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第17話
魔物が消えたその瞬間から、王都は少しずつ変わり始めた。
焦げ付いたような大地に、淡い緑が戻ってくる。裂けていた石畳の隙間からは、どこから来たのか小さな芽が顔を出し、瓦礫の下からは、穏やかな守素の流れがじわりと立ち上る。
人々はようやく深く息を吸い、空を見上げた。夜明けの空は澄み渡り、王都のどこかに、ほのかな白い光が瞬いていた。
けれど__
ハロルドは、目を覚まさなかった。
診療所の一角。彼の治療のために特別に用意された、静けさに包まれた部屋。
そこで、ハロルドは眠るように横たわっている。呼吸はある。脈もある。ただ、意識だけが、彼の奥に沈んだまま戻ってこない。
「……守れたのに、なんで」
フィンは薬の瓶を手にしたまま、ぽつりと呟いた。
都市は救われた。
守晶は確かに役目を果たし、王都にも守素の再生が始まっている。
研究班は国中への拡散計画を立て、段階的に実行へ移している。すべては順調だった。国王からの感謝状が、何通も届いた。
それなのに__
「……あなただけ、取り戻せないなんて」
フィンは手の中の薬瓶を強く握った。
ベッドに近づき、ハロルドの額に手を伸ばす。熱はない。呼吸は穏やか。
でも、あのふざけた笑顔も、からかう声も、返ってこない。
診療所の窓の外では、子どもたちが声を上げて笑っていた。
崩れた広場は修復され、そこには仮設の市が開かれようとしている。木々が植えられ、人々が集まり、未来の話をしている。
都市が__国が__
確かに生き返ろうとしているのがわかる。
なのに、自分の未来だけが、ここに置き去りのままだ。
フィンはそっと、ハロルドの指先に自分の手を添えた。
「……置いてかないでって言ったのに」
少し唇が震えた。
「出会って、口説かれて……何度振り回されたと思ってる? 終わったら…抱きしめてって言ったのに」
そっと額を寄せる。触れるか触れないかの距離で、声を落とす。
「だから……ちゃんと目を覚まして。聞こえてるでしょ?」
どこかで風が吹き抜けた。
王都は季節が変わろうとしている。
守晶の普及は、国中へと広がっている。
フィンが作り出した小さな結晶は、やがて村から街へ、街から国へと伝わり、それぞれの土地に合った形で根を張り始めた。
キイチゴの苗を模した守晶は、光の種と呼ばれ、今では多くの医療棟や広場の片隅に静かに置かれている。
魔素の流れは、今はもう感じられない。
都市は完全に息を吹き返し、人々の暮らしには、笑い声や再会の抱擁、未来の話題が戻っていた。
だが、ここだけ、時間の流れは止まったままだった。
フィンはその横で、椅子に座ったまま、ハロルドが眠るベッドに突っ伏してうたた寝していた。ここでこうして眠るのにも、慣れてきてしまっている。
白衣の裾は膝の上で丸まっていて、寝息は浅く、肩が少し揺れていた。
ふと、あたたかな感触が額を撫でた。
「……っ」
微かにまぶたが動き、フィンは夢の中で誰かに触れられたような気がして、眉をひそめる。
もう一度、そっと、額から頬へと流れるように触れられていく。
「……え?」
目を開けると、そこには、ハロルドの顔があった。
「フィン、こんなところで寝てるのか。風邪引くぞ」
その声は、少し掠れていたが、確かに笑っていた。
「……ハロルド……?」
フィンは一瞬、夢を見ているのかと自分の頬を触る。けれどそこにはまだ、大きな手が触れていた。
「目……覚めたの?」
「ああ、さっき。フィンの寝顔があまりに無防備で……つい、起こしたくなった」
「……バカ」
声が震えた。指先も、喉の奥も。
「ほんと、バカ……ずっと寝てるから……」
「……待たせたな」
そう言って、ハロルドはゆっくりと手を伸ばし、フィンの頭を引き寄せた。その胸に抱かれながら、フィンは黙って目を閉じた。
さっきまで止まっていた時間が、ようやく音を立てて動き始める。
「……なあ、フィン」
「ん……」
「やっと目が覚めたよ」
そう言って、ハロルドは腕の力を込め、フィンを逃さぬよう胸に抱きとめる。
「どれだけ待たせたんだろうか……もう離さない。これから、ずっと一緒にいてくれ」
「……っ、もう……あなたが目を覚ますの、どれだけ待ったと思ってるんですか……。何日も……ずっと……」
彼の胸に顔を埋めたまま、フィンの声は震え、熱を帯びていた。ハロルドはその震えごと抱きしめ、頬を撫でる。
「待たせて悪かった。……でも、もう大丈夫だ」
ふわりと、声が笑みに変わる。
フィンがそっと手を重ねると、ハロルドはわずかに息をのんで、嬉しそうに目を細めた。
「……ちゃんと、手、握っててよ。今度こそ離さないで」
「握るどころか、抱きしめたまま離さねぇよ。朝も昼も夜も、俺の腕の中だ」
「……やだ、ばか……」
それでも、顔はふわりと笑っていた。
見つめ合うことが、こんなにも自然で、心から安心できることだったと、再び知る。
ようやくふたりの時間が、ここから始まる。
◇◇◇
屋敷の中に、まだ慣れない静けさが漂っていた。けれどその空気は、扉の開く音とともに、あっさり破られる。
「よう!先生、久しぶり。こいつ大丈夫? また甘えてない?」
ぱたん、と扉が開き、聞き覚えのある声が飛び込んできた。気さくな口調の主は、国王カイゼルだった。
「やあ、やっと引っ越せたって感じ?」
軽やかな笑顔を浮かべて、カイゼルは何食わぬ顔で部屋に入ってくる。
かつて、王の計らいで一棟まるごと用意された屋敷。それをハロルドが交渉の末、正式に譲り受けた。そして今回、ふたりはそこに暮らすことになった。
ハロルドは目を覚ましたあともしばらく診療所で過ごし、フィンの管理下で慎重に回復に努めていた。けれど案の定、その回復は常人より早かった。
『もう歩けるし治ってる。退屈すぎて腐る』
そうハロルドがぼやいた日から、彼はすぐに動き出し、あっという間に、王と交渉をまとめてしまった。そして、引っ越しの準備も、一気に進んでいった。
今回も王の配慮で、兵士や侍従が交代で手伝ってくれた。大がかりな荷運びも、設備の整備も、すべて滞りなく完了していた。
「おい、カイゼル。今やっと帰ってきたばかりだ。もう少し静かにしてくれ」
ハロルドは眉をひそめつつも、声にはどこか笑みが混じっていた。
「はいはい、邪魔者はすぐ帰りますよ。でもなあ……また先生がお前のこと甘やかしすぎてないか心配でさ?」
「……どうだろうな。今度は俺が甘えさせるつもりだけど」
「……ちょっと…っ!」
突然の一言に、フィンが反射的に振り返る。ハロルドはおかしそうに肩をすくめた。フィンは思わず視線をそらし、耳までほんのり赤くなる。
「……ったく、王の前でそういうこと言うなよ」
「誰の前でも言うぞ」
「…だから…っ!やめてって…」
「やめない。別にいいだろ?フィン」
恥ずかしそうにするフィンの隣で、ハロルドは満足げに笑った。
「はいはい、のろけ始めたー。じゃあ、さっさと退散するから、手短に済ませるよ?」
そう言って、カイゼルは少しだけ表情を改めた。
「魔物は消え、都市は救われた。……いや、都市だけじゃない。国全体が、ようやく息を吹き返しはじめた」
いつもの軽口はそのままに、それでも確かな重みをもった声だった。
「守晶の役目も、守素の再生も、そして研究班の働きも……すべて、お前たちのおかげだ。……そしてハロルド、お前が前線で踏ん張ってくれたからこそ、ここまで辿り着けたんだ。国も人も、お前に救われた。
改めて感謝するよ。ありがとう」
フィンとハロルドは、静かに頭を下げる。
王は一度頷くと、口を続けた。
「で、まあ……褒美、というと堅苦しいけど。しばらくの間は、ふたりそろってしっかり休んでくれ。ここはお前たちの家だ。誰にも邪魔されず、ゆっくりしてほしい」
そう言いながら、カイゼルはふたりの顔を見渡す。視線がふっとやわらぎ、少しだけ口元をゆるめた。
「……ハロルド、お前が目を覚まさないと聞き、正直、心配でたまらなかった。頼むからもう、無茶はするなよ。…先生も、頼りにしてるけど、無理はしないようにな」
ハロルドとフィン、それぞれに視線を向けながら、王としてではなくただの友人のような口ぶりでそう言う。
「……甘やかすも甘えるも、好きにやりな。元気な顔が見られりゃ、それで十分だ。…あ、でものろけ話はほどほどにな?」
ふっと冗談めかした笑みを浮かべると、カイゼルは立ち上がり、くるりと踵を返す。
「……また様子を見に来るよ。その時は、何か手料理でも振る舞ってくれ。それと…帰れる場所があってよかったな、ハロルド」
そう言うと、「じゃあな」と手を軽く振りながら、カイゼルはそのまま扉の向こうへと姿を消していった。
扉が閉まったあとも、部屋の中には、あたたかな空気だけがしばらく残っていた。
フィンがふうっと肩を下ろすと、隣のハロルドがふっと笑う。
「……さぁ、何か食べるか」
「えっ、もう?」
「腹が減った。フィンだって朝から何も口にしてないだろ」
「……うっ」
そういえば何も口にしていない。ぐう、とタイミングよくお腹が鳴って、フィンは小さく肩をすくめる。
「じゃあ……何か作ろうか? 陛下が冷蔵庫に食料を、ぱんぱんに入れてくれてるみたいだし」
「うん?」
ハロルドの眉がぴくりと上がった。
「……フィン、まさかと思うけど……君がやろうとしてる?」
「やろうとしてるって……そうだよ。だってあなたは、ほら……まだ病人だし」
キッチンで料理をしようとするフィンを、ハロルドは阻止してくる。
「いやいやいや、目玉焼き焦がして、ベーコン真っ黒にしたの、忘れたのか?」
「う……忘れてない……けどさ。今回は私がやらないとって」
「信頼度ゼロだぞ」
「ちょっと!ひどっ」
フィンが頬を膨らませると、ハロルドはくすっと笑って、その頭をぽんと撫でる。軽やかな手つきが、どこか愛しげだ。
「そういうとこ、相変わらずで安心する」
「またそうやって……。だけど、本当に。あなたはまだ病人でしょ?」
「もう病人じゃないだろ。完全に治って、今から休暇なんだから。俺がやるよ」
「そうやって言い張るところが、いちばん病人っぽいって、まだ気づかない?」
フィンはさらりと言い返し、じっとハロルドを見上げる。
「無理して立ちっぱなしで料理なんかしてさ、また倒れたらどうするの?」
「そこまで体力落ちてねぇだろ」
「いや〜? わかんないよ?」
そう言って、フィンはテーブルの横に立ち、ハロルドの腕をぐっと引く。バランスを崩したハロルドは、思わず椅子に腰を下ろした。
「ほら、ちゃんと座って。今日は私が作ります!」
「……その自信はどこから来るんだ?」
「んー……覚悟、かな。失敗しても、食べさせるつもりでいるから」
「お、おう……?」
ハロルドが一瞬たじろいだのを見て、フィンはしてやったりと満足そうに微笑んだ。キッチンに向かってくるりと踵を返す。
ハロルドは呆れ半分、嬉しさ半分の顔で小さく息をついている。
「……ほんと、そういうところも、好きが増す一方なんだが」
ぽつりと漏らしたその言葉に、フィンの手がぴたりと止まる。
「……今の、聞こえてるよ」
「わざと聞こえるように言った」
「……もう、そういうの禁止。あとでまとめてお返しするから」
「おっ! それ、期待していいやつか?」
「黙ってて。集中できなくなる」
そう言いながらも、フィンの耳はほんのり赤く染まっていた。
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