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訪れた朝1

 世界の『コア』めがけて飛び込もうとした少年の細すぎる腕を、力強い手が掴む。  その瞬間、突風が霧を吹き飛ばしたかのように、視界がクリアになった。  目の前に広がる不思議な空間。  夕暮れのような紫色の空を映し込んで輝く底の見えない水面が、波紋も浮かべず静かに揺蕩っている。  湖にしては果てがなく、海にしては波のない無限に続く水上に、薄紅い光を放つ巨大なクリスタルが浮かんでいた。  これが『コア』か。  鮮やかな紅は美しいが、同時に幾人もの人の血を吸ってきたような禍々しさも感じられた。  乱暴なくらい強く引き寄せられて、軽い身体はその勢いのまま男の胸に倒れこむ。  反射的に「すみません」と謝ろうとして見上げた、その先には。 「月瀬、さん……」  そのひとは、よく知っている、とても好きな人と同じ顔をしていた。  スーツ姿ではない、神父の着ているカソックのような服の上に黒いインバネスコートという、着ているものに違いはあるけれど、月瀬その人のように見える。  苦しそうな表情を見て、自分の選択が彼を深く傷つけたことを知った。  こんなことをしても、彼を、この世界を、救うことはできないのだ。  拒絶しても、何度も何度も手を伸ばしてくれたひと。  愛しさがこみ上げて、そっと、その頰に手を伸ばす。 「一緒に、考えませんか?」 「一緒……に?」 「どちらかが犠牲になるとかじゃなくて、……もしかしたらどうにもならないかもしれないけど、それでも、みんなで幸せになれる方法がないかどうかを」  自分にも、彼を救うことができたら。 「おれが最後まで諦めずに探したいって言ったら、あなたも一緒に考えてくれますか……?」  突然様子が変わったことに驚いたのだろうか。彼は、虚を突かれたように目を瞬かせた。  このひとの、表情が変わる瞬間が好きだ。  厳しそうな目元が優しく和らぐところを見ては、いつも胸を焦がした。  やがて彼は、「そうだな」と破顔して、  時は止まった。  突如モノクロームに変わった世界に、音もなくひびが入る。  亀裂はあっという間に広がって、自分以外のものがキラキラと砕け散っては消えていった。  止める術がわからず、それをただ呆然と見ていることしかできなくて。  どうして。  ようやく彼を絶望から救えるかもしれないという希望が見えたのに。  失意の闇に攫われ、気付いた時には真っ暗な場所に立っていた。  何もない。  立っているつもりだが、地面が見えないのでそう表現するのが正しいのかすらわからない。  ただただ真っ暗な場所だ。しかし、不思議なことに眼下の自分の姿だけは鮮明に見える。  未知の状況に戸惑っていると、目の前に突然人が現れた。  まさに瞬く間の出現に、驚いて硬直してしまう。  その人は控えめに笑って、『こんにちは』と挨拶をした。 『あのひとの心を救ってくれてありがとう、別の世界のおれ』  この人は『マサキ』だ。  夢の中では常に『マサキ』自身のぼやけた視界だったため、その姿を見るのははじめてだった。  顔立ちは同じだと思うが、『真稀』よりも一回り小さく、年ももっと幼いように見える。  その体は痩せて、ぶかぶかの服の下から覗く肌には、凄惨な暴行の痕が無数に刻まれていた。  長らく容赦のない虐待を受けていた痛々しい姿には、人間の臆病さや醜さが刻みこまれているようで、これを見た『魔王』が心を痛めたのも頷ける。  真稀が『マサキ』であるときは痛覚などはなく、視界もぼやけているため現実感は乏しかったが、それは『マサキ』の気遣いだったのだろうか。  真稀が言葉を失ったのを見て、『マサキ』は少し困ったように微笑んだ。  そういえば感情が伝わってしまうのだと思い出し、真稀はそれ以上考えるのをやめる。  『マサキ』は、最期の選択以外を悔いてはいなかった。勝手な同情で彼の人生を貶めるようなことはしたくない。 「救ったって……、でも……世界が、壊れて」  あの世界は、月瀬は……『魔王』は、どうなってしまったのか。  真稀の疑問に、『マサキ』は目を伏せ首を振った。 『どちらにしてもこの世界の終わりは、大いなる……によって定められていたこと』 「そんな……」 『だけど、間違った選択をした後悔をおれはどうしても捨てられなかった。あのひとに、あのひとの愛する世界で、幸せになって欲しかった。世界と繋がったおれは、少しだけ事象に干渉出来る力があって、違う世界のあのひとにその魂を重ねることができたんだけど』 「魂を……重ねる?」  ピンと来ない。『マサキ』はええと、と言い換える言葉を探した。 『転生っていう概念が近いのかな?』 「じゃあ、俺も、『マサキ』の転生?」 『うん、ただ『マサキ』を転生させたのはおれじゃないんだ。『魔王』の転生が生まれた世界に『マサキ』の転生も生まれたことによって、『月瀬崇文』は転生前に自分が管理していた世界からの干渉を受けるようになってしまった。おれは……『月瀬崇文』には、おれのことを思い出さないで欲しかったのに』  なら月瀬は、誰かを救えなかった前世の記憶にずっと苦しんできたのだろうか。  失う恐怖を、ずっと感じ続けてきたのだろうか。 「『マサキ』じゃないなら、誰が『マサキ』を転生させるようなことを……?」 『ごめん、それはおれには……。でも、だから『真稀』にも干渉した。干渉って言ってもただ夢を見せるくらいしかできなかったけど、それでもきちんとした教育の受けられる世界で、色々な人と交流をした経験もある自分になら、違う未来が描けるかもしれないって、思ったから』 「……ごめん、ずっと、わからなくて。失いそうになるまで、ずっと逃げ出すことを考えてた」  『マサキ』はそっと首を横に振る。 『『月瀬崇文』は『真稀』を守れたことできっと救われたよ。……おれは、伸ばされた手にすら気付けなかったから』  悲しそうな横顔。だがそれは一瞬で、すぐに元の穏やかな表情を取り戻す。 『もうすぐ、夢が覚める。……おれが傷つけた人を、どうか幸せにしてあげて』 「『マサキ』はどうなる? もう、会えないのかな」 『おれは、夢の残滓みたいなものなんだよ。違う世界の、時間の軸すらあやふやな、誰かの見る夢。遠くに見える星みたいに』  真稀が『マサキ』の転生であるのなら、前世と言える『マサキ』がもう存在していないのは当然のことだ。  それでもこんなふうに話していると、彼と『魔王』が生きて幸せになる結末を思い浮かべてしまって、それが叶うことがないという現実に、真稀は唇を噛んだ。  『マサキ』は『そんな顔しないで』と笑う。 『大丈夫。おれたちは同じ存在でもあるから、おれも『魔王』も、いつでも『真稀』の側にいる。『真稀』が幸せになってくれたら、おれも同じように幸せになれるんだよ』 「それじゃあ、「またね」でいい? 夢の中でもいい、今度会う時は、四人で会いたい」  難しい願いだとわかっていたけれど、わざと我儘を言った。  願うことは、きっと罪ではないから。  『マサキ』はそれを聞くと目を丸くして、それからじわりと傷痕だらけの頬を綻ばせた。 『……それは、とってもいい夢だね。楽しみにしてる』  夜明け前の深い闇に光が差すような、眩しくてあたたかい笑顔だ。  ああ、自分もこんな風に笑えるようになりたい。  握手をした。  ガサガサの、やはり傷痕だらけの手だった。  でも、『マサキ』は今、自らの選択で望む未来をその手にしたのだ。 『またね』 「うん、また。……近いうちに、必ず会おう」  言葉を交わす間に徐々にあたりを光が包んで、『マサキ』の笑顔は見えなくなった。

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