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kureno2

 八神の笑顔はやばい。すごい破壊力だ。胸を矢で射貫かれる表現をデフォルメしたマンガみたいに、その笑顔は暮野の胸を痛いくらい刺し貫く。その度に激しい動悸に襲われるものだから、恋愛において常に百戦錬磨の暮野が、かなり調子を狂わされているのは確かだ。  どんな心持ちで八神と接すればいいのか正直分からない。予測不能な八神の行動に戸惑い、そしてそれがとても新鮮でかわいいのだ。そんな純粋な感情に無縁だった暮野の恋愛に置ける百戦錬磨など、まるで役に立たないとネガティブになってしまうほど、暮野は今、八神に対して自信喪失中だ。 「暮野さん。午後の出来事……すみませんでした。僕が迂闊にあんなこと口走っちゃったから……僕、暮野さんに会えたのが嬉しくて、つい」  八神は本当に申し訳ないという顔をして暮野に謝った。その表情には照れているような様子はない、じゃあ今の言葉は何だ? 無自覚か? 暮野はどぎまぎと落ち着きなく飲み物に手を伸ばした。 「堅苦しいな。ねえ、來でいいよ」 「はい?」 「名前、下の名で呼んでよ。その方が親しみ湧くでしょ? 俺もそうするから」  男に下の名を呼ばせたいと思ったのはいつ以来だろう。否、もしかして初めてだったりするのだろうか? 記憶がかなり曖昧だ。 「……來さん」 「そう。いい響きだな」  八神から発せられた「來」という響きに胸がじんわりと熱くなる。さっきとは違い、八神は頬を少し赤らませると、暮野と同じように飲み物に手を伸ばした。  本屋でガイドブックを手に取り、適当に洒落た店がないか調べ予約をしておいた。八神が勤務する図書館から歩いて十分ぐらいの所にあるスペイン料理の店だ。暮野の好きなワインの種類が豊富なのが、この店を選んだ理由でもある。運良く個室が空いていたので、暮野たちはテーブルを挟んで二脚置かれた、四人掛けサイズのソファーに向かい合って座っている。  個室と言ってもカーテンで仕切られている程度なので少し心許ないが、別に何をするわけでもないと分かっていても、変にそわそわしてしまう自分が情けない。個室というだけでどこか淫靡だし、わざとらしくムーディーな照明が余計そんな雰囲気を醸し出している。ソファーの上に並べられた数種類のクッションにもリラックス効果があり、思わず寝そべりたくなるようなくつろぎ感を演出してくれる。だからついつい気が緩み、ワインを飲むピッチが速くなる。酒に弱いわけではないから、みっともない酔っ払いにはならないが、八神を前にすると変に調子が狂う自分を、無意識に酒で誤魔化そうとしているという方が正しいのかもしれない。 「ところでさ、俺のせいで仕事に影響出たりしてない? あの池田って男、結構要注意人物な気がするんだけど」  暮野は自分の短期な性格を呪う。我が儘で自分勝手な人間が大嫌いだから、ついそんな奴を見ると我慢できなくなってしまう。今回もそうだ。いつものように怒りをストレートにぶつけてしまった。 「……ええ、まあ。あ、あの、僕の完全な勘違いかもしれないんですが、最近池田さん、僕にやたらとちょっかいを出してくるんです。昼飯や夕飯とか、しつこいくらい誘ってくるからすごく迷惑してます。絶対行きたくないから、何かと理由付けて断ってるんですが……これって何なんですかね? 前は人を、ゴミを見るような目で見てたのに……」 (なるほどな……)  迂闊だった。池田は暮野が思っていた以上に危険な男かもしれない。ああいう男は、自分が傷つけられた腹いせに、弱い者を執拗にいじめるに違いない。そして、相手を自分に膝まつかせることで、腐った自尊心を取り戻そうとする……。でも、それだけじゃない。池田は八神の変化に素早く反応し、明らかに八神を今までとは違う目で見ている。それは自分と同じ。認めたくないが、あいつは自分と同じ目で八神を見ているはずだ。「掌を返したように」とはよく言ったものだ。要は自分も池田と同じ部類の人間だということだ。人を見た目で判断し、良く知ろうともしない。自分の価値観にそぐわなければ、貶し拒絶する。これでは、今まで自分が世間にされてきたことと同じではないか。ゲイというだけで蔑まれる辛さを自分は嫌というほど分かっていたはずなのに、自分も同じように、初めは八神を蔑むような目で見ていたのだから。それが今ではどうだ。目の前の男の真の魅力に、そのまんま掌を返したようにどっぷりとハマっているではないか……。 (最低だな……)  自分の情けなさに反吐が出る。でも仕方ない。これが人間なのだ。こんな人間が自分なのだ。ただ、今は少しだけこんな自分を許して欲しい。今のこの時間を少しだけでいいから楽しませて欲しい。無理をしながら自分に付き合ってワインを飲む八神が可愛すぎるから。ほんのりと体を桃色に上気させる八神が色っぽいから。自分が急速に八神に恋に落ちているという実感を味あわせて欲しいから。 「來さん? 大丈夫ですか? 急にぼんやりするから」 「ん? ああ。大丈夫だよ」  明らかに大丈夫じゃないのは八神の方だ。目はとろんと潤み、少しだけ呂律が回っていない。 「多分、僕の気のせいです。でも、この間腰に手を回された時はさすがにびっくりして、小さく悲鳴を上げちゃいましたけどね。あの人、職場のみんなから嫌われてるんです。僕と同じでコミュ障なとこあるし、相手の気持ちとか想像するの下手だからなぁ」 「……違うな」 「え?」  暮野の低い声に八神の表情が変わった。暮野は確信した。あの池田という男は八神を性的な意味で狙っている。絶対に。でも、八神はそんなこと露程も思ってないだろう。否、さすがにネガで初心な八神でも、自分に対し性的な目を向ける人間がいることに気づけるぐらいのセクシャリティを持っていて欲しい。そうでないと自分もやりにくい。 「絶対気を付けろ。そいつ、八神を狙ってるから」 「は? 來さんの言ってる意味が分かりません。ちゃんと分かるように説明してください」  無自覚ほど恐ろしいものはない。八神は酔っているせいか、少しだけ顔を前に突き出すと、耳を欹てるような仕草をした。 「こういう意味だよ」  暮野は八神の腕を引っ張ると、「こいよ」と言い、自分の隣に強引に座らせた。そして、八神の両肩を強く掴むと、ソファーに力を入れ押し倒す。 「ららら、來さん?!」  八神は顔を真っ赤にさせると、大きく目を見開きそう叫んだ。暮野はその目に引き込まれてしまい、思わず自分の顔をぐっと近づけた。八神の、怯えたように自分を見つめる瞳に口付けしたくなる。暮野はそんな欲望を無理矢理押し戻すと、八神の肩に更に力を加えた。 「ほら、あいつにこんなことされたらどうすんの? 警戒心持たないと駄目じゃん。気を付けろよ。マジで」  暮野はそう言うと、ぱっと八神の肩から手を離した。八神は魂が抜けたようにしばらく天井を見ていたが、がばっと跳ね起き暮野を無言で数秒間見つめると、「きょ、今日はこれで帰ります!」と、叫ぶように言い、カーテンにもたもたしながら個室を出て行った。 ああ……バカだな、俺……」  こんなにも切ない気持ちになるなんて思いもしなかった。暮野は飲みかけの八神のグラスを、しばらくぼんやりと見つめた……。

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