号待ちの間にちらりと柚希のほうを見ると彼は窓の外をぼんやりと眺めていた。蓮が何か問いかけると返事はするものの心ここにあらずといった様子だ。
夕日のオレンジ色に染まった空の下、海岸沿いを走り、駐車場に停車する。車を停めても柚希はしばらくの間助手席で呆然としており、先に降りた蓮が外から扉を開けた。
「柚希、降りよう」
「あ、うん……」
柚希の手を握ると寒空の下にずっといたかのようにひんやりとしており、蓮は自分の熱を分け与えるように指同士をしっかりと絡め、その手を優しく引いた。
「ちょっと歩こうか」
「ん……」
静かな波の音が少し遠くから聞こえる中、二人は無言のまま海岸沿いを歩いた。
海風に吹かれ、柚希が肌寒さに身を僅かに震わせると手を握る力がぎゅっと強まる。それは蓮がいつもやってくれる行動だ。柚希のことを暖めるように、力強く握りしめてくれる。
その触れ合う蓮の左手薬指にはシルバーの指輪が輝いている。そして、同じものが柚希の左手薬指にもついていた。
それは先日、蓮が両親に挨拶に行く前に指輪を買いに行こうと言い出し、一緒に買ったものだ。
初めてのお揃いの指輪。
初任給前だし柚希の金銭事情に合わせて安いものを買った。だけど、それで十分だった。
二人で一緒に指輪を付けて、写真を撮って、結婚指輪は別でちゃんとしたのを買うけど、これも宝物だねって笑いあって…。
あの時は、結婚できるって信じてた。けど、現実は蓮と結婚する資格なんて与えられてなかったんだ。
「なぁ、柚希、さっき親になんか言われた?」
「……ううん」
彼の父親に言われたことをそのままは伝えられない。柚希の言葉で、柚希の意志として別れを切り出す、そうでなければ蓮は納得しないだろうから。しかし、まだその言葉を言う決心がつかない。
高校での出会い、屋上での告白、大学生活、プロポーズ……楽しいことだけじゃなくて小さな喧嘩もした。だけど、それも全部かけがえのない思い出。
それをただの思い出として終わらせられたら良かったのかな…。
柚希が小さく首を横に振ると、それまで柚希の歩調に合わせて歩いていた蓮がその場で足を止めた。
「蓮…?」
「柚希、俺の目、見て」
「……うん」
蓮の正面に立ち、自分よりも高い位置にある彼の瞳を見つめる。
真剣さを滲ませた彼の黒い瞳が柚希のことをジッと見つめ返してくる。 しかし、すぐにふっと力が抜けたように緩み、優しげな眼差しに変わった。
「嘘、下手だな」
「……嘘なんて…」
「じゃあ、なんで泣きそうになってるんだ?」
「っ……」
その言葉に視界がじわりと歪んでいき、彼のことを見ていられなくなってしまう。堪えようとすればするほど熱いものが瞳に込み上げ、喉の奥が熱くなっていく。
自分は彼の家から必要とされていない。だから身を引かなきゃいけないんだ。
頭ではわかっていた。わかっているのに。
「……ふっ…ぅっ……っ…」
別れたくない。
蓮と別れたくない。
もし蓮に嫌われるなら、そのほうが良かった。僕のほうから別れて、なんて言えるわけない。
こんなにも好きになってしまった。
愛しちゃいけなかったのに。
愛してしまって、ごめんなさい。
「ゆず、おいで」
優しい声に顔を上げると彼は両腕を広げて待っていた。
涙で霞む視界の中、沈み切る前の最後の夕日が蓮の顔を照らす。それが高校の屋上で告白してきた時の姿と重なった。
彼と共に歩もうと決めて踏み出したあの時の一歩。またあの時のように踏み出して良いのか、まだ蓮の隣にいて良いのか。
わからない。わからないよ。
その場から動けず、瞳に溜まった涙がぽろっと零れ落ちる。その瞬間、ふわりと香る優しい匂いと力強い腕が柚希の身体を抱き締めた。
もうすっかり馴染み深くなってしまったその香りと温かさ。
「柚希」
「… っ…蓮っ……ごめっ…」
「うん」
「…蓮とっ……わかれたく、ないっ……」
波の音に掻き消されてしまいそうな声だったが、はっきりと告げた言葉に蓮は柚希を抱きしめたまま彼の髪をくしゃっと撫でた。
「別れないよ。大丈夫、絶対守るから」
星が煌めきだした空の下、蓮の低くよく通る声は柚希の心を優しく包み込んだ。
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