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第16話
夜がきた。
目を覚ますとすぐ、作戦会議が始まった。
ハロルドが司令官として前に立ち、部隊の配置が次々と決まっていく。
彼の声は簡潔で明瞭だった。何より、迷いがない。その背中を見ていると、不思議と不安が静まっていく。兵たちの視線も、自然と彼へと集まっていた。
夜が深くなるにつれ、空気にざわめきが戻ってきた。日が沈み始めると、魔素の気配が再び強まり、冷たい風が肌を刺すように吹き始める。
そして、それは突然だった。
空全体が悲鳴を上げたように、都市の中心部へ向かって激しい気流が巻き起こった。テントの中にいても、その異常な気配がはっきりと伝わってくる。
誰かの息を呑む音。
兵のひとりが剣を握り直す。
空中を漂っていた魔素の粒子が、一点に吸い寄せられ、黒い渦となってうねり始めた。
低く軋むような音が響く。空も街も、何かに耐えているようだった。
フィンとハロルドが外に出ると、視界の先に、考えられないほど巨大な影が現れていた。
「……魔物になったか」
ハロルドが低く呟く。その目には、揺るぎがない。まだ遠いが、闘うべき敵が、ついに形を成した瞬間だった。
テントの中央では地図が広げられ、幹部たちが集められていた。
ハロルドは手を伸ばし、地図の中心部、中枢区を指でなぞる。
「魔素核がある中心部を囲むように、三部隊で展開する。進行ルートを封じて、被害を最小限に抑えろ。医療班は第二防衛線の裏に。補助と観測に集中してくれ」
言葉は端的で、無駄がない。
兵たちは真剣な表情で頷きながら、それぞれの任務を確認していく。
「核が露出した時点で、俺とフィンが正面に出る。その瞬間が、決戦の合図だ」
静まり返る空気の中に、ぴんと張りつめた緊張が走った。それでも、誰一人として反論する者はいなかった。
フィンは黙ってハロルドを見つめた。
その声は静かで、けれど確かだった。
作戦会議が終わると、ハロルドが地図から目を離し、全員を見渡す。
「各部隊、配置につけ。第二防衛線は魔素の逆流に備えて、動きを読むこと。……あとは俺の合図を待て」
緊迫した空気の中、兵たちは次々と動き出した。整然とした軍の動きは、一糸乱れもない。
フィンも息を整え、背中のバッグから守晶のケースを抱え直す。
手の中にあるその結晶は、小さく震えていた。いくつもの願いを込めて作られた、大切な結晶。
これで終わらせる。
心の中で、そっとそう呟く。
ハロルドと並んで、前線へと歩き出したそのときだった。
空が裂けるような轟音が響く。
都市の上空に、ぽっかりと亀裂が走った。
光も音も吸い込まれるようにゆがみ、その中から、黒い塊が姿を現す。
それは、今までに見たどの魔物よりも巨大で、異質だった。
獣のような四肢を持ちながらも、輪郭はあいまいで、空中で分裂してはまた集まり、まるで形そのものを探しているかのように蠢いている。
「……とうとう来たか。思ったより、早かったな」
ハロルドの低い声に、迷いはなかった。
その隣で、フィンは守晶を強く抱きしめる。この戦いに終止符を打つために。
その手に、すべての想いを込めて。
風が止まり、時間が止まったように張りつめる。フィンは守晶を胸元に引き寄せ、そっと目を閉じた。
「……行こう」
その一言に応えるように、そっと肩に置かれた大きな手。振り返ると、ハロルドがすぐそばにいた。
「俺がついてる。……絶対に、君をひとりにはさせない」
その声に、フィンは頷いた。
二人は、軍の布陣を抜けて、静かに前へと進んでいく。その背中に、兵たちは自然と道を譲った。言葉はなくとも、敬意と信頼が彼らを見送っていた。
向かうのは、魔物の核の脈動がもっとも強く感じられる場所。空気が震え、地に沿って漂っていた魔素がざわめき始める。まるで何かを察知したように。
フィンの足取りに迷いはなかった。彼の傍らに寄り添うハロルドが、その背に静かに手を添える。無言の支えに、フィンは微かに息を整えた。
核の存在が、黒く揺らめく中心に輪郭を取り始めた、その瞬間、
「全軍、退避!外周を固めて、魔素の波の逆流に備えろ!……ここからは、俺たちがやる」
ハロルドの声が静かに響いた。
フィンが振り返ると、魔素の渦が深くうねり、中心で何かが脈打ち始めていた。核が、目を覚ましたようだった。
「今だ、フィン。合わせろ」
フィンは深く息を吸い、右手に守晶を構える。
この結晶は、魔素核の波長と共鳴することで、その内に秘めた守素を放出する。だが、それは理論ではなく、感覚の領域だ。
魔素の脈動と、守晶の律動。
ふたつが重なったその一瞬だ。
リズムを、感じとる。
フィンは目を閉じ、風の音、地の振動、空気のざわめきに耳を澄ませた。守晶が、かすかに脈打つ。その鼓動が、魔素核の不規則な波に寄り添うように、ゆっくりと、同期を始める。
「……まだ…今じゃない。ずれてる」
一度、構えた腕をわずかに引き戻す。
魔素の波長が乱れている。核の鼓動が跳ねて、一定のリズムを逸脱していた。
焦りが指先を震わせる。
だが、フィンは動じなかった。
もう一度、深く息を吸う。
守晶は、生きている。意思のような微かな震えが、掌を通して伝わってくる。
「お願い……」
そのとき、フィンの胸の内に響く確信。
瞬間、守晶が脈打つ鼓動と、魔素核のうねりがぴたりと重なった。
「__今!」
第一投。
フィンの指から離れた守晶が、白い光の軌跡を描いて宙を裂く。
魔素の中心。核へ向かって、一直線に吸い込まれていく。
刹那、黒く濁った波がひとつ、ほどけた。
魔素の重圧が、一瞬だけやわらいだ。
「……まだ、足りない。次」
二つ目の守晶を構える。
だが、
「違う…またずれる。核の呼吸が、跳ねてる…っ!」
魔物が痛みに反応し、核の波長が狂っていた。まるで、自身を守るために鼓動を意図的に乱しているかのように。
焦るフィンの額に、汗がにじむ。
「……焦るな、フィン」
ハロルドの声が隣で聞こえる。
「わかってる…」
風のうねり。足元をかすめる気流。守晶が、その流れと共鳴する瞬間を、ただひたすらに待つ。
そして、
「……今!」
二度目の放出。
白い光が再び宙を走り、魔物の核へと吸い込まれていく。
その瞬間、魔素核の奥底にあるものが、明確に揺れた。濁流のように荒れていた気配が、深いところから少しずつ、解かれていく。
だが、なおも魔物は抗おうとしていた。呻くような咆哮が空に響き、濁った波が吹き荒れる。風が逆巻き、地面がひび割れ、空気が焦げる。
そのとき__空気が避けた。
「フィン、下がれ!」
鋭い声が飛ぶ。ハロルドだった。
「でも…っ!」
「これは命令だ! 来るな!」
低く、抑えの効いたその声に、フィンの足が止まる。
「ここから先は、俺が終わらせる」
ハロルドは静かに剣を抜いた。
刃に刻まれた古の術式が、守晶から放たれる律動とわずかに共鳴し、淡い光を帯びてゆく。
「全軍、後退!退避優先!負傷者は第六陣へ!」
その一喝が戦場に響いた瞬間、兵たちは動き出した。誰もがその背に導かれるようにして、最前に立つ男の命令を信じ、配置を離れていく。
守素の波長はまだ揺れていた。フィンの二度の投擲によって流れは広がっているが、中心は不安定なままだ。
それを正しく調律できるのは、いまこの瞬間、ハロルドだけだった。
彼は一歩踏み込み、低く構え、魔素の渦に向かって地を蹴った。跳ねるように、音を裂くように。
剣がひと閃。
魔物の外殻を断ち、渦を裂く最初の一撃。
鈍い音とともに、波長が一段階、整っていく。
そして彼は…ハロルドは止まらない。
黒い魔素の渦が彼を飲み込もうとするなか、一歩、また一歩と進む。守素の律動が剣と呼応し、白い光が彼の軌道を照らしていた。
やがて、核が完全に露出する。
その瞬間、彼は剣を静かに振り上げた。
「__終わらせるぞ…!」
渾身の一撃が振り下ろされた。
術式の剣が、守素の律動に完璧に呼応しながら、魔物の核を断ち割る。白い閃光が夜を裂き、魔素の波は軋みを上げながら崩れ落ちていった。
それはまるで、狂った旋律を静かに、けれど決定的に打ち切る断音だった。
魔物は、静かに、確実に、消えていく。
フィンは、その光景をただ見つめていた。
走り出したいのに、足が動かない。
心臓の音がやけに大きく響く。
ようやく、闇が晴れた___
「……ハロルド!」
名前を呼んだ声が空に伸び、フィンはようやく駆け出す。
その先に、崩れた魔素の波の向こう、剣を支えに片膝をつく男の影。
「……ハロルド!」
叫びながらその体を抱き止める。
熱い息。かすかに震える睫毛。額には汗がにじんでいた。
「大丈夫……しっかりして、どこが痛むの?応えてよ」
その問いに、ハロルドはフィンの顔を見て、ほっとするように目を細めた。
「……よかった。君が……無事で……」
その一言だけを残し、彼の意識は静かに沈んでいった。
「……ハロルド! 誰か、医療班を!」
フィンの叫びに、すぐ医療班が駆けつけた。的確な指示を出しながら、フィンはその手を決して離さなかった。
そして………風が止んだ。
かつて魔素に満ちていた空気が、澄んだ夜気に変わる。
見上げた空には、ひとつの淡い光。
それは守晶の最後のひと粒。光を帯びながら、ゆっくりと降りてきた。
フィンはそっとその光を両手で受け取った。
「……魔素の気配が、消えた」
誰かが、そう呟く。
守晶が落ちた地面から、白く柔らかな光が、大地へ染み込んでいく。
村で見たあの光と、まったく同じものだった。
それは静かな再生のはじまり。
都市の傷に寄り添い、やさしく波打つように、守素が流れ始めていく。
闇も、怨嗟も、もうここにはない。
ただ、穏やかな夜と、静かな再生の気配が、そこにあった。
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