9 / 22
yagami7
狐につままれたとはこういうことを言うのだろうか? すべてが幻だったのではないかという不安を八神はずっと拭い去れないでいる。ただひとつ、これは確実に現実だと思えることは、池田が仕事を辞めたことだ。強姦罪は未遂でも既遂の二分の一の刑罰を与えられる。本来なら刑事告訴すべきだろうが、八神は同僚で男だし、未遂ということもあり、そこまではせず、内々に依願退職という形で事を収めたのだ。池田は本当にどうしようもない人だったが、今までの彼の図書館司書としての勤務能力などを考慮し、上もしょうがなく穏便に事を済ませた。池田の歪んだ人格を刺激したら、どんな逆恨みを買うか分からない。そういったことを踏まえてのこの処分は、一番無難なやり方ではある。池田はこの処分を有難く受け止めると、二度とこんな事件を起こさないよう改心するとし、八神に謝罪した。でも、このことを暮野が知ったら、多分もの凄く激怒するだろう。「お前はそれでいいのか!」と罵られるに違いない。確かに八神は何も悪くない。池田に同情する余地など皆無だと分かっている。でも八神は、あんなにも大嫌いだった池田が気の毒でならないのだ。池田のあの他人の気持ちを察することのできない人格を、八神はどうしても他人ごととは思えない。ずっと他人とのコミュニケーションで悩んでいた八神だからこそ、池田の愚かさが胸に切なく刺さる。でも、だからこそ八神は池田を信じたいのだ。この事件をきっかけに彼が変われるという希望を持ちたい。八神がそうありたいと思うように……。
八神はもうずっと、自分がこの世に存在し、地べたにしっかりと足を付けているという感覚がない。八神の心は拉げた豆腐のようにぐちゃぐちゃで、どう頑張っても元に戻らない。どうしてそうなってしまったのか、その理由は簡単だ。暮野が八神の前から姿を消したからだ。
八神が暮野へ感じたおかしな違和感は正しかった。暮野は現在の人間ではなく、未来から来た人間だったのだ。未だ半信半疑だが、あの異常な光と、防犯カメラから暮野が消えていた事実を考えれば、絵空事ではないと分かる。
でも、どうして暮野はあの夜以来八神に会いに来てくれないのだろう。あの夜八神にしてしまった性的な行為への罪悪感からか? だとしたら彼は、八神があれを嫌々受け入れたとでも思っているのだろうか? もしそうなのだとしたら、今すぐにそうではないと伝えたい。
もし、闇雲に走れば暮野に会えると言うのなら、八神は狂った人間にように「そうではない」と叫びながらひたすら走るだろう。他人が八神に奇異な目を寄越しても構わない。それぐらい今八神は、死にそうなほど暮野に会いたい。
「飯ぐらいちゃんと食べないと」
布団の中に蹲る八神に父親は呆れたように言った。八神は今日初めて仕事をさぼった。熱があるという理由で休んだが、もちろんそれは嘘だ。でも、熱以上に、八神の身体と心は暮野への募る思いに疲弊し、擦り切れているのだからしょうがない。
「ここに置いとくぞ。お粥作ったから。ちゃんと食べろよ」
父親は八神の布団の枕元に、多分いつもの卵入りのお粥を置いた。八神はその香りに誘われるようにのそのそと布団から顔を出すと、父親とばっちり目が合ってしまい、途端にばつの悪い気持ちになった。
「顔色は悪くない……まさか、思春期の登校拒否みたいなものじゃないよな?」
父親は不安げに八神を見つめた。
「まさか。そんなんじゃないよ。ただ、本当に調子が悪いだけ」
「そうか。それならいいが。もし、何か悩み事でもあるならいつでも言えよ」
「……悩み事ねえ」
八神は何となくこれが良い機会だと思い、父親に思い切って尋ねてみたくなった。ずっと気になっていたあのことを。
「ねえ、父さん。悩み事ではないけど、あのさ、何で今でも頻繁に会ってるのに、母さんと離婚したの? 離婚の原因って何なの?」
予想外の質問に面食らったのか、父親は突然意味もなく、八神の枕元に置かれたお粥の蓋を開けたり閉めたりした。
「え? うーん、何でかな? って、どうしていきなりそんなこと聞くんだ?」
「いや、だって、気になるじゃん。別れた夫婦がしょっちゅう会ってるんだよ? 気にならない子どもなんている?」
「……まあ、いないわな」
父親はそう言うと、困ったようにだんまりと下を向いてしまう。
「ねえ、何で? どうしても我が子には言えないようなきつい内容とかなの?」
「違う。そんことはない。ただ、こればかりはここでは言えない。お母さんとちゃんと確認してからでないと言えないんだ」
父親は珍しく神妙な顔をして八神を見つめた。そんな父親の目は、八神に「すまない」と強く訴えかけてくる。八神はその、なんとも言えない情けない目に急に苛立ちが込み上がってきて、訳もなく父親を傷つけたいという衝動に駆られた。
「父さん。あのさ……僕……ゲイかもしれないんだよね」
自分の口から滑り出た言葉に、自分でも驚く。でも、もう後には引けないし、どうにでもなれという投げやりな気持ちに身を委ね、八神は父親を傷つける。
「芸? かもしれない? お前、芸人にでもなるのか?」
「……違う! ゲイだよ。同性愛者」
「……え? ああ、そのゲイか……って、はああ?」
父親は見事に理解したらしく、これでもかと目をまん丸く見開いた。
「好きになっちゃったんだよ。男の人を……でも、安心して。その人僕の前からいなくなっちゃったから……もう一か月も会ってないし」
昔から父親には何でも気軽に話してきた。生まれた時から相性が良いのかもしれない。父親は今までずっと「うん、うん」と優しく相槌を打ちながら話を聞いてくれた。自分が同級生に傷つけられた話だけは、父親を悲しませたくなくてしなかったけど、それ以外の他愛のない話は、自然に口から溢れるように父親に話してきた。ただ、今の話は決して他愛のない話ではないし、父親を傷つけない話でもない。でも、自分たちの身勝手で別れた夫婦が会っていることの理由を、何故、もう大人の八神に隠す必要があるのか、それに対する怒りが自分に冷静さを欠かす。
「……一か月って、たいしたことないだろう? お前はそれでもう諦めちゃうのか?」
「え?」
父親は何とも表現しづらいというような顔をしながら、八神を見つめそう言った。
「何で? 何でショックじゃないの? 嫌でしょ? 自分の子がゲイとか、嫌だよね?」
八神は父親の反応が理解できず、布団から立ち上がると、うろうろと布団の上を行ったり来たりした。
「だって、お前のその、男に惹かれてしまった気持ちを、俺が無理やり矯正することで何が生まれる? 俺はお前に憎まれることほど辛いことはないんだよ。優弥」
「父さん……」
「お前にそういう感情があるって分かって嬉しいよ。ずっとこのまま他人を拒絶し続けるようなことになったら、俺は死んでも死に切れないよ」
「な、何だよそれ……ズルいよ。もっとがっかりしてよ、こんな息子持って、俺はついてないってさ」
嘘だ。本当はかなりショックを受けているはずだ。自分の息子がゲイだなんて、そんな事実すんなり受け入れられる親なんているわけがない。なのに、八神を傷つけないことをいつも一番に考えてくれる父親は、やはりその姿勢を、こんな衝撃的な告白の時でさえ変えようとしないのだ。
「ついてるよ。俺は。お前っていう優しい子どもを授かれて、こうやって一緒に暮らせてとても幸せだよ。まあ、とにかく今日はゆっくり休んで、その彼とのことをどうするかよく考えなさい。俺は優弥が悔いの残らない選択をしてほしいと思ってるよ」
八神は何も言えず布団の上に棒立ちになった。両親の離婚の理由を聞いた流れから、まさかのカミングアウトをしてしまった自分がひどくバカみたいで情けなかった。でも、そのせいで八神は、父親の言葉から、暮野に対する不安や失望に負けない勇気をもらえた気がする。本当に人生は何が起こるか分からない。だからこそ時に怖いけど、それ以上に喜びや幸せがあることもまた事実なのだ。だったら八神は後者を信じればいいのだろうか? 恐れず、逃げずに、暮野を信じればいいのだろうか?
「……ごめん。父さん。ありがとう。いつも僕のこと考えくれて。あのさ……離婚の理由は、気が向いたら教えてくれればいいよ」
八神はそう言うと、「お粥ありがとう。食べたらちょっとやることあるから。大丈夫。僕は元気だよ」と言い、父親に微笑んだ。
ともだちにシェアしよう!

