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訪れた朝3

 その後、起き出して朝食を作った。  月瀬は外食やデリバリーでもいいと言ってくれたが、なんだか今は猛烈に家事がしたい。  それに、昨日作り損ねた夕食の材料が気になっていた。一晩で腐るようなものでもないが、生鮮食品は早く食べた方が絶対に美味しい。  何か手伝おうかという月瀬をキッチンから追い出して、米を早炊きでセットし、鮭をグリルに放り込んで、ボウルに卵を割る。  月瀬は甘い卵焼きが好きだ。  料理の味付けもどちらかといえば甘辛なものが好きらしく、普段の厳しそうな雰囲気とのギャップがちょっと可愛い。  菜箸で卵を溶きながら、真稀はまたこの広いキッチンで月瀬のために料理ができる幸せを噛みしめた。  用意ができると、ソファで新聞を読んでいた月瀬をダイニングテーブルへと呼ぶ。  食卓についた月瀬は、並んだ料理を見て眉を顰めた。 「真稀、君の分は随分少ないようだが……、食欲がないのか?」 「あっ、いえ、その……」  心配に曇った表情で指摘され、真稀は目を泳がせる。  言われるかなとは思ったが、やっぱり言われてしまった。  真稀の分は、一膳の半分に満たない白米と数切れの卵焼きしかない。  普段は月瀬と同じ量を食べるので、不審に思うのは当然だ。  体の調子は、ここ最近感じたことがないほどにいい。  このまま家中を掃除したいくらいに。  それが何故なのかを正直に言うのは恥ずかしいが、「私のせいか」などと言い出されてしまっては隠しておくこともできない。  真稀は月瀬から視線を外したまま、もそもそと白状した 「月瀬さんのせいというか……お陰様と言うべきことなんですけど、幸せで胸がいっぱいで食べ物が喉を通らないというか……エネルギー満タンすぎて食物から栄養を摂取しなくても大丈夫みたいというか……そういう感じで……」  知らなかった。  口からよりも直腸からの方が摂取効率がいいようだとか、そんな恥ずかしいこと。 「……あ、そ、そういえば母もそうだったのかも?朝、仕事から戻ってきた時はいつもお腹いっぱいって……」  恥ずかしさを紛らわそうとするあまり、爽やかな朝食の席に不似合いなことを言ったような気がして、真稀は顔を赤くして途中で黙った。  伝わったのかどうなのか「まあ、具合が悪いのでなければいいが……」と箸を手に取りながら濁してくれた月瀬にほっとする。  しばし箸を動かすばかりの沈黙があり。  自分の失言を反芻してひたすら気まずくなっていた真稀は、しかしそのお陰で聞いておかなければならないことを思い出した。  どんな真実が出てくるのか、正直蓋をしておきたい気持ちもあったが、はっきりさせておいた方がいいだろう。 「あの……今更かもしれないですけど……」 「ん?」 「月瀬さんは母とはどういう関係だったんですか? 恩っていうのは……」 「………………………………」  勇気を出してはみたものの、難しい顔をして黙った月瀬にぎくりとして、弱気が頭をもたげる。 「い、言いにくいことなら、無理には……っ」  やはり聞かない方がよかったのだと、質問を撤回しようとしたが、月瀬は首を振ってそれを遮った。 「実は……君のお母さんとは面識はない」 「え……」  あまりに意外過ぎる言葉に、驚いて目を見開く。  しかし、思い返せば、月瀬が母の話をしたことは一度もない。  通常であれば、それまで何の交流もなかった真稀と月瀬にとって、話題にしやすいのは共通の知り合いである母のことになるのではないか。  一度も話題にしなかったのは、確かに不自然だ。 「それじゃあ、恩っていうのは口実……?」  真稀に近づく口実だったのなら納得できると思ったが、月瀬はそれには首を横に振った。 「いや、今となっては恩はある」 「? それはどういう……」 「君を産み、育ててくれたことだ。彼女がいなければ、私は君に会うことができなかった」 「っ………………」  そんなことを。  真顔でさらっというのはやめてほしい。  鼻の奥がツンとして、テーブルの下でぎゅっと拳を握りしめる。  恥ずかしいのに嬉しくて、嬉しいのに涙が出て、涙が出ているのに笑ってしまう。  悲しくなくても涙が出るなんてこと、この人に会うまで知らなかった。  他にも、彼の言葉で気付けたことがある。  いつでもそばにいると言っていた『マサキ』も、あの街にはもうなくなったと思っていた母の生きた痕跡も、自分が生きている限り、確かにここにあるのだ。 「あ……いや、その、さも知り合いであるかのように振る舞ったことは、すまないと思っている。見知らぬ男が突然訪ねてきて保護させてくれなどというのは不審だろうと思ってだな。だからそう、口実というのは、あの時点ではそうだったんだが」  泣き出した真稀が騙されてショックを受けたとでも思ったのだろうか、慌てて的外れなフォローをしている月瀬が、可笑しくて愛しくて。 「よかったです……、母の、代わりとかじゃなくて」 「代わり? ……ああ、……なるほど」 「父だったらどうしようとかも思ってました」 「……そうか、そうだな。よく考えてみれば当然の発想だ」  真稀はすっかり胸の支えが取れた気分で目尻の涙を拭うと、キッチンで湯が沸いたようなので茶を入れるべく立ち上がる。  背後で月瀬が「父親……か」と若干遠い目になっているのには気付かなかった。

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