14 / 22
yagami10
自分で自分をこんなに嫌いになったことなどない。それは多分ここまで嫌いになるほど、今までの自分の行動に後悔をしたことがなかったからだ。自分の殻に閉じこもり、人との関わりを避けていたら、自ずと行動範囲も行動力も小さくなっていく。そのことに改めて気づかされた八神は、心の底から自分という人間の浅さを思い知る。
今更何を後悔するのだろう。もう手遅れではないのか。八神は自分の吐いた言葉を呪う。あれは自分の弱さに突き動かされ発した情けない世迷い言だ。その弱さに、自分への自信の無さに、八神は今まで何度失望してきたかしれないのに。あの時もまたそんな自分が顔を出してしまったことに、八神は強く打ちひしがれ、今現在、仕事にまったく身が入らないという状況に陥っている。
暮野と体を重ねた日から丸四日が過ぎた。八神はあの時、暮野のミッションへの不信感から、暮野を疑った。自分への行為全てがミッション遂行のための芝居なのではないかと思えたら、死んでしまいたいほどのショックを受けた。そして、頭がひどく混乱し、そのせいでとてもバカなことを口走った……。
カウンター業務中であるにもかかわらず、八神はもうずっと暮野のことばかり考えてしまい、ぼんやりと虚空を見つめ手が止まってしまうという日々を送っている。何度か利用客に声を掛けられ、はっとして業務に戻るということの繰り返し。同僚達に具合が悪いのなら休めと言われたが、それをしてしまうのはあまりにも情けないし、家に帰ってしまったら、余計深い深い内省の渦に取り込まれてしまう。
暮野は既にこんな自分に失望しているだろう。八神はそれを思うと、このままカウンターに突っ伏し声を張り上げ泣いてしまいたいと思う。今泣けば、自分の心の澱をきれいさっぱり洗い流し、今日一日だけでも、何とか仕事をやり遂げるぐらいに復活できるのに。八神はそんなことを考えてしまう自分がまた心底嫌になる。そんなこと一端の社会人がしたら情緒不安定で病院行きだ。
暮野はあの時気になることを言った。ミッションの内容を八神に教えたら、自分はミッションから下ろされ、八神にもう二度と会えないと。だとしたら、八神のすべきことはもうはっきりとしているのではないか。ミッションのことには触れず、ただ暮野を信じればいいのだ。自分の精子の使い道などどうでもいい。八神はただ暮野が側にいてくれるだけでいい。ずっとずっと離れず側にいてくれることが、八神にとって一番幸せだということを今すぐに暮野に伝えたい。でも、それはもうできないだろう。きっと暮野は八神に愛想を尽かし、ミッション完了と同時に未来に帰ってしまったに違いないのだから。
悪い方へ物事を考える癖が、もうずっと前から自分には染みついている。それは浅黒い痣となって一生消えないのだろうか? やっと訪れた幸福を自分はこんな形で手放してしまっていいのだろうか? 本当にこのまま何もせず、ただ諦めてしまっていいのだろうか? でも、八神は、暮野との連絡手段を知らない……。
「おい! 前から思ってたけど、あんたやる気あんのか?」
「……え?」
低い、苛立ちのこもった声が頭上から下りてくる。恐る恐る顔を上げると、この図書館の常連の利用者で、クレーマーとして有名な男が八神を睨んでいる。以前暮野に一括されすごすごと別の列に並んだあの利用者だ。年齢は四十代ぐらい。服装を見ると、サラリーマンではないのだろう、ポロシャツにチノパンというラフな格好をしている。目の前の男は、あの時から八神を逆恨みしているかのように、わざと八神の列に並んでは必ず難癖を付けてくる。八神はドキドキと暴れだす心臓に必死に言い聞かせる。今日こそは、先々週受講したばかりの、図書館司書用のクレーマー対応スキルをここで活用すべきだと。うなずきと相槌と繰り返し。この三つを駆使し、クレーマーの荒ぶる心から吐き出される言葉に傾聴し、共感の態度を示す。でも、今のこの男の態度は明らかに八神の職務怠慢へのクレームだ。悪いのは完全に自分なのだ。クレーマーへの対応スキルをどうこうする以前の問題だ。
八神はもうプライドなど完全に捨て去り、ひたすら謝ろうという姿勢で望もうとしたその時、男がいきなり八神の胸ぐらを掴んだ。
「前々から気に入らなかったたんだよ。あんたのそのおどおどした精気のない勤務態度がさ。なあ、あんたみたいな公務員いらねえんだよ。さっさと辞めてくれねえかな?」
男は他の利用者の目などまったく気にならないような態度で、八神だけを執拗に見つめ、奥歯を噛みしめるようにそう言った。
「はっ、はい! 本当に、す、すみませでした! 以後気をつけますので、ど、どうかお許しください!」
八神は震えながら精一杯声を張り上げそう言った。
「はあ? 許さねえよ。あんた何で図書館司書になったんだ? どうせ、たいした思い入れもなく適当になったんだろう? やめろ、やめろ、そんなやる気がねえ奴はさっさと辞めちまえ」
男は八神を見下し嘲笑うように言った。
「……ち、違います」
「はあ? 何だよ。聞こえねえよ」
「違います! ぼ、僕は、本が好きなんです! たくさんの人に僕が面白いと思った本をレビューとかで紹介して、感動を分かち合いたいと思っています。最初は本と関われるならと思って、単純に図書館司書を選んだことは認めます。でも、今はこの仕事が好きです。誇りを持ってます……確かに僕は、人と関わるのが苦手です。未だに自分の殻に閉じこもります。でも、でも、図書館司書を辞めろとか、あなたにそんなこと言われる筋合いは、あ、ありません!!」
八神はクレーマーの言葉にカッとなり、その熱情に任せ自分の思いを必死に言葉にした。いざ言葉にしてしまえば、それは八神の言霊となってこの世に生まれる。その産みの苦しみから解放されたような満足感と、その後に襲ってくる、「やってしまった」という後悔に、八神はクレーマーの反応を、鉱石にでもなったかのようにガチガチに固まりながら待った。
「ふーん。確かに、あんたの書いたレビューは面白いよ。俺はそれで、何冊か実際本を借りたしな」
「え?……」
「今みたいにはっきり自分の気持ちを口にすればいいんだよ。自信持ってさ」
クレーマーの男の予想を大きく反する受け答えに、八神はこれでもかと目をまん丸く開けると、そこからポロポロと涙が零れ始めた。
「は、初めてです。レビュー、面白いって言われたの……」
「そ、そうかよ。でも、泣くか? 普通」
「す、すみません。つい、う、嬉しくて」
八神はこの状況で子どもみたいに泣いてしまう自分が、本当に情けなくて堪らないが、レビューを褒められたことの嬉しさにその感情は完敗し、目の前の男を、瞳を輝かせながら見つめた。
「僕、頑張ります! 自信を持って、この仕事をこれからも!」
「お、おう。分かればいいよ」
八神は立ち上がり男をまっすぐ見つめながら、男の手を握りそう言った。そんな八神の勢いにクレーマーの男は照れたように半歩後ずさりした。そのせいで、後ろにいた利用客にぶつかり、男は慌てて後ろを振り返り相手を確認すると、すかさず、表情を強ばらせながら八神に顔を戻した。
「きょ、今日はもういいや。じゃあ、ま、また来るからな」
男は貸出処理の済んでいない本を手に取ると、びくびくと後ろの利用客を気にしながら、逃げるようにカウンターを後にした。突然の男の変化に八神は不思議に思ったが、次の瞬間、その理由がはっきりと理解できた。派手なニット帽を目深に被り、真っ黒なサングラスに大きなマスクを掛けた、明らかに妖しい男が立っている。八神は心の中で一難去ってまた一難だと大きく叫んだ。
「ご、ご利用、ありがとうございます。この二冊でいいですか?」
男は何も言わずただ静かに頷いた。気のせいかもしれないが、サングラス越しにじっと見つめられているような気がするのは自意識過剰だろうか? 八神はまたクレーマーのような客なのではないかと思い、自分の腹に力を入れた。
「利用者カードの提示をお願いします」
バーコードを読み込むためカードの提示を要求すると、男は上着のポケットに手を入れ財布を取り出し、財布の中を覗き込みながらカードを探し始める。
「あ、忘れたかも」
男は顔を上げるとどうでもよさそうにそう言った。
「あ、お忘れでしたら、臨時利用者カードを作れます。あそこの利用登録カウンターで、必要書類の記入と、本人確認書類の提示が必要になり……」
八神がそこまで言いかけた時、不審な男はすっと紙切れを八神の前に差し出した。
「え?」
八神はそれを掴むと男を怪訝な顔で見つめた。男はサングラス越しに八神をまっすぐ見つめているのが分かる。今度はそう強く確信できるほどの空気が、男から激しく立ち上っているからだ。
八神は後に続く利用者の列のこと考え、戸惑いながらもその紙切れをすっと自分のエプロンのポケットにしまうと、笑顔で男に臨時利用者カードの作り方の説明を続けた。男は黙って八神の説明を最後まで聞くと、カウンターに置いた本二冊を乱暴に掴み取り、無言でその場から立ち去った。
八神はトイレに行ってくると同僚に伝え、カウンターを一旦離れると、急いでトイレの個室に入り、たった今怪しげな客から渡された紙切れをポケットから取り出した。縦横二つに折られたその紙切れを広げると、そこに書かれた文面に、八神は息を詰めながら目を通す。
『今日仕事が終わったら、俺が登った木の下で待ってる。必ず来てほしい 暮野來』
(ああ……)
八神は紙切れを持つ手を震わせながら、涙で滲む目を必死に凝らすと、暮野の文字を何度も何度も読み返した……。
ともだちにシェアしよう!

