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番外編 8章 0.1%

 蓮の親に結婚を反対されてから数日後、今日は蓮が一人で実家に帰り、改めて親と結婚についての話をしにいった。  午後十時、未だに帰ってこない蓮の帰宅を柚希はそわそわとしながら待ち続けている。  彼は絶対守ると言ってくれた。その言葉を疑ったりはしていない。しかし、相手は肉親である。柚希よりも繋がりが強く、柚希が勝てる要素なんて何一つない相手。  秒針のカチカチという音が不安を煽り、瞼を閉じて深く息を吐き出す。その時、玄関のほうからガチャッと扉が開く音と蓮の声が聞こえてきた。 「ただいま」 「蓮…!」  慌てて立ち上がり玄関へと駆けていく。靴を脱ぎ終えた彼の顔が見えた瞬間、ドクッと心臓が大きく飛び跳ねた。  彼の整った顔、その頬に青紫色の痣ができているのだ。鼓動が耳の奥でうるさく鳴り響き、その場から動けなくなってしまう。  瞬きすらも忘れて固まっている柚希のことを見て蓮は微かに笑みを浮かべ、その硬直している身体をそっと抱き締めた。 「柚希、結婚、認めてもらったよ。これは名誉の負傷ってやつ?とにかく大丈夫だから、軽く手当てしてくれるか?」 「えっ、う、うん…えっ?」  結婚を認めてもらった?名誉の負傷?  訳がわからず混乱していると蓮がくすくすと笑い出した。 「ちゃんと説明するから。リビング行こう」  蓮に手を引かれてリビングに行き、頬の手当てをしながら蓮は実家で起こったことを話し始めた。  まず父親に聞いたのはあの日、蓮を別室に呼び出したのは父親の差し金だったのではないかということ。柚希の家庭事情を聞き出した直後、すぐに柚希では蓮の結婚相手として相応しくないと判断して行動に移したのではないかと。  蓮のこの予想は的中しており、父は隠す素振りも悪びれる素振りも見せなかった。  父は昔からこういう人だった。何よりも利益第一。感情などお構い無しの人間。蓮が幸せな家庭を築くことよりも優秀な遺伝子を残すことのほうがこの人にとっては重要なんだ。 「だから俺、言ったんだよ。柚希と結婚できないならもう一生誰とも結婚しない。誰との子どもも作らないって。そしたら殴られた」  東条家としては後継者がいなくなることのほうが問題だということを蓮もよくわかっていた。だからそれを煽るように誰との子どもも作らない、なんて言ったのだ。 「初めてだったよ、父さんに殴られたの。けどさ、ちょっと嬉しかったんだよね。あんな感情的になってるところ見たことなかったからさ。あの人も人間なんだって思えたっていうか。まあ、あの時はむかついたけど。で、父さんも一発殴ったら冷静になったみたいで、俺がそこまで言うならって折れてくれたんだ」 「……ほんとに…?」 「あぁ、嘘なんてつくわけないだろ?俺と柚希の子どもも楽しみにしてるって」  まだ不安気な表情を浮かべる柚希の額に軽くキスをすると彼の瞳にはじわりと涙が浮かび上がった。その涙を拭うように目元にもキスをしていく。 「柚希、もう心配することないからな。ほら、またうさぎみたいになっちゃうぞ」 「なに、うさぎって…」 「お前、肌が白いから泣いて目が赤くなるとうさぎみたいだなって」  その言葉に、高校時代、初めて蓮から送られてきたメッセージアプリのスタンプを思い出す。たしか、蓮のイメージに全く似合わないうさぎのスタンプを送ってきたのだ。あの時も「泣いてた?」なんて聞いてきたものだから、もしかしたら当時から柚希のことをうさぎっぽいと思っていたのかもしれない。  彼が覚えているかはわからないが、そのスタンプに対して柚希は狼のスタンプを返したはず。今もその印象はあまり変わっていないが、あの時はクールな一匹狼だったのが、今は柚希のことを守ってくれる頼れる狼になった感じがする。  蓮には本当、守られっぱなしだ。 「あー、ほら、また泣きそうになってる」 「ぐすっ…うぅっ、これは、うれし泣きっ…」 「フッ…まぁ、それなら良いか。おいで、ゆず」  蓮に抱き寄せられ、彼の胸にぽすんっと収まる。背中をとんとんと優しく叩かれながら、これからもこの落ち着く腕の中にいて良いんだということに、堪えようと思っていてもやはり涙が浮かんできてしまう。 「これからもずっと一緒だよ、柚希」  ◆  結婚して一年。  二人は今までと変わらず仲良く過ごしていたのだが、未だに子どもには恵まれていなかった。まだ若いし、そこまで焦らなくてもいつかできたら良いなと思っている。しかし、そんなある日、たまたま蓮が親と電話しているところを聞いてしまった。 「まだ一年だろ。結婚の条件って言ったってこういうのは授かりものだ。柚希が悪いわけじゃない……検査って…そんなの必要ない。やるなら俺だけで十分だ。勝手なことするなよ」 「……」 「じゃあ、切るから……はぁ…」  溜め息を吐いた蓮が頭を掻きながら扉の方へと近付いてくる。  動かなければ、そう思いながらも柚希の足はその場から一歩も動けなくなってしまった。  結婚の条件。授かり物。検査。  その言葉たちが頭の中をぐるぐると巡っていく。 「うわっ!?柚希、お前いつからそこにいたんだ…?」 「ごめっ…夕飯…呼びにきて…電話、お義父さん、だよね……ねぇ…結婚の条件って、何のこと…?」 「……悪い。ちゃんと話す」  蓮は一年前に父親から言われた内容を柚希に打ち明けた。  一年前、子どもも楽しみにしている、と蓮は軽いトーンで言ったが、それは父親から提示された結婚の条件だった。 『結婚をするなら必ず子どもを作れ』  それが、父親から言われた本当の言葉だ。  しかしその言葉をそのまま柚希に伝えるなんてできるわけがなかった。変なプレッシャーを与えたくない、これは祝福された結婚なんだと思ってほしい、結婚生活も気負うことなく送ってほしい。それが蓮の思いだったから。 「柚希、嘘ついてて、悪かった」 「……蓮は悪くないよ…僕がそこにいたとしてもお義父さんの条件でいけるって…言ってたから…」  子どもを作るということを条件にされていたことに多少は動揺したものの、それを条件にした義父の気持ちもわからないでもなかったし、柚希がその場にいても蓮と同じように頷いていたのは間違いない。  そのぐらいアルファとオメガでの妊娠率というのは高いのだから。  だからこそ、蓮の親だけでなく柚希自身も少しおかしいとは思っていたのだ。  どうして妊娠しないのだろうかと。  蓮が電話で言っていたようにこういうものは授かり物であるというのはわかる。しかし、オメガの発情期中はほぼ100%妊娠する、なんて言われているのに未だに授かれていないのだ。 「……検査で…もし、赤ちゃんできない身体って言われたら…?」 「そんなこと考えるな。検査なんて受けなくて良い。もし家のやつがお前のこと連れて行こうとしても絶対ついて行くなよ」 「……うん」 「…柚希」  彼の大きな両手で両頬を包み込まれる。昔から変わらない、優しく温かな手。 「怖い?」 「……ん…けど…平気、だよ…蓮がいてくれるから…」  蓮と出会う前は何でも一人で乗り越えてこなければいけなかったし、それが普通だった。蓮と出会って、結婚して、二人で乗り越えることを知った。  一人じゃダメでも彼と一緒なら大丈夫。この気持ちはこの一年でより強くなっていた。 「柚希、成長したな」 「……ふふっ…成長って…子どもじゃないんだから」 「フッ、やっと笑った。やっぱお前の笑った顔が一番可愛い。泣いてる顔も可愛いけどな」 「……ばか」  頬が熱くなるのを感じていると蓮の唇が柚希の唇に重なった。薄く口を開くと彼の熱い舌が口内へと入り、柚希の舌を絡めとっていく。 「んっ…れ、んっ…ごはん、さめちゃう…」 「また温め直せば良いだろ」 「むぅ…」 「俺は先に柚希が食べたい」 「ぁっ…んッ…しょうがない…狼さん、だね…」  ◆ 「東条さーん、東条柚希さーん。診察室にお入りください」 「はい」  待合室の椅子から立ち上がり、柚希は鞄の紐をぎゅっと握りしめた。  ここはABO専門の病院。隣に蓮はいない。  義父からの電話があってから数日が経ち、蓮は検査する必要などないと言っていたが柚希は彼に内緒で病院に来てしまった。  何もなければそれはそれで良い。本当にタイミングが合わずに授かっていないだけ。いずれ授かることができるという安心材料になる。  マイナスなことは考えないようにしようと自身に言い聞かせ、先ほど受けた検査の結果を聞くため医師の前へと腰かけた。 「……東条さん、検査結果ですが、ご家族も同席されますか?」 「えっ……それはどういう…」 「…重要な内容ですのでご家族の方とお聞きしたほうが良いかと思いまして…特に、東条家にとっては」  ぞくっと背筋に冷たいものが走る。  東条財閥は医療方面の事業も展開しており、ここの病院で働く医師たちももちろん東条家のことを知っている。  そうでなくてもこの地域で「東条」という苗字を聞いたら真っ先に東条財閥が思い浮かぶだろう。そのうえ、昨年その長男がオメガと結婚したというのは誰もが耳にした話だ。  相手が柚希であることは伏せられていたが、苗字、年齢、オメガ、この条件が揃っていたら大抵の人は察しがつくだろう。  耳の奥でドクドクと鼓動がうるさく脈打ち、喉が締め付けられるような息苦しさを感じながらもなんとか声を絞り出した。 「い、え……僕一人だけで、大丈夫です…」 「そう、ですか…では、こちらを」  医師に差し出された検査用紙。  軽く目を通しただけでは素人の柚希には何の項目の数値が良いのか悪いのかわかるはずがなかった。  そのはずなのに、ある一箇所に書かれた数字だけがやけに目立って見えてしまったのだ。  0.1という数字が。 「……先生、この結果は…」 「……東条さん……あなたの妊娠する確率は0.1%しかありませんでした」 「……え」  何を言われたのか意味が理解できなかった。  妊娠する確率が0.1%…?  子どもを作ることが結婚の条件だったのに…?  じゃあ…子どもができないこの身体では、蓮と一緒にいられない……?  目の前が真っ暗になり、周りの音も何も聞こえなくなっていく。手足の感覚もなくなり、まるで深海に沈められたかのように、ただキーンという耳鳴りだけが脳内に響いた。 「東条さん、東条さん!大丈夫ですか?」 「っ…!」  医師の言葉にハッと目を見開く。そして小さく首を横に振り、消え入りそうな声を出した。 「すみません…大丈夫です……あの、このこと…東条の家には…言わないで、ください……お願いします……」 「もちろん私のほうから東条様へこの検査内容を伝えるようなことはしません。ですが……もしも、あなたが今日ここに来たことが知られてしまった場合、あの方は簡単に検査結果を手に入れることができてしまいます。実は、数日前にもオメガの妊娠検査についての問い合わせが入っていました」 「……」  逃げられない。  そんな言葉が頭に浮かんだ。  蓮は義父が何か言っても検査なんか受けなくても良いと言ってくれたが、きっと遅かれ早かれバレてしまう。  柚希が今日ここで検査を受けたことがバレるのが先か、無理やりにでも再度検査を受けさせられるのが先かはわからない。だが、この先も子どもができる可能性はほぼないのだ。義父がこの先、何年も待ってくれるわけがない。 「……東条さん、旦那さんに連絡して迎えに来てもらいますか?今のあなたをそのまま帰すのは医者として勧められない」 「…すみません……待合室で少しだけ、休ませてください…彼にも…今…会いたく、ないんです……どんな顔すれば良いのか、わからなくて…」  こんな現実から逃げ出したかった。何もかも投げ捨ててしまいたい。  実家があれば逃げ帰っていたのかもしれない。だが、柚希にはそれすらもなかった。  唯一の帰れる場所、それは蓮のところ。だけど、今はそれすらも失われようとしている。 「……では、あちらの病室を使ってください。ここは東条様の会社の方もよく来られる。今、彼らに見られるのはまずいでしょう。会計と出口も別で案内するよう手配しておきますので、ここを出るのは安心してください。一先ず休んで、必要そうでしたら安定剤なども処方しますので言ってください」 「…そこまでしていただいて…ありがとうございます…」 「いえ…あなたの顔を見ていたら放ってなんておけないですよ」  そんなにもひどい顔をしていたのかと少し申し訳なくなりつつも医師の気遣いに感謝し、ありがたく空いている病室で休ませてもらうことにした。  医薬品の匂いが漂う病室。その香りとベッドは蓮と初めて出会った高校の保健室を思い出させた。 「……」  きっとここだけじゃない。これから先、いろんな場所や匂い、その一つ一つに蓮との思い出が蘇ってくるだろう。  それだけ二人で多くのことを共有してきたのだから。 「……蓮…」  病室の窓から見えた空はどんよりと曇り、今にも雨が降り出しそうだった。

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