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第374話

 たった一個の桃だ。剥いて切るのにそう時間などかからない。凪にとっては慣れた作業だ。  トレーにあった手拭きで果汁を拭き取り、その皿をサーミフに差し出した。 「どうぞ。瑞々しくて美味しそうですよ」  我ながら綺麗に剥けたと口元に笑みを浮かべる凪に、サーミフは苦笑する。そしてそっと、銀のカトラリーで桃を刺すと、凪の口元へ向けた。 「これはナギに食べさせようと持ってきたものだ」  だから凪がお食べ。そう告げた瞬間、凪はキョトンとして瞳を瞬かせる。想像もしていなかったのだろう、沈黙が流れた。 「………………わたし、に?」  どうして? と首を傾げる彼は、きっと本当に理解していないのだろう。もしかしたら自分があまり食べていないという事実にすら気づいていないのかもしれない。  難儀なことだと思い、しかしそうさせたのは自らも含めた周りであることをわかっているからこそ、サーミフは何を言うでもなく桃を凪の唇に触れさせた。  光る雫が唇を滑る。たった一雫のそれが、途端、凪の口いっぱいに甘く広がった気がした。 「あまい……」  ぽつりと呟く。久しぶりに感じた、その甘さ。 「それがわかるなら、充分だ」  その言葉に何があったわけではない。だが凪は無意識の内に口を開き、パクリと桃を食んだ。サーミフのために一口大に切ったそれが口内を満たす。まるでリスのように頬を膨らませながら、凪は柔い果肉に歯を立てた。途端、ジュワリと濃厚な蜜が溢れ出す。まさに甘露と呼ぶにふさわしいそれをゴクリと飲み干した。

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