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kureno1
岩のりみたいな前髪って何だ? 自分で言っておきながら暮野はひどく惨めな気分になる。何故自分がこんな仕事をしなければならないのか未だに納得していない。だってそうだろう。悪いが全く自分のタイプじゃないからだ。自分が好きなタイプはセクシーで気の強い子だ。はっきり言って真逆だ。お偉いさんが決めた政策に逆らえないことぐらい十分理解しているが、今回の任務に関しては、全くと言っていい程やる気が出ない。好きになる要素のない人間をどうやったら好きになれる? 誰か本気で教えてほしい。冗談抜きで切実に自分は教えを乞いたい。
この間、八神と焼き肉を一緒に食べた時、暮野は思わず口を滑らせた。何故なら、余りにも八神が惨めだったからだ。
(俺が変わらせてやるよ)
これは一体どの口がほざいた言葉だ? 自分の潜在意識の中に、実に慈悲深いキャラが潜んでいたってことか。いや、自分だってそんな冷酷な男じゃない。この任務とは関係なく、普通に八神と接していたら、本の趣味をきっかけに仲の良い友人ぐらいにはなれるかもしれない。確かに性格はひどく根暗で、自分に自信がなく、常におどおどしているところがイラつくが、人の気持ちがわかる優しい雰囲気は嫌いじゃない。それに一番は、自分と同じ、「本を愛している」ところだ。しかも、好きな本が似ているという奇跡まで付いてくる。
暮野は昔から気になることがあると放っておけない性格だった。近所にあった図書館に行き、気になることを片っ端から納得するまで調べるのが好きだった。気が付いたら閉館時間になっていて、母親が心配して暮野を探しに図書館まで来たことが何度かあった。あの時の母親の怒りの形相を暮野は一生忘れない。「心配」し過ぎて怒りがこみ上がるって気持ち、幼い暮野にはまだ分かっていなかった。
暮野は図書館を拠り所にしていた。嫌なことがあれば図書館に行き、手当り次第本を読んだ。本の世界に没頭していれば、その時間だけ嫌なことを忘れることができた。暮野にとって最高の逃避場所であり、まるでシェルターに守られているような安心できる場所だった。
八神も多分同じだろう。自分と同じ。それが分かるから暮野はつい余計なことを言ってしまった。八神が馬鹿にされるのは気に食わない。自分が馬鹿にされているような気分になるからだ。それにやっぱり八神はあのままでは駄目だ。人は傷付いたまま人生を終わりにしてはいけないと思う。自分の人生を無駄にするような生き方を暮野は好まない。八神は多分誰かに傷つけられている。その弱さや、繊細さが、今の八神を作っているのかもしれないが、八神だって本当は「変わる」きっかけを求めているに違いないのだ。だったらそれを暮野が与えてやることが、今回の任務を遂行するための近道と考えてもおかしくないだろう。
あいつの名前は八神優弥。今日が早番だっていうのは既にリサーチ済みだが、何故知っているのかと不審がられるのを恐れて、わざわざ本人に確認しておいた。十七時に仕事が終わるのを待って、自分が適当に選んでおいた 今若者に人気の美容室に二人で向かっている。
暮野は今日図書館には行かず、職場に戻り与えられたこのクソのような任務の進捗状況を報告したり、施設に保管されているあれの冷凍庫を整理したりする雑用を行っていた。
冷凍されている殆どが無用の長物だ。残念ながら今まで成功したためしなど一度もない。だから今回、今までのやり方を見直し、新たな方法であれを採取する政策を国は打ち出し、実行に移した。国が秘密裏に運営している暮野が働く機関は、早い話国民の税金で成り立っている。もしこの新たな方法で成果が全く得られないとなれば、この機関も、暮野たち自身の立場も危うくなる。こうやって何とか生活できるのもこの機関で働いて給料を得ているからだ。でもそれは、政府が、繁華街の外れにある人目の付かないハッテン場に潜入で張り込み、容赦なく二十歳を過ぎたゲイを選出・拉致し、この機関で強制的に働かせるというシステムからだ。まあ、そのシステムのおかげで、暮野たちは食うに困らない生活を得られているが、所詮ゲイという立場では、それを拒否する権限など無いに等しい。今の日本での暮野たちの立場は低く、非国民扱いのようなもの。結局暮野たちは、ひどい差別に抗う術もなく、上からの強い力に蹂躙されている。
そして、今回のその新たな方法というのがこれまたあり得ないくらいナンセンスで、現実味に欠けている。はっきり言って、国ぐるみで考えたこの政策は、暮野たちマイノリティーへの侮辱としかあり得ない。いくら暮野たちがマイノリティーであっても、こんな人権を無視した政策に従わなければならない道理があるだろうか。それもこれもすべてこの機関の所長である大津臣おおつじんが悪い。この計画の発案者は彼だ。もうここまで追い詰められたら、どんな方法でも試す価値があるという所長なりの捨て身の覚悟なのだろうが、彼がどうか夢見がちの、ただのロマンチストのアホでないことを切に祈る。彼が言うには、世界的にも有名な性科学者。超一流のメンタリストや力の強いスピリチュアリストに協力を得たというが、それが今現在暮野をこんなにも悩ませているという事実を、彼は多分ひとつも理解していないだろう。というか、何がなんでもこの計画を成功させなければならないというプレッシャーを一心に受けているのは、確かに所長の臣ではあるが、あいつは自分でそれをしない……狡い。本当に無責任で狡い……。
もし、臣が発案したこの計画が無意味に終わった場合、暮野が所属する秘密機関は迷わず解散する。この機関に国が掛けた予算は計り知れない。中々成果を出せないでいるこの機関に対し、各省庁から国家予算のごく潰しだと強い批判を受けている状況を踏まえても、致し方ないのは重々承知だ。
今回の計画に与えられた期間は三年間。三年間という期間が、長いのか短いのかも良く分からない。それぐらいこの計画は、霞を掴むような実験的なものでしかない。
「何故ターゲットを選べないんですか? 自分の好みの子だったら話が早いでしょう?」
暮野は以前、臣に切に問いかけたことがあった。臣は言った。
「それは確かに手っ取り早いし、お前みたいのならノンケを落とすのも容易いだろう。でも、そんな容易く手に入れた愛を、俺は純粋な愛とは見做さない。お互いを良く知ろうと努力すること。そこから純粋な愛が生まれるんだよ」と。「ああ、そうかい。じゃあ、てめえがやってみろってんだよ。俺が喜んで代わってやるよ」、そんな台詞を、暮野は心の中でぐっと飲みこんだことを思い出す。
あいつ、八神優弥が美容室におどおどしながら入る。セットチェアに座ると美容師にびくびくしながら注文する。カットされながらそわそわと落ち着きなく体を動かす。その一連の様子を、暮野は憤りと、半ば哀れむような気持ちでぼんやりと見つめてきた。
気がつくと暮野は、この男と一緒にいることで疲労が自覚なく溜まっていたらしく、うとうとと居眠りをしていた。しばらくすると誰かに優しく肩を叩かれ、暮野はうっすらと両目を開けた。
「誰?」
思っていた以上に疲れていたのか、暮野はすっきり目を開けることができず、霞む視野で肩を叩いた主を見つめた。
「え? や、八神です。來さん。疲れてるんですか? 大丈夫ですか?」
「ん? んんっ、俺寝てた?」
「ええ。寝てました。なんかすみません。こんな僕に付き合わせちゃって」
「また、こんな僕って、そういう言い方やめ……」
「はい? 何ですか?」
徐々に視界がはっきりしてくると、暮野は目の前の男を、目を丸くしながら凝視した。
「……お、お前、誰?」
「え? だ、だから八神……」
(嘘だろう?)
暮野は目の前の男の瞳に一瞬で心を奪われた。やや茶色見がかった黒目は大きく、キラキラと店の電光に照らされ輝いている。その瞳はまるで、生まれたての哺乳類のように潤み、あどけなくピュアだ。その瞳に見つめられると、眼力という言葉の意味を思い知らされる。その瞳には、物事の善悪、真偽を見透かす神聖な力でもあるがごとく、八神の顔に君臨している。どうして今まで、こんな素晴らしいものをこいつはその鬱陶しい前髪で隠していたのだろうか。
「綺麗だ……」
「え?」
「あんたの目。すごく綺麗だ」
暮野がそう言うと、八神は一瞬で顔を真っ赤にさせ、慌てて自分の片腕で瞳を隠した。
「隠すなって。どうせもう前髪切っちゃったんだから、今更隠しようがないだろう?」
「め、眼鏡かけますっ。ちょっと色の付いた……」
「あははっ、バカだろ? そんなダサいことするなよ……ああ、でもなんか、ほんと別人。正直驚いたな……」
嘘ではない。本当に驚いた。暮野は八神を頭の先から爪の先まで改めて見つめ直した。髪を切り、すっきりと輪郭を晒した八神の顔は小さく、余計瞳の大きさが際立つ。何と表現すればいいのだろう。その顔立ちは人をはっとさせる引力がある。艶やかさがある。内面は変わってないから陰気な猫背はそのままだが、身長は暮野より若干低く、中肉中背のバランスの取れた体躯をしている。髪の毛はふわっとした猫っ毛で、暮野が選んだ美容室が当たりだったのか、現在の八神のヘアースタイルは、お洒落な街を堂々と歩く今時の若い子に引けを取らないほどだ。否、むしろその上を行くセンスがある。そのせいで、さっきまでどうしようもないくらい野暮ったかった男が、もちろん完璧ではないが、徐々に魅力的な若い男へと変貌している。
暮野はちょっと前までひどい悪態をついていた臣に、少しだけだが謝りたい気持ちになった。でも、この色気もへったくれもない、全く恋愛慣れしてないような男を手中に落とすのは、まだまだ至難の業だと感じる。でもその難易度の高さに、暮野は久しぶりに高揚感を覚え、胸が熱くなったのだった……。
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