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第211話
「これは我々にとっては何にもならないものだ。何か良い効能をもたらすでも、毒として蝕むでもない。無味無臭だから嗜好品にもならないし、腹が満たされるでもない。喉は多少潤せるかもしれないが、水を飲む方がはるかに早く、そして確実だ。だが、兎都の者にとってはそうではない。彼らにとってもそれは無味無臭だが、それを一口でも飲めば、彼らの頭に蓄積された記憶がほんの少し薄れ、あるいは消えるという。忘却を知らぬ彼らにとってそれはひとつの救いだっただろう。彼らはこれを飲み続け、少しの平穏を手に入れた。だが、そんな単純でデメリットがひとつも存在しないモノというのは、無いとは断言できないがひどく希少であることは間違いないだろう。そして、それはその希少なモノにはなり得なかった、ということだ」
彼らにだけ効く忘却の滴は、同時に彼らにだけ効く毒となった。
「そもそもその忘却でさえ毒の作用ではないか、と研究者は疑っている。まだ結論には至っていないがね。彼らの寿命が短くなっていったのも、他者との交わりだけが原因ではなく、この毒にもあったのではないか、という見方もある。どのみち、それは力が薄れ、寿命が短くなった兎都の者には猛毒に等しいものとなった」
海からひと掬いの水を取ったとしてもあまり問題にはならないだろう。だがそれが海ではなくカップに入った水だったら?
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