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第8話
夜になると、また外が荒れ始めてきた。
魔素の粒が、ゆらりと宙を漂いながら、風に乗って揺れている。
けれど、ハロルドの言った通り、嫌な気配はない。吹きつける風はやや強いが、魔素はただ静かに浮かんでいるだけだった。
この土地の夜にも、少しずつ慣れてきた。
魔素が漂っていても、それがすぐに害をなすものでないことが、今ははっきりとわかる。
寝室には、ランプの灯りがひとつ。ほのかに揺れるその明かりのもと、ベッドの上にはハロルドが上半身をあらわにして、腹ばいになっていた。
フィンは軟膏と医療道具を手に、そのすぐ横にぴたりとくっついて腰を下ろす。
「……よし。診察、始めます。本日は真面目に、全身チェックするからね」
「ははっ。真面目に、って何だよ、それ」
「真面目に診察するってこと!」
ぴしっと宣言しながら、フィンはハロルドの肩に指をあてる。
「……あー、やっぱりこの傷、まだうっすら残ってる。半年前の斬撃だな」
「半年? よく覚えてんな」
「覚えてるよ。私が縫ったんだから。しかもあなた、血まみれなのに『動ける』とか言って立ち上がって……こっちはヒヤヒヤしたんだから」
「あはは、そんなこともあったっけなぁ」
「笑わない! はい、次。こっちの脇腹。これもかなり深かった……あのときは確か、部下を庇ったんだよね?」
「うん、まぁ。ちょっと避け方ミスってさ~」
「そんな軽く言わないで! この傷、縫合十針! 十針だよ、覚えてる?」
「あれ、そんなにだっけ?」
「やっぱり、自分の体に無頓着なんだから……」
首筋から背中、脇腹へと指を滑らせながら、フィンはふいに手を止める。
そして、腕を組んで無頓着なハロルドをじっと睨む。だけど、その目は怒っているというより、呆れているような、だけどどこか楽しんでいるような感じだった。
ハロルドの傷痕…それは、自分が手術した記憶と、戦場で共に過ごした時間の記録でもある。だからそれを見るたびに、どこか誇らしくさえ思える。
「えっ? は?……この太ももの裏の傷、これいつの?」
「ん? ああ、多分、湿地の戦線のとき。足引っ張られてさ。無理やり抜け出したら、ズバッと」
「うそ……これ知らない。もうっ、無茶するからそうなるんだって。しかも、これ治りかけで再出血させたでしょ」
「あれ……俺、叱られてる?」
「叱ってます! 怪我したのに、なんで私に言わなかった?どうして隠したの!」
「まあ、たいしたことなかったから?」
「あなたは医者じゃないでしょう!? たいしたことないかどうかは、私が判断することなの!」
「わーかった、わかったよ」
笑いながらハロルドが頭をかく。
その動きで、フィンの視線が自然と背中に落ちた。ふと、そこに浮かぶ古い傷跡、深く走る、三筋の線となって刻まれている。
「……この背中の傷。……これ、最初に見たとき、本当に驚いた」
静かに、フィンの手がそこに触れる。その声は、どこか遠くを思い出すように揺れていた。
「……三本の線。まるで魔物が通った痕みたい。あのとき、必死で縫い合わせたけど……今でも、指先に感触が残ってる」
「ああ……それな。最初の遠征だった。新米の部下が動けなくなって……でも、間に合った」
ハロルドの低い声には、当時の土と血の匂いがまだ残っているようだった。フィンの指がその痕をゆっくりなぞるたび、彼の背筋がわずかに震える。
「だけど……一歩違ったら、あなたの命が危なかったでしょ」
「そうかもな。でも……あの時、あの場にフィンがいてくれた。俺は助かった。それだけは、揺るがない事実だ」
フィンの指先が、そっと傷に沿ってなぞる。その手は、いつものように冷静な医師のものなのに、どこか、ためらいがちだった。
「こんなに傷だらけになって……ほんと、もう、バカなんですか」
「バカなんだろうな。毎回フィンに怒られてるのに、なかなか止められなくて」
「…怒っても直らないのが、いちばん困る」
そう言いながらも、フィンは頬をぷくりと膨らませたまま、軟膏を指にとって新しい傷口へ馴染ませていく。擦り傷だが、またいつの間にか出来ていたらしい。
その手つきは、いつもの厳しさとは違っていて、どこか、愛しさがにじんでいた。
「怪我をしたら……ちゃんと、最初から全部見せること。わかった?」
「……ああ。これからは、ちゃんと頼る」
その言葉に、フィンの手がぴたりと止まる。ふいに真剣な声音で返されて、急に照れが胸にせり上がる。
「……そういうトーンで言われると、なんか、照れるんですけど」
「フィンが真剣で可愛かったからさ」
「……だから、そういうのやめてってば!」
「また照れてる。そういうとこ、好きだけどな」
「うるさい!」
そう言いながら、フィンは手のひらで軽くハロルドの背中を押し返した。
軟膏を塗り終え、フィンがひとつ深く息を吐き、離れようとしたときだった。
「ありがとな、フィン」
仰向けになったハロルドが、不意にそっとフィンの手首を取る。
「……え?」
「そっち側行ったら寒い」
そのまま軽く引き寄せられた拍子に、フィンはバランスを崩して、ハロルドの胸に倒れ込むような形になった。
「わっ……ちょ、ちょっと! 近い!」
「近くないとダメなんだけど」
「な、なにが、ダメなのっ」
「離れると寒いから」
「……なにそれ。理屈になってないから」
「せっかく一緒に寝るんだし。この方が朝まであったかくていいだろ? ここは朝晩は寒くなるから、とりあえずこうしようぜ」
「……もうっ。そんな勝手なルール、いつ決めた?」
「今」
「……はあ……何言って…明日は調査班が来るんだよ? ほら、もう早く寝て」
「寝るよ?だから、ここで、このままで」
「……くっつく必要、ないでしょ……?」
「ある。落ち着くし。……ダメ?」
「……っ」
返事ができないまま、フィンはベッドの端へ逃げようと体をよじらせる。
「フィン」
名前を呼ばれ、またぴくんと肩が跳ねた。
「……はい」
不意打ちすぎて、反射的に素直な返事が口をついて出る。
「呼んで?……名前」
そのまま抱きしめられていて、振りほどくこともできず、声の温度に逆らえない。
「……ハロルド」
素直に名を呼んでしまう。
「…………」
「ちょっ……! なに?呼ばせといて、照れるのやめてってば!」
「いやいや、これは無理だろ。照れない方が難しい」
「……変なこと言わないでってば」
「ま、明日から忙しくなるしさ。だから……もうちょっとだけ、こうしてたい」
その声が、やけに優しくて、ずるいと思う。照れたり優しくしたり忙しい奴だ。
「……わかった。ほんとに少しだけだから」
フィンは小さくため息をつき、肩の力を抜いた。抱きしめられると、暖かくて安心するのは本当のこと。だからもう少し、このままでもいいやと思ってしまった。
「うん」
「でも、あんまり調子に乗らないでよ。これは……特別なんだから」
「はいはい。特別、大歓迎。……なぁ、もう一回、呼んで?」
にやにやと笑うハロルドに、フィンは思わず布団を引き寄せて顔を隠した。
「……もう、言わないっ!」
けれど、布団越しにも伝わってくるそのぬくもりが、胸の奥をそっと和らげていくのだった。
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