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第103話
囁くようにはしているが、その口調はいつもと大して変わらない。変わらないはずなのに、凪の耳にベッタリとへばりついて離れない。別に凪が耳元で囁かれたわけでもないというのに、この感覚は何だろうか。兎にも角にも気持ち悪くて己の耳をガシガシと擦りたい気分を無理やりに抑え込む。ここで変な行動をしてはならない。
「へぇ、じゃぁその天国は、ぜひ味わってみないと」
ヒバリが無邪気に笑う。その様子に男が一瞬ニヤリと、どこかいやらしい笑みを浮かべた。まるで空腹の獣が目の前に肉の塊を見つけたかのような、獰猛で、欲に満ちた笑みだ。偶然にもその一瞬の笑みを見た凪はヒヤリと背筋に冷たい汗がつたうのを感じた。
もしや、〝天国〟というのは何かの隠語なのではないか? もしそうであるなら、珍しい酒は、文字通りの酒であるはずがない。何か薬物でも混入されているのでは。そう考えれば考えるほど凪の心臓がバクバクとうるさく脈打つ。もしもを考えればヒバリにそれを飲ませてはいけない。しかし調査や潜入の経験のない凪の判断は一歩遅かった。いつの間に用意されたのか、レモン水のような色をした酒のそそがれたグラスにヒバリが口をつける。そしてためらう様子もなくゴクリと飲み込んだ。口端から零れた雫を真っ赤な舌が舐めとる。その姿は異常なほどに艶やかだった。
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