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yagami6

 八神の勤務する公立図書館は、毎週水曜日に、二二時まで夜間開館を行っている。利用者は結構多く。仕事が終わってからでも利用できるということでとても重宝がられている。夜間勤務用のローテーションを組んでいるので、だいたい月に一・二回程度夜間勤務が回ってくる計算だ。正規職員は二人一組体制で、それ以外は夜間開館専用のパート職員が勤務してくれる。  そして、ひどく最悪なのが、昨日あんなことがあったばかりだというのに、二人一組体制の相手がよりにもよって池田なのだ。あまりの皮肉さに笑うしかない。でも、今日の池田は特に変わった様子はなく、八神に変なちょっかいも出してこない。だから気持ちを切り替え、何事もなく業務が終了することを願いながら、八神は黙々と仕事に打ち込んでいる。そうでもしなければ、昨日暮野に脅かされたせいで、変に池田を意識してしまう。またそれ以上に、暮野に押し倒された時の記憶が八神の頭を不意に過ぎり、その時迂闊にも反応してしまった自分の性的な欲望に、幾度となく頭が捕らわれてしまいそうだからだ。 (ああ、恥ずかしい……)  八神はあの時、少しだけ勃ってしまった。暮野の体臭や、頬に当たる息に、八神の体が衝動的に反応してしまったのだ。確かに八神は恋人もいないし、わざわざお金を出してまで性欲処理をしたいとも思わない。どちらかというと性的なことには淡泊な方である。それがどうしてよりによって暮野に反応してしまったのか。その理由を、八神は昨晩、寝ずに考え答えを出してみた。その答えというのが、八神が欲求不満でも性体験に乏しいからでもないということだ。八神はどうやら、暮野に恋をしてしまったらしい。この、「いつも暮野のことばかり考え、暮野に会いたくてたまらない」という思いは、恋だ。多分。恋なのだと思う。多分……。  八神は自分で出した答えに尻すぼみに消極的になっていく。当たり前だ。男を好きになるなんてそんなこと絶対に有り得ないと思っていたから。八神は男として生まれ、男として育った。それはつまり、女性を好きになり、結婚し、子どもをつくり、家庭を築き上げるということが至極当たり前だという考えをずっと刷り込まされてきたからだ。その刷り込みを覆すような衝撃を、八神は自分の人生で初めて経験してしまった。それが今だ。今の八神は、その衝撃に戸惑いながら幸せだ。この恋という感情が八神の脳内をバラ色に染め上げている。普通なことがよし。普通からはみ出る変な奴は阻害され蔑まされる。そんな今までの自分が、やっぱりまた普通じゃない恋愛に胸を躍らせている。  自分はとことん普通じゃない奴だ。でも、だからこそ自分は自由で正直なのかもしれない。八神は暮野に恋をして、そんな単純なことに気づく。でも、この恋は八神の完全な片思いに終わるだろう。自分はただ独り善がりに、暮野との恋愛を脳内で繰り広げるだけのイタい奴でしかない。だって暮野が、自分を好きになってくれるわけなど絶対にないのだから……。  暗い気持ちに包まれ始めた八神は、今日何度目かの時計に目をやると、時計の針はやっと閉館時間に近づいている。八神は心からほっと一息をついた。利用者は既にカウンターに2.3人いるぐらい。そろそろ館内を見回りし、本棚の整理や、出しっ放しの本の片付け、簡単な清掃などをする閉館準備を行わなければならない。最後まで責任を持って閉館させるのは正規職員の仕事で、パート職員には勤務時間をオーバーしないよう、時間通りに退勤してもらうようになっている。  八神は池田を探し、閉館の準備をしようと声を掛けた。池田は利用客に頼まれているレファレンス用の資料を探していたらしく、面倒くさそうに「分かった」とぶっきらぼうに言った。二人で手分けして館内を整頓、清掃をしながら見回りし、パート職員には帰宅準備を促した。  毎回そうだが、完全に図書館の入り口の鍵を閉めるまで最低一時間はかかる。八神と池田はすべての見回りを終わらせると、着替えと荷物を取りに更衣室に向かった。 「あ、駄目だ。池田さん。僕、二階の倉庫の鍵掛け忘れてました。締めてきますんで、気にせず先に帰っていいですよ」  更衣室で池田と二人きりになりたくない八神は、勢いを付けそんな嘘をついた。 「え? そうなの? じゃあ、一緒に付き合ってやるよ」 「え?! だ、大丈夫ですよ。ほんと、大丈夫ですからっ」 「何でそうなる!」とパニクる八神に、池田はにやにやと笑いながら近づくと、「ほら行くぞ」と言い、八神の肩に腕を回した。 「い、いやっ、ほんと大丈夫ですからっ。一人で行けますっ。池田さんはもうお帰りくだっ」  八神がそこまで言うと、池田は八神に顔を近づけ「もしかして、鍵掛け忘れたなんて嘘だろう?」と不気味に囁いた。八神は背中にミミズが這い昇るような悪寒を感じ、恐怖の余り体が石のように強ばった。 「かわいいなぁ、八神君」 「え?!」  池田はとんでもないことを八神に言うと、自分の手を素早く滑らせ、いやらしい手つきで、八神の腰から臀部にかけて撫で回し始める。八神は驚いて、慌てて池田の腕を掴んで思い切り振り払うと、必死に階段に走りそのまま二階へと駆け昇った。 「おい! 何で逃げんだよ!」  池田は大声で怒鳴ると、八神を追いかけて来る。 (何だ? 何だ? 今のは何だ?!)  やっぱり暮野が言ったことは正しかったのか? 八神は今頃になってその事実を絶望的に悟る。でもどうして自分なのだ? 池田は同性愛者だったのか? 今まで池田は自分になど何の興味もなかったはずなのに。八神はもう驚きを通り越して怒りしか込み上がってこない。池田という男はマジで最低な奴だ。八神という人間には八神という人格が宿っているのに、そんなことなど完全無視な身勝手な行為に、さすがに八神も自尊心を激しく傷つけられる。この男は完全に八神を舐めている。八神という人間が自分に刃向かうなど、想像すらしたことがないのだろう。八神が逃げる理由を池田は分かっていない。その頭の中に疑問符が浮かんでいるような間抜け面に、八神は人生で一番の怒りを爆発させている。にもかかわらず、それを池田にぶつける勇気もないまま、ただ逃げているだけの自分が、涙が出るほど悔しい。  八神は本棚の影に身を隠しながら、二階の一番東奥にある倉庫まで何とか辿り着くと、エプロンのポケットの中の、さっき見回りをした時に使った鍵でドアを開け、素早く倉庫の中に入った。主に施錠確認は下端の八神がやることになっているから、池田は倉庫の鍵を持っていないはずだ。八神はすぐに内側から鍵を掛けようとしたが、最悪なことに、防犯に厳しいうちの図書館は、中から施錠する時も鍵を使わなければならない。八神はもたつきながら鍵穴に鍵を差し込むが、手が震えてうまく刺さらない。そのちょっとした隙に、倉庫のドアノブを池田に掴まれてしまった。強い力でドアを一気に引かれると、池田が勢い良く倉庫の中に入って来る。 「はあ、何してるんだ? 八神君。どうして俺から逃げる?」  池田は息を切らしながら、苛立ちを滲ませた顔で八神に問いかける。 「に、逃げるって……へ、変なことするからじゃないですか! 池田さん! 何なんですか? どうして、あんな事……」 「駄目なのか? 俺、八神君がかわいくてたまらないんだよ……なあ、いいだろう? 八神君。俺、お前のこともっと触りたい」 「なっ、ぼ、僕は男ですよ? 池田さん! お願いです。正気に戻ってください!」  八神は池田の言葉に吐きそうなほどの嫌悪感を覚えた。自分をもっと触りたいだなんて、池田は自分と性的なことをしたいと望んでいるのだ。有り得ない。そんなこと死んでも嫌だ。  池田は八神を追い詰めるようにじりじりとにじり寄る。八神は手に握りしめていた鍵を池田に気づかれないよう、そっとポケットに入れようとした。その時、池田が八神の手首を掴み強く引っ張ると、さっと身を翻し、そのまま八神をドアに強く押さえつけた。 「おっと、鍵は俺が預かっておくよ」  池田は素早く鍵に気づくと、八神の手をドアに押さえつけたまま器用に鍵を取り上げ、自分のエプロンのポケットに入れた。 「あっ! ちょっ、返して!」  自由になる方の腕を伸ばし叫ぶと、池田は八神のその手に自分の手を交互に絡ませ、またドアへと貼り付ける。交互に絡まされた指から生々しい池田の肌を感じる。八神は強く抵抗したいのに、触れた皮膚から、池田の腐敗した魂が侵入してきそうで、そんな妄想に気が狂いそうになる。 その時、池田はいきなり八神の股間に自分のそれを押し付けてきた。 「どう? はあ、八神君、やばいな……すげー興奮するわ」 「う、うわっ、やっ、やめてくだっ!」   池田はグラインドさせるように腰をくねらせる。そのリズムに合わせて、短く八神の耳元で生温かい汚れた息を吐く。吐き気が喉元までこみ上がるほど嫌なのに、池田のそれと擦り合わさることで、自分の身体が生理現象に抗えないほど間抜けだという事実に、羞恥と絶望で打ちのめされる。その時、脳裏に暮野の顔が浮かんだ。暮野の顔を思い出すと、いつも臆病で自分に自信がなく、大切なことから逃げてばかりいた弱い自分が、本当は大嫌いでたまらないのだということに気づく。 「嫌だ! やめっろ!!」  八神は渾身の力で池田を自分から引き剥がすが、異常に興奮し、目がぎらついている池田は、脳内からおかしなホルモンでも分泌しているのか、異常なほどの力を発揮する。 「何だよ。八神君も気持ち良くなってるじゃないか、ほら、これ」   池田は八神のそれに手を滑らせると、ズボンの上から焦らすように愛撫し始める。ぞわっと走り抜ける感覚は快感なんかじゃない。八神は自由になった手で抵抗しようとするが、池田の力は尋常じゃないくらい強い。足で股間を蹴り上げようと思っても、ドアに強く腰を押しつけられてしまい自由が効かない。池田は、八神のそれから一端手を離すと、そのままズボンの中に手を入れ直に八神のそれに触れた。 「はあ、八神君……俺がいかせてやるからな」 「いやだっ! やめろっ!!!」  絶叫に近い叫び声を上げ、顔を左右に引きちぎれるほど振った瞬間、突然目の前に閃光が弾けた。目を潰されそうなほどの強い眩しさに、八神は咄嗟に両目をきつく閉じた。頭は真っ白になり、一瞬、自分が何処にいて何をしているのかさえ分からなくなるほどの衝撃に、八神は恐怖と共にゆっくりと目を開けた。 「……ら、來……さん!?」  八神の目の前には暮野がいた。暮野は池田の首に腕を回しきつく締め上げている。池田の目は大きく見開かれ、きょろきょろと黒目を動かし、何が起きているのかこの状況を必死に探ろうとしている。暮野は八神に向かい、人差し指を唇に当てる仕草をすると、声を出さず「しー」という形を口元で表した。  暮野は冷え切った能面のような顔で池田の首をゆっくりと締め上げる。池田は最初抵抗を試みじたばたとしていたが、しばらくすると暮野の腕の中でぐったりと白目を剥き動かなくなった。暮野はまるで流れ作業をするロボットのようにぱっと池田から手を離すと、池田はどさりと人形のように床に落ちた。  八神は突然のことに腰を抜かし、ドアに寄りかかりながら呆然と暮野を見上げた。 「……し、死んじゃったの?」  八神は口にするのも恐ろしい言葉を震える声で呟いた。 「まさか、気絶してるだけだよ。まあ、危うく殺しかけたけど……」  暮野はどうでもいいようにそう言うと、八神の目の前にすっと片膝を付いた。 「ばかやろう、だな……」 「え?」 「何であんたはそうなんだ? 言っただろうが! 気を付けろって!!」  暮野は顔を真っ赤にさせながら激昂している。その姿に、八神は悲しみよりも歓喜の叫び声を上げたいほど胸が高鳴る。暮野の怒りが自分を心配してのことだと思うと、胸が破裂しそうなほど熱くなる。 「な、何ですか? いきなり説教ですか?」 「違うっ。俺はこいつを殺してやりたいほど憎いんだよ……あんたに、こんなこと……クソだ、こいつ……マジでぶっ殺しても惜しくない」 「……ら、來さん……ほんとに、ごめんな、さい……」  八神は暮野が助けてくれた安堵と嬉しさで、感情の抑え方を知らない子どものように、涙が溢止めどなく溢れた。  暮野は八神を切なげに見つめると、八神の頭をそっと抱き、自分の胸に強く押し当てた。八神は込み上がる感情のままに、暮野の首に両腕を回し、強く抱きついた。 「嬉しい。助けに来てくれて……本当に嬉しいです」  嗚咽と共に八神は暮野へ伝えた。好きという感情がこぼれ落ちてしまうのを、この状況でもギリギリ理性で食い止めながら、八神は感謝の思いを、暮野に心を込めて伝える。 「ああ。良かったよ。間に合って……本当に良かった」  耳元に溜息交じりに囁く暮野の声を聞いたら、八神は自分のペニスが中途半端に熱を帯びていることに気づいた。八神はそれを暮野に気づかれたくなくて、もう一度、暮野の首に回した腕に力を入れた……。

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