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アフターストーリー 3.巣立ち
「ゆず、あのさ……大学、やっぱ第一志望変えようかと思うんだけど」
「えっ、何処にするの?」
「都内の……ゆずと父さんと同じとこ」
マグカップを握る柚希の指先がぴくっと小さく跳ねる。波紋が広がるマグカップの中へと視線が落ち、こくりと頷いた。
「……うん、そっか…あそこは良い大学だよ……蓮にも、帰ってきたら言わないとね」
にこっと笑みを浮かべたが、眉尻の下がったその笑顔は無理して作っているものだと、陽汰にもすぐにわかった。
柚希は嘘が下手だから。言葉にしなくてもちょっとした仕草や表情で陽汰のことをとても心配しているのがわかってしまう。
それでも、陽汰は悩んで、悩んで、自分の行きたい道を選ぼうと決めた。
だけどやっぱり柚希の不安を滲ませる顔を見るのは胸がきゅっと締め付けられるような思いがする。
気まずげに視線を下げるとタイミングを見計らったかのようにポケットに入れていたスマホがブブッと震えた。
「……っ、ちょっと晴斗のとこ行ってくるよ。さっきの話、あとで俺から父さんに話すね」
「あ、うん。あんまり遅くならないようにね」
「はーい」
ちらりと見た画面に映し出されていたのは晴斗からのメッセージ。だが、実際にはスタンプしか送られてきていなかった。しかも陽汰が送ったメッセージに対する特に意味のない返事だ。
覚悟を決めて柚希に話したが、あの表情を見たらやはり気持ちが揺らいでしまいそうになり、思わず飛び出してきてしまった。
まだ少し暑さの残る秋の夕暮れの中、陽汰は田舎道を走って晴斗の家へと向かった。そして、自分の部屋のように彼のベッドの上へと迷いなくダイブする。
陽汰がこんな風に晴斗の部屋に飛び込んでくるのは珍しいことではない。晴斗は慣れた様子で手にしていた漫画を机の上へと置いた。
「ひな兄、どうしたの?試験近いからしばらく来ないって言ってなかったっけ?」
「んー、息抜き……あのさ、晴斗。俺、引っ越すかも」
「えっ?」
「都内の大学、受けたいんだよね……ゆずがすごい心配してるからどうなるかわからないけど」
ごろんっと転がり、陽汰用に置いてある枕をぎゅっと抱きしめる。
年の差はあるけれどやっぱり何かあったときに一番話しやすいのは晴斗だ。頼りになる、とはまた違うけれど、何でも話せるというのは間違いない。
「どうして突然?ひな兄ずっと県内の大学にするって言ってないっけ?」
「突然というか…やっぱ向こうの大学のほうがやりたいことあるし…」
一年生のときに一度躓いてしまったが、それ以降は発情期があったとしても成績トップを維持し続けている。
先生も都内の大学を薦めてくれているし、何より両親が通った国内トップレベルの大学に挑戦したいという気持ちが強い。
しかし、一番心配なのはやはり陽汰の身体だ。高熱が出る頻度も減ってくるはずだと前に医師に言われたが、その兆候は未だ見られない。
柚希に看病してもらったり、時には晴斗にも看病してもらったりもしてきたが、一人暮らしとなったら全部一人で乗り切ることになる。
幼い頃から陽汰が高熱で苦しむ姿を見てきた柚希が過剰に心配するのも無理はない。
枕を抱きしめながらベッドの上でごろごろしていると、晴斗がすぐそばに腰掛けた。最近になってぐんっと背の伸びた彼のことを見上げると、彼にしては珍しく真剣な表情をしている。
「ねぇ、ひな兄」
「ん?」
「…俺と一緒に都内で暮らさない?」
「……は?」
「俺も都内の高校受ける。それで二人で一緒に暮らす。それなら柚希さんも蓮さんも安心すると思わない?」
「え、いや、そりゃ安心するだろうけど……お前そんな頭良かったか?」
晴斗の成績を詳しく聞いたことはなかったが、飛び抜けて頭が良いということはなかったはずだ。どちらかというと勉強よりもスポーツマンタイプだったはず。
そんな晴斗が都内の高校を受験するというのならばレベルの高いところに行きたいから、という理由がなければきっと彼の両親は許してくれないだろう。
「…勉強する」
「……」
「だめ…?」
「……あぁ、もう、そんな捨てられた子犬みたいな目で見るな!わかった、ゆずと父さんにもそれ言ってみるから、お前もおじさんとおばさんにちゃんと言うんだぞ」
「うん!」
パッと表情を輝かせる晴斗にやれやれと溜め息をつきながらも晴斗の提案は悪いものではない気がしてきた。
少なくとも柚希の心配を減らしてあげることはできるだろう。
その日の夜、陽汰は蓮と柚希に改めて都内の大学を第一志望にしたいことを告げた。そして、晴斗が一緒に暮らさないかと言ってきたことも。
「俺も晴斗も受かるかはわからないけど、もし、受かったら二人で一緒に都内で暮らす。良いかな…父さん、ゆず…」
「晴斗くんがそれ言ってくれたの?僕としては晴斗くんが一緒にいてくれるっていうなら安心できるけど……蓮はどう思う?」
「そうだな、俺も良いと思うぞ。晴斗はベータだったよな?それなら、問題ないだろ」
二人の言葉に陽汰はホッと息をついた。もし晴斗がアルファだったらダメだと言われていたかもしれないが、幸いにも彼はベータだ。陽汰の発情期がきたとしても影響を受けることがない。
最初に都内に行きたいと言った時に見せた柚希の不安気な表情も今は明るいものになっている。やはり、口に出さなくても陽汰が思っていた以上に心配していたのだろう。
「二人とも、ありがとう。俺、頑張るよ」
「うん、頑張ってね。応援してるよ」
「あぁ、陽汰が俺たちの後輩になるのを楽しみにしてるからな」
両親の応援を受け、陽汰は力強くこくりと頷いた。
一方その頃、晴斗も両親の説得になんとか成功したのだが、案の定レベルの高い高校なら許すという条件が出されていた。
今の晴斗の成績では到底無理な高校を指定されたが、それでも晴斗はやってみせると誓った。陽汰と離れるのが何よりも耐えがたかったから。
陽汰が都内の大学に行くかもしれないと言った時、まるで鈍器で殴られたかのような衝撃だった。
陽汰は晴斗が生まれてすぐの頃からずっと傍にいてくれたし、大学に行ったとしても近くに住んでるならいつでも会えるだろうと思っていた。だから、彼が引っ越すなんて想像もしていなかった。
こんなにも身体が弱くて、守らなければいけない存在の彼を一人で都会になんて行かせられるわけがない。
きっと陽汰は晴斗の執着心には気付いていない。優しい幼なじみが心配して一緒に暮らそうと提案してきたくらいに思っているかもしれない。それで良かった。近くにいられるなら理由なんてなんでも。
ぐっと掌に力をこめると机に置いてあったスマートフォンが着信を告げた。相手は今まさに考えていた人物、陽汰だ。
『もしもし、晴斗。さっきの話もうした?俺の方は大丈夫だったけど』
「うん、俺のほうも良いって言ってもらえたよ。結構厳しい条件出されちゃったけどね」
『ははっ、まぁ、そうだよな。けど許してもらえたなら良かった。勉強行き詰まったら見てやるから、一緒に頑張ろう』
「うん、ありがとう、ひな兄」
◆
二人で都内への進学を目指すと決めてからはあっという間に時間が過ぎた。
それぞれの試験を乗り越え、暖かい日も増え始めた三月上旬。先に結果が出たのは陽汰だ。
よく晴れた青空の下、まだ桜の咲いていない大学の桜並木を陽汰は柚希と蓮と歩いていた。
合格者が貼り出されている掲示板まであと少し。人々の賑やかな声が近づいていく中、陽汰はピタッと足を止め、柚希と蓮の袖をくいっと引っ張った。
「二人とも、ここで待ってて」
「え?一人で見てくる?」
「うん。すぐ戻ってくるから」
自分の目で見て、自分の口から二人に伝えたい。そう思った陽汰は一人で駆け出した。
二人の元から走っていく背中はまだ少し少年らしさを残しながらも、しっかりとした足取りで先へと進んでいく。
「陽汰、大丈夫かな」
「大丈夫だろ、なんてったって俺たちの息子だからな」
「ふふっ、そうだね……ここも懐かしいなぁ。まさか陽汰と一緒に来ることになるとは思わなかった」
柚希と蓮が最後にここを歩いたのは桜の舞い散る卒業式の日。そしてその日、高校の屋上で蓮にプロポーズされた。
何年経っても色褪せることのない記憶。
あれから陽汰が産まれて、こんなにも大きくなった。
「柚希」
「ん?」
「あの時の写真、待ち受けにしてもいいか?」
「……まだ持ってたの?」
「消すわけないだろ?」
蓮が言っているのは間違いなく文化祭で撮ったウェディングドレスとタキシード姿の写真だろう。かれこれ20年近く経つのにまだ持っていたなんて。
「……陽汰に見せないならいいよ」
「よっしゃっ」
まるで大学時代に戻ったかのようなやり取りをしていると遠くのほうから陽汰が走ってきた。その顔には満面の笑みが浮かんでおり、柚希と蓮の顔にも同じように笑みが浮かび上がる。
二人の元に飛び込んできた身体を抱きしめるとふわりと優しい香りが漂い、柔らかい髪がぴょんっと跳ねた。
「ゆず、父さん、合格してたよ!」
「おめでとう、陽汰」
「よくやったな、陽汰」
陽汰の合格発表があった二日後、晴斗も無事に合格したとの知らせが入った。
まさか本当に合格するなんて、と晴斗の両親が一番驚いていたが、当の本人は合格したことよりも陽汰と二人暮らしできることを喜んでいたようだ。
何はともあれ二人での都内暮らしが決まり、どたばたと家探し、引っ越しの手配などを行い、気付けば引っ越し当日を迎えた。
家族三人の写真が飾られた玄関。学校から帰って、この扉を開けるといつも美味しそうな匂いがしていた。出かける時はいつも柚希が「気を付けてね」と声をかけてくれた。
そんな思い出の詰まった玄関に立ち、陽汰は蓮と柚希の顔をしっかりと見た。
「父さん、いつもの…やって?」
「なんだ陽汰、いつもは嫌がるくせに」
そう言いながらも蓮は陽汰の柔らかな髪をくしゃくしゃっと撫でた。少し荒っぽいが、蓮の大きく温かな手に触れられると子どもの頃に戻ったような気分になる。
「あー!もう、それくらいでいい!次はゆず」
「ふふっ、いいよ。おいで、陽汰」
柚希の腕の中に体を埋めると優しい香りが陽汰のことを包み込んだ。
小さい頃から変わらず抱きしめてくれる柚希。だけど、気が付けば陽汰の身長のほうが柚希よりも少しだけ大きくなっていた。
「向こう着いたら連絡するね」
「うん、気をつけて行ってくるんだよ。晴斗くんと仲良くね」
「うん……じゃあ、晴斗も待ってるし、もう、行くね」
窓から差し込む光が陽汰の瞳に浮かんだ雫をきらりと照らした。溢れ落ちそうになる涙を拭った陽汰の顔には希望に満ちた笑みが浮かんでいる。
「ゆず、父さん、いってきます」
「頑張れよ、陽汰」
「いってらっしゃい、陽汰」
玄関がパタンッと閉まり、砂利を踏む足音が徐々に小さくなっていく。その音が完全に聞こえなくなるまで柚希も蓮もその場から動かず、じっと陽汰が出て行った先を見つめていた。
しばらくして蓮が柚希のほうを見るとその大きな瞳は涙の膜で潤み、少しだけ赤くなっている。
フッと小さく息を漏らしてから柚希の髪をくしゃっと撫で、彼の泣き顔を隠すようにそっと抱きしめた。
「よく我慢できたな」
「んっ……笑って、見送りたかったから…」
震えを含んだ声の中、ぽろりと落ちた雫は蓮の胸が優しく受け止めた。
◆
陽汰が出ていったあとの部屋を柚希はぼんやりと眺めていた。
全ての荷物を持って行ったわけではなく、いつでも帰ってこれるようにはしてある。それでもこの場所はいつもとは大きく変わってしまったようだった。
陽汰を育ててきたことは苦痛ではなかった。だけど、それと同時に何かに追われているような感じは常にしていた。
それが今、全てなくなったような、達成感というよりも空虚感が心の中に漂っている。
「蓮……」
「うん」
「……良い親になれた…かな…?」
母親からの愛情を知らずに育ってきた自分には子育ての正解なんてわからなかった。ただ、陽汰には幸せになってほしい、その気持ちで育ててきた。
「柚希は今、幸せ?」
「うん…蓮も陽汰もいる…それだけで幸せだよ」
蓮は柚希のことを後ろから抱きしめ、スマホの画面を見せた。そこには何枚もの写真が一枚にまとめられた画像が映し出されている。
家族三人の写真、陽汰が赤ちゃんの頃の写真、ちゃっかり文化祭の時のあの写真も混ざっている。
そしてタイミング良く陽汰から『着いたよ』というメッセージと共に新しい部屋で撮られた晴斗とのツーショットが送られてきた。
春の日差しが差し込む部屋。明るく笑う陽汰と晴斗。
その笑顔を見ていると柚希の顔にも自然と笑みが浮かんだ。
「ほら、柚希はちゃんと良い親になれただろ?」
それは、写真の中の陽汰の笑顔が証明してくれている。
柚希はこくっと頷き、蓮のことを見上げて少し悪戯っぽく提案してみた。
「僕たちも写真撮ろっか、子育てお疲れ様記念」
◆
トントンッと手際よく野菜を切っていく陽汰の姿を晴斗は隣で呆然と眺めていた。
引っ越しの荷解きも終わり、初めての二人での夕食。キッチンに揃って立ったのは良いものの、陽汰のあまりの手際の良さに晴斗は何の役にも立てずにいた。
「これからも料理は俺が担当したほうが良さそうだな」
「ははっ、そうだね。俺はひな兄が体調崩したとき要員かな」
「あと味見係な。ほら、これ食べてみて」
二度揚げした唐揚げを晴斗に食べさせると彼はすぐに目をキラキラと輝かせた。
「ひな兄これめちゃくちゃ美味しい!どうしてこんなに料理上手いの?」
「そりゃだって……」
料理は幼い頃から柚希と蓮が教えてくれた。三人でキッチンに並んで、陽汰が初めて包丁を使う時なんかは柚希のほうが緊張したりしてたっけ。それを蓮が宥めてるのを見て、子どもながらにうちの両親は本当に仲が良いな、なんて思ったりもした。
たまに蓮とこっそりつまみ食いしたのを柚希に見つかって怒られもしたけど、そんな時は蓮が柚希の口の中に同じものを放り込んで「これでみんな共犯だな」って笑ってた。
料理には、そんな暖かい時間を過ごした思い出がたくさん詰まってる。
親元を離れた寂しさもあるけど、こうして料理をしてたら三人での時間はいつでも思い出せる。それに、これからは目の前にいる幼なじみが新しい思い出を作ってくれるはずだ。
「これはゆずと父さんから譲り受けたものだから、美味いに決まってるだろ?」
そう言いながら陽汰も唐揚げを一つ、口の中に放り込んだ。
うん、やっぱり、ゆずと父さんの味だ。
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