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yagami5
休憩時間も終わり、なかなか喉を通らなかった食事のせいで胃もたれがひどく、午後の勤務に影響が出そうだと、憂鬱になりながら苦手なカウンター業務に着くと、隣にいる池田が八神に気味の悪い笑顔を向けてきた。胃の中の物が逆流するほどの気持ち悪さを感じたが、八神はぐっと腹に力を入れなんとか我慢した。
今日の午後は運良く利用者がいつもより少ない。八神は、隣が池田だというマイナスな出来事に目を瞑ることができるほど、そのことに安堵した。
「元気?」
下を向きバーコードリーダーの本体と格闘していた八神は、その心地良い声に素早く反応し、頭を上げた。
「暮野さん!」
八神の滅多に聞けない大きな声に驚いたのか、近くにいた池田を含めた同僚達が一斉に八神を見た。八神は暮野にたった一日ぶりに会えただけで、こんなにもテンションが上がり、自然と笑顔が溢れてしまう自分に戸惑った。相変わらず神出鬼没な、浮き世離れした雰囲気は極めて個性的だが、暮野はいつものようにきらきらとした存在感を放っている。暮野とは、初めて食事をした時から読書好き本好きなのを共通点に、随分と親しくなった。それは、こんな八神に突如舞い降りた奇跡のような出来事だ。八神はそれを実感すると、喜びがまた込み上がり、一層笑顔が深まる。
暮野はそんな八神をじっと見つめ、僅かにはにかんだ表情をすると、それを隠すように八神の前に借りた本を無造作に差し出した。
「八神が進めてくれた本、超面白かったよ。このシリーズの新刊ってまだなの?」
「そうですか! 良かった。ええと、その本の新刊は来月発売される予定ですから、購入するリストに入ってるはずです。でも、もし入ってなくても、僕押しで絶対リストに入れます!」
自分の迂闊さに気づいた時には後の祭りだった。八神は興奮の余り、つい余計な事を口走ってしまった自分の間抜けさに、冷や汗が流れ始める。
「おい、八神君。随分そちらの方と仲がいいみたいだけど、公私混同してないか? 特定の利用者を特別扱いするのは職務上まずいだろう?」
案の定、池田がイライラしたようにカウンターを指で叩きながら、八神と暮野を交互に見つつ、嫌味ったらしくそう言った。
「す、すみませんっ。つい、僕の好きな本を面白いと言ってくれたので、嬉しくて、か、軽はずみなことを言ってしまい、すみません」
八神は池田を見つめ必死に謝った。ここは何事もなくスルーしてもらわないと非情に面倒だし、暮野にも申し訳ない。
「やだね。上司に報告する。八神君さ、ちょっとばかし見た目が良くなったからって調子に乗ってんじゃないの? 俺がそんなお前をよーく説教してやるから、今晩、飯付き合えよな」
池田は自分勝手に立てた予定を八神に押しつけると、ひとりにやにやと下卑た笑顔を浮かべながら、カウンター業務を進めようとする。
「ちょっ! そんな急に、む、無理でっ……」
八神がそう言いかけた時だった。
「おい」
「……」
「何無視してんだよ。あんただよ」
「え? 俺?」
「そうだよ。他に誰がいるんだよ。俺をこんだけむかつかせる奴がさ。何処探したってあんたしかいないだろう?」
「……い、いきなり何なんですか? あなた……」
池田はみるみる顔を蒼くさせると、暮野に対し僅かに虚勢を張った。
「あんたさ、その人を舐め腐ったようなクソみてーな態度で俺にも言ってみい? 特別扱いさせんなってさ」
「は、はい? あなたにそんなこと言われる筋合いはないと思いますけど」
怒りなのか怯えなのか、それまた両方か。池田はぷるぷると体を震わせながら、必死に暮野に言い返した。
「俺、八神と友達なの。俺ら仲いいから、八神を困らせる奴には言う筋合いがあんだよ。上司に報告するとかマジキモいな。そんなキモいことしたら俺がただじゃおかないぜ? あ、あんた絶対友達いないだろう?」
全く容赦のない暮野の言葉に、カウンター周辺の空気が一瞬で氷つく。八神は焦って暮野の腕を掴むと、「落ち着いてっ」と小声で囁いた。
「ん? ああ、あんましむかつくからつい。あ、そうだ。ちょっとあんたさ、今日の八神との晩飯は、俺との先約があるから無理だよ。悪いな」
池田は目を血走らせながら黙り込んだ。八神は自尊心を深く傷つけられた池田が、次にどんな陰湿な逆襲を暮野にではなく自分にして来るか。それを思うと背筋が凍り始める。池田は自分より強い者には刃向かわない。自分より弱い八神のような男をはけ口にし、醜い自尊心を取り戻そうとするのだから。
案の定池田は、まるで呪詛のような聞き取れない言葉を不気味に唱え始めると、突然八神に視線を向けた。その目はどんよりと濁り、光を失っている。「覚悟しとけよ」八神はそう言われているような気がして、慌てて池田から目を反らすと、暮野が心配そうに八神を見つめていた。
「ごめん。ついかっとなって」
暮野は八神に顔を近づけると、耳元に軽く囁いた。八神は耳に当たる暮野の息がくすぐったくて、思わず首を竦める。
「一緒に晩飯食うの楽しみにしてるよ。いつもみたいに、仕事終わるの外で待ってるから」
「わ、分かりました……」
まるで恋人同士のような誘いを男から受けているというのに、八神はおかしなくらい違和感を覚えなかった。むしろ、胸の奥の、更に奥の方にある何かがざわめき出すような感覚に襲われ、急に息が苦しくなった。
八神の中の何かを刺激してくる暮野の存在が怖い。でも、反対にそれがとても甘く幸福なのも事実で、八神はその相反する感情に身を引き裂かれてしまいそうになる。でも、そんな自分の気持ちを暮野に気づかれたくなくて、八神は平静を装うと、そっと暮野に笑顔を向けた。
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