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第14話
王都に入ったフィンが最初に目にしたのは、静まり返った街の異様な空気だった。
瓦礫、歪んだ建物、空をさまよう黒い粒子。目に見えぬ瘴気のように、それは都市全体に広がっていた。
崩れかけた家屋の下で泣く子ども。言葉を失ったまま立ち尽くす市民たちの姿も、数多く見かけた。
「……ここまで……」
馬車を降りるなり、フィンはまっすぐ広場へと駆けた。
疲弊した軍、傷だらけの兵士たち。以前と同じ戦場の光景に、思わず目を背けそうになる。けれど、立ち止まる時間はない。
負傷者は多く、医療班の数も圧倒的に足りていなかった。現場は混とんとしている。
少しの時間も無駄にできない。
「負傷者は西側へ! 呼吸が乱れている者は右、出血がある者は左、軽傷者はその場で待機!」
鋭く響いたフィンの声に、混乱しかけていた兵たちが一斉に動き始める。
医療班の一人がフィンの顔を見て、驚きと安堵の入り混じった表情を浮かべた。
「……フィン先生……!」
「大丈夫。ここからは私が指揮を取る。よく踏ん張ったね」
その一言だけで、張り詰めた空気がわずかに和らいでいく。
フィンは片膝をつき、すぐさま治療道具を広げると、目の前の兵士に手を伸ばした。
「衝撃による内出血。気道の刺激もある……外気を遮って、落ち着かせて」
「はい!」
矢継ぎ早に処置をこなしながら、現場を見渡し、的確に指示を飛ばす。
「背部打撲と意識混濁が多い。肺と頭部の損傷を疑って。深呼吸は避けて、姿勢を安定させて!」
その判断力と統率力に、兵たちの動きは次第にまとまり始める。
「君、まだ動けるね? 応急処置箱を集めて、あの隊列に!」
「は、はい!」
人が次々に動き出し、混乱していた広場は、少しずつ秩序を取り戻していった。
そんな中、聞き慣れた声が響いた。
「……こっちだ、下がれ!」
ハロルドだ。
剣を振るいながら、最前線で魔素に立ち向かい、指示を飛ばしていた。
フィンは一瞬、その姿に心を奪われる。
けれどすぐに視線を目の前の患者へと戻す。今は、医者としての自分の役目を果たす時だと判断する。
やがて攻勢が一段落し、広場に一息つける空気が戻ってきた。
最後の包帯を巻き終えたとき、背後に静かな気配が近づく。
「……来てたのか」
低く、聞き慣れた声だった。
顔を上げると、ハロルドが立っていた。
ゆっくりと、いつものように微笑んでいる。けれどその身体は、全身に傷を負っていた。
それでも彼の目に宿っていたのは、痛みではなく、確かな安堵の色だった。
「また……傷だらけじゃない」
「はは……怒られると思った」
その場に座らせ、フィンは無言のまま治療を始める。薬を塗り、包帯を巻いていく。手つきは冷静でも、胸の奥はざわついていた。
「……苦戦してる?」
「まあな。思ったより手こずってる。でも、想定内だ」
強気に返すハロルドだが、至近で見るその顔には、隠せない疲労がにじんでいる。
ふと、ハロルドがフィンの頬に手を添えた。
「久しぶりだな……会いたかった」
その一言に、フィンの手が止まった。
傷だらけの体で、それでも優しく触れてくるその手が、胸の奥までじんと染みる。視線を交わしてしまいそうになり、慌てて目を伏せた。
「……おい、そんな顔。戦場でするなよ」
「……そんな顔って?」
横を向いたまま問い返すと、ハロルドはふっと笑った。
「……可愛い顔」
「してない」
「してる。今もしてる」
「してないってば……!」
「してる」
「……もう、じっとしてて。怪我人でしょ」
そっぽを向きながら包帯を巻く手に、わずかに力がこもる。ほんの一瞬、戦場ではなく、いつもの部屋に戻ったような錯覚が胸をかすめた。
フィンは慌てて包帯と道具を片付けはじめる。
ハロルドは目を伏せたまま、ぽつりと呟いた。
「よく……ここまで来れたな」
「……当然でしょ。それに、あなたが怪我してるって、わかってたし」
その言葉に、ハロルドは小さく笑った。
「……だけど、無事でよかった」
気づけばフィンの指が、ハロルドの服の裾をそっと握っていた。
触れたかったわけじゃない。ただ、確かめたかっただけ。生きて、ここにいるということを。
「……その顔、好きだよ」
ハロルドがそう言って、またフィンの頬に触れる。
「今すぐ抱きしめたいけど……ここ、戦場だからな」
冗談めかしているが、その声音にはどこか真剣さがにじんでいた。
「……じゃあ、帰ったら、部屋でして」
「は?……おい」
思わぬ返しに、ハロルドがぽかんと目を丸くする。その顔に、フィンはふっと笑って立ち上がった。
「ふたりで休暇取るんでしょ?」
包帯を箱に仕舞いながら、ぽつりと漏らす。
「……ほんとは、私だって……ずっと抱きしめられたかったよ」
そう呟いた自分の声が、ほんの少しだけ震えていたことに気づき、背を向けたまま手に力を込める。
「……っ」
ハロルドが小さく息を呑むのが聞こえた。
けれどフィンは背中を向けたまま、続ける。
「帰ったら……ここが終わったら、思う存分して。もう、勝手に置いて行かれるのは嫌だし。こっちだって、言いたいことたくさんあるんだから」
肩越しにちらりと振り返る。
唖然としたハロルドの顔を見て、思わず笑みがこぼれた。
「……なにその顔。ちょっと新鮮なんだけど」
「そりゃあ……そんなこと言うなんて、想像してなかったから」
ハロルドの姿は、いつもの余裕ある彼とはまるで別人だった。
「……言われ慣れてないの? ふふ、いつもと逆だね」
自然に出たその一言には、ずっと胸の奥にしまっていた想いが滲んでいた。
これまであなたがくれた言葉を、今度は私が返す番。そんな思いが、静かに、けれど確かにフィンの胸に灯っていた。
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