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第1話「神威とアルテミス」

 神威は不思議な夢を見ている気分だった。朝起きたら目の前には昨夜の出逢いを忘れていたのもあるが、白銀で碧い瞳の外国人ならぬ月の女神と同じ名前の「レイスチャード・アルテミス」が微笑みを浮かべて神威を見下ろしていたから、驚きもするものであると自分自身に言い聞かせている神威。  しかし、それだけならばいいのだが少し視線を横にずらすと神威の持っているミニテーブルには美味しそうな朝食が、湯気を立てて並べられているのが入って来てゴクリっと唾を飲み込むのは避けられそうになかった。 「おはようございます。起きれますか?」 「……多分、ここは天国か何かですか?」 「天国だと? それは困りましたね……君の、神威君の言葉でそれはあまり聞きたくない言葉ですが、安心して下さい。ここは現実ですよ」  アルテミスの右手がそっと神威の頬を優しく撫でると、数回撫でた後に手を離して飲み物の用意をしにキッチンに向かうのを神威は戸惑いながらも、しっかり受け止めてから身体をベッドの上に起こす。  神威が一通りの身支度を済ませると、リビングに入ってミニテーブルの前に座るように促されて、ちょこんと居心地が悪いというより落ち着かない感じではあるがしっかり座ると、アルテミスが何処からか香りのいい紅茶をマグカップに淹れて持ってきてくれた。  ミニテーブルの一部分にはしっかりマグカップが置けるスペースが開けられている。 「紅茶はお好きですか?」 「好き、というよりあまり飲めなかったから、飲むのは安物のが多かったです」 「そうでしたか。この茶葉は安い茶葉ですから、遠慮なくお飲み下さい。少しでもお口に合えばいいのですが……」 「飲んでもいいですか? 香りからして優しい感じがしてますけれど」 「どうぞ。因みにこの茶葉はアッサムです。飲みやすいとお伝えしておきます」  アルテミスの言葉に神威は安心したようにマグカップを口許に持ち上げて近付ける。  アッサムの優しい香りが鼻孔をくすぐり、身体にしっとりと馴染むような温度のお陰で神威はゴクンと一口目のアッサムティーを飲み込んだ。  寝起きからまだ一滴も水分を口にしていなかったのに、このアッサムティーは乾いた身体を癒すように染み渡っていくような感覚を神威は感じ取っていたが、実際に染み渡っているかのように身体はこの紅茶を求めていたらしい。  二口、三口と飲み一息を吐き出す頃にはマグカップの半分の量を、飲み干していたのである。 「はぁぁ……美味しいです。こんな美味しい紅茶、初めてかも知れない」 「それならば良かった。気持ち悪いとかありませんか? 一応体質に合わない事もございますから」 「今の所は……。あの、どうしてこんなに心配してくれるんですか?」 「おや、助けてもらった方にご恩をお返しするのは珍しいのですか?」  アルテミスの言葉に神威は言葉を詰まらせる。今までの人生、まだ26年しか生きていない神威にアルテミスは当たり前に恩義を返しているだけ。  それがこんなにも美味しい紅茶を味わい、出来立ての朝食を用意してもらっている……それだけでも十分過ぎる程の恩義を返してもらえて。  神威はアルテミスの恩義に慣れてはいけない事を肝に命じて、紅茶を淹れたマグカップを定位置に置く。  ミニテーブルの上にはそれはそれは美味しそうな朝食が乗っている。  クロワッサンを横半分に切ってサンドする為のスぺ―スを確保して、そのスペースにスクランブルエッグとベーコンを挟み、彩りとしてサニーレタスを具材の一部として挟む。  サラダは胡瓜とミニトマトをダイスカットしてコブサラダのようなスタイルで出来上がり、ドレッシングは手作りが分かるイタリアンドレッシングがしっかり和えられている。  スープは簡単に作れるコンソメスープの様だが、具材がしっかりと形が残りながらもトロトロに蕩けるように、長時間煮込まれていたかのようなタマネギの半玉が入っている。 「……」 「どうされましたか? あ、苦手な食材でもありましたでしょうか……?」 「あ! いえ……その、普段の自分の作る食事とはかけ離れた出来栄えだから、つい緊張しちゃって……」 「神威君は純粋なのですね。その心は素晴らしいものですし、大事にしてもらいたいものです」 「純粋だなんてとんでもない。自分の不器用な腕前ではあまり人様に出せる料理もありませんし……昨日のだって、殆ど簡単に出来るのしか作れてない」  神威は両手をパチンと合わせて、しっかり礼をするとクロワッサンサンドから手を付ける。  アルテミスは紅茶を飲みながらその様子をチラッと見ていたが、美味しそうに食べる神威にどことなく安心するアルテミスは、タイミングを見計らってから自分も遅れて食事を食べ始める。  二人が静かな部屋で食べ始めると神威が食べ終わる頃に、アルテミスも食べ終わったのは同時だった。 「美味しかった~……アルテミスさん、こんなに料理が作れるならさぞ女性におモテになるんじゃないですか? だって、お顔も素敵だし、こんなに優しいし」 「女性にモテても、心から愛したい人に振り向いてもらえなかったら意味はございませんよ。でも、ありがとうございます。まだまだ私も人様に感謝されるだけのご奉仕が出来て良かった」  アルテミスの瞳が少しだけ陰りを見せたが、神威はそれを見て見ぬ振りをする……いや、したかった。  それはどういう事を意味するのかは神威は一番に理解している。  これ以上、アルテミスに踏み込んでいい訳がない……アルテミスと神威は「他人」なのだから、と神威は自分に言い聞かせる。  片付けは神威が担当すると言って任せてもらい、アルテミスは部屋の掃除を申し出てくれたので任せるのも本当なら気が引けたが、何もしないよりした方が身体のリハビリがと言われて、渋々お願いする形になった。 「神威君、ゴミ出ししてきます。少し出ますね」 「あ、場所は分かります?」 「えぇ、大体は分かります」 「それじゃお願いします」 「はい、行ってきます」  ニコリと微笑みを浮かべてアルテミスが出て行く、それを見送った神威は部屋の中を見て言葉を失くした。  隅々にまで掃除が行き届いており、乱雑にしていた仕事の資料や、趣味で買った雑誌、買い込んだままの食料品、その他諸々……綺麗に整頓と仕分けをされていたからだ。  それを目の当りにして思ったのは……手の届かない花のような人、だった。 「……はぁ、気のせいだよな……僕はもう……誰も”求めない”って決めたんだ……」  アルテミスがその言葉を聞いている、そうとは知らず神威は風呂掃除に向かう。  神威の言葉の真意を知りたいと思ったアルテミスは風呂場に視線を向けると、気付けば足を向けていたがそこで気付いてしまった。  風呂場の中でシャワーの水音を響かせながらと同時に聞こえてくるのは、涙を流しているのかくぐもった声が聞こえてくる。  アルテミスは風呂場の傍まで来て足を止めていたが、決して扉を開けて中に入る事はしなかった。 「(彼の心は非常に繊細で脆い……だからこそ私の存在が彼の心を守る事が出来るならば。その為に私はかの世界からこの世界へと転移してまで……)」  アルテミスは深い祈りを捧げていると、風呂場からガチャっと音がしたのを受けて、アルテミスは伏せていた瞳を開けて風呂場に視線を向けた。  神威はアルテミスに気付きながら涙をゴシゴシと袖で拭い、無理矢理明るい声を出してアルテミスに告げる。 「お帰りなさい。ありがとうございます! すみません、ゴミ出ししてもらった挙句に、部屋の掃除まで……。感謝しきれません!」 「私の出来る事は色々とあるのかも知れませんが、君の……神威君の笑顔を見る為ならどんな努力も惜しみません」 「な、んで……なんで、そんなに僕に優しくするんですか!?」 「それは……お話しないといけませんか? 普通に考えてもらえれば分かる事ですよ」  アルテミスの言葉に神威は瞳を見開いて……すぐに浮かんできた涙を拭おうとするが、それをアルテミスの手が優しく止めてから、そっと抱き締める。  ポンポンとされる行為に神威は恥ずかしさもあったが、何よりその腕の優しさに涙が止まらないでいた。  この温もりを手放す事が出来たら、きっとそれは……終わりの時だろう――

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