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第358話
「一応言っておくが、本名かどうかなんてわからねぇぞ。少なくとも一人はな」
「構わない。そなた達に名乗っていた名前だけでも知る必要がある」
そこから何かがわかるかもしれない。そう告げるサーミフに、男はもう一度ため息をついた。
「花の男爵と望月当主だよ。ま、花の男爵は偽名どころか身分も男爵じゃないだろうがな」
あんな広い土地を持っていて、花を秘密裏に育てられる者が男爵であるものか。
「花の男爵はどう考えても通称であるのに、望月当主はそのままか。随分と極端だな」
それは望月当主に危機感がなかったからか、花の男爵が主体で望月当主など切り捨てても良いと思われる程度のものだったのか。
「男爵は得体がしれねぇ。俺も何度か兎都に行ったことはあるが、多分俺の前で花の男爵を名乗ってたのは本人じゃねぇだろうよ。……だが、そうだな。望月当主は、平民が夢見るような奴だったよ」
それはいっそ、愚かなほどに。
「良い人だった、ということだろうか」
「さぁな。上っ面だけ見りゃ、人によっちゃ良い人に思えるんじゃねぇの? 自分の私財を削って万民のために良薬を作る。少なくともあの人だけはそれを疑っちゃいなかった」
その良薬と信じたものが、妻や子を含む多くの者にとっての毒薬とも思わずに。
「つまり望月当主はそなたの見る限りでは、あの薬がどういうものか、自分たちが真実何をしているのか、何も知らなかったということか?」
ツバキの時と同じだ。本人が知っていたか、知らないままなのかは非常に重要になってくる。ツバキや凪の心労を思えば当主は何も知らなかったのだと言って欲しいが、男は迷う様子もなくハッキリと首を横に振った。
「いや。それは違ぇな。あんたの質問が〝理解していなかったのか〟だったら頷いてやるが、〝何も知らなかったのか〟なら、そんなわけねぇだろと言ってやるよ」
こんな組織とも呼べぬ組織に何を期待したのか、と男は少し憐れむようにサーミフを見る。男は、サーミフが何を思ったのかを理解していた。それゆえにハッキリと、否だと言う。
「兎都で作ったもんを、このディーディアに運ぶだけがどれだけ大変かわかるか? たかが液体。たかが金を模した紙の束。だが一往復するのに瓶一本と紙束ひとつだけ運ぶバカはいねぇだろ。隠すにゃぁ技と人間が必要になってくる。でも集められてるのは俺たちみたいな者ばっかだからな。うっかり口を滑らせちまうことだってあるさ。望月当主がいることにも気づかねぇでベラベラと喋った奴がいたのも、俺はこの目で見てる。望月当主がいるってわかって慌てて取り繕ってたが、あんなん嘘だってバレバレだろ。俺らだってそう思った。だがな、望月当主は信じた。そうだったのか、なんて辻褄の合わねぇ話を純粋に信じてたよ」
一点の曇りもない。そんな瞳を、男は初めて見た。
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