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yagami11

 運悪く今日は遅番で、八神は最後に図書館を出ると、抑えていた暮野への気持ちが前のめりに突き進んでしまい、転びそうな勢いで裏口に向かった。急いで裏口の鍵を掛け外に出ると、まっすぐに樫の木に進み、この期に及んでまた木登りなどしてはいないかと、暗闇に目を懲らしながら樫の木を見上げたが、さすがに木上には暮野の姿はなかった。  八神はどんな風に暮野に謝ればいいか、もうずっとそればかりを考えている。もし、許してもらえず別れを告げられたら、八神ははっきりと「嫌だ」と言おう。嫌われても、疎ましがられても、自分の気持ちを抑えずぶつけてみよう。そんな決意を八神はぐっと腹に閉じ込め、暮野を探した。 「來さん……どこですか?」  どうして暮野はいつも自分に探させるのだろう。このもどかしい、逸る気持ちが辛すぎて、八神はぐっと下唇を噛んだ。 「優弥……」  背後から声がして慌てて振り返ると、そこにはさっきと同じへんてこな格好をした暮野が立っていた。八神はちゃんと顔を見るまでは不安で、急いで暮野に近づくと、サングラスをずらし暮野の瞳をしっかりと見つめた。 「ああ、どうしよう。來さんだ。変質者じゃなくて良かった……」  八神は嬉しさの余り、他に人がいないのを確認すると、自分から暮野に強く抱きついた。 「俺が言いたかったのに……」 「え?」 「さっきは悔しかったよ。あのクレーマー野郎に先越されてさ……優弥の書くレビュー、俺も好きなんだよ。読みたいって感情を上手く刺激してくるし。だから俺が誰よりも先にそう伝えて、優弥を泣かせたかったのにさ、あんな男の手まで握っちゃうとか、どんだけお人好しなんだよ。それだけじゃないよ。潤んだ瞳であの野郎を見つめるとか……マジ耐えられなかったよ……」 「來さん……」 「俺、我慢したんだよ。本当は優弥にちょっかい出し始めた頃から、あの男を殴りつけてやりたかったんだけど、ぐっと堪えた。やっぱそんな自分嫌だし、優弥に嫌われたくないし……」  暮野は困ったように口をへの字にしながら、途切れ途切れにそう言った。 「はい……はい、そうです。やっぱり來さんは、僕のことを好きなんだって、思ってもいいですか?」  抱きしめる手に力を込める。感情が溢れ出し、暮野を二度と離さないという思いをぶつけるように、八神は更に力を込める。 「來さんを信じられなかった自分が、心の底から嫌いです。そんな自分を変えて、もっと好きになれる自分になります。逃げません。絶対。僕は來さんとずっと一緒にいたいです」 「俺もだよ。俺もずっと一緒にいたい」  苦しそうにそう言う暮野の様子が気になって、八神は暮野を見上げた。暮野は八神の体をそっと引き剥がすと、「大事な話しがあるんだ」と静かに言った。 「話しって……その奇妙な変装と関係あります? もしかして」 「奇妙?……やっぱり?」 「はい。かなり」  八神は微笑み、「場所を変えますか?」と言った。暮野は数秒間考えあぐねると、急に八神の手を引き歩き出した。 「ら、來さん! どこ行くんですか?」 「俺たちにとって、一番落ち着く場所は一つだろう?」  暮野は、今八神が出てきたばかりの図書館にまっすぐ向かうと、「鍵開けて」と口早に言った。 「え?……ああ、は、はい」  八神は一瞬躊躇ったが、暮野から漂う雰囲気がその躊躇いを払拭する。とても大事なことを早く伝えたいが、それがどうしてもこの場所でなければいけないような、そんな切ない暮野の思いを、八神は静かに受け止めた。  鍵を開け管内に入ると、二人は手を繋ぎながら、非常灯を頼りに書架スペースまで歩いた。さすがに暗くて本の背表紙を目で追うのは大変だが、八神の携帯のライトを使って、ただ当てもなく真っ暗な図書館を、二人でゆっくり本をなぞりながら歩く。 「小さい頃、図書館が迷路みたいでわくわくしたんだ。俺、図書館が大好きだよ。本が俺を守ってくれてるみたいで、心が凄く満たされた……」  暮野が昔話を懐かしそうに始めた。八神はそれが嬉しかった。暮野が八神に自然に心を晒していることがとても嬉しい。 「ええ。分かります。ここにいると僕も同じ気持ちになります。ここだけはとても自由で、神聖で、守られているって感じ、良く分かります」  暮野は八神の言葉を聞き、穏やかに微笑む。でも、その笑顔にはどこか寂しさが潜んでいるようで、八神はそれが少しだけ気になった。  「座ろう」  暮野はそう言うと、八神の手を引っ張り、書架に寄りかかるようにして二人並んで床に腰かけた。 「俺が何でこんな変装してるか分かる?」 「え? いいえ……」 「優弥と顔を合わせるのが怖かったからだよ……バカだな。さよならって言われてもの凄く怖くなったんだ。無視されたらとか、もう好きじゃないって態度されたどうしようって思ったら、堂々と姿を現せなくてさ……」  暮野は伸ばした長い自分の足先を見つめながら、独り言のように言った。 「ぷっ、あはは……來さん可愛いっ」  八神は暮野の行動が心から可愛くていじらしくて、思わず堪え切れず吹き出した。こんな風に誰かの言動に対し、自然とおかしさが溢れる経験など八神は初めてかもしれない。 「わ、笑うなよ。今日は必死の思いでここに来たんだぜ。どうしても、俺が優弥を好きだってこと信じてもらいたくて……」 「はい。もう十分伝わってます。あの時は、僕が悪いんです。精子を採られたってことが、ちょっと想定外過ぎたので、頭がパニックになってしまって……」 「精子か……」  暮野は深く項垂れると、思い詰めたようにそう言った。 「あのさ、ミッションの内容、絶対に話しちゃいけないんだけど、もう俺、限界かも」 「え?」  ミッションの内容を八神に知られたら、暮野はもう二度と八神に会えないと、あの時暮野は切羽詰まった顔で言っていた。限界と感じてしまうくらいミッションの内容を心に留めておくことは、暮野にとって相当なストレスなのかもしれない。でも、あの時暮野が言った言葉が真実なら、八神はこれから、暮野の口から発せられるかもしれない言葉に耳を傾けていいのだろうか……。 「俺は明日未来に戻って、このミッションの進捗状況を報告しなきゃならない。その際に、嘘を付いていないか調べるための、リストバンドを付けられる予定なんだ」 「え? 嘘発見器みたいな物ですか? ポリグラフ鑑定みたいな?」 「まあそう。その機械、未来では更に精度が増してるらしい。怖いくらいに」  八神は疑問に思う。嘘発見器などを用いるほどのミッションとは一体何なのかと。正直気にならないと言ったら嘘になるが、ここでしつこく聞いてしまったら、暮野との別れに繋がってしまうかもしれない。 「俺が存在している未来の日本は、急速に少子化の一途を辿り、更に、それに追い打ちをかけるように、男子の精子の量と質が劇的に落ちてしまってるんだ。未来の日本の人口は、今の日本の人口の三分の一以下だよ。このまま行くと完全に日本人は絶滅の危機に瀕する。それを阻止するため、政府は過去に人員を送り、選ばれた健康な男子から精子を採取するという任務を極秘で行っている。その任務を任されたのが、俺ってわけ」 「ま、マジですか?……」 「ああ。これでもかってくらい大マジ」 「信じられない……」  八神はショックの余り、ぼんやりと一点を見つめた。すると、目の前の本棚に日本の偉人全集が並んでいる。脈絡と続いてきた日本人の歴史が、暮野のいる未来で、今まさに終焉を迎える危機に晒されているなんて、そんなこと信じられるはずがない。 「でも、どうして來さんが任務を任されたんですか? な、何で僕の精子なんですか?」  八神はそれがとても気になった。過去に何人送り込まれているか知らないが、多分自分達が出会った確率はもの凄く低いのかもしれない。だとしたらこの運命に一体どんな意味が隠されているのか。八神はそれを考えると、胸をキリキリと締め付けられるような切なさを覚える。 「AIが膨大な個人データを照合して、子孫を残せる優良な遺伝子を持った男性を探す。もちろん完全ヘテロで百歳以上長生きした人間限定。そしてその男性の精子を……俺のようなゲイが採取する……」 「ええ? ぼ、僕って、ひゃ、百歳以上も生きたんですか!?」 「ああ。そうだよ。すごい長生きだな」  暮野は嬉しそうに優しい笑顔を八神に向けた。 「え? ちょ、ちょっと待ってください。僕の遺伝子が優良って、本当に? どうしてそんなこと分かるんですか?」 「一度でも健康診断を受けてれば、水面下で遺伝子情報を検査される」  暮野は困ったような表情を作ると、優しい笑顔を八神に向けた。 「そ、そうなんだ。ち、因みに僕は誰かと結婚とかして、子どもがいたりとかあります?」 「それは……分からない。ミッションに関係ない個人情報は漏らさない約束だから」 「そうですか……」  自分が将来女性と結婚し、子どもを持つ姿が想像できない。そんな自分を想像すると、八神は何とも言えない違和感を覚える。多分暮野に出会わなかったら、自分は死ぬまで女性と付き合うこともなく、孤独な人生を歩んでいくはずだからだ。 「未来のAIはかなりハイスペックだから、間違いはないよ……でも、優弥は俺とこうなって、後悔してる?」  暮野は八神の目を見ず、俯きながら問いかけた。 「……してません。こんなに好きだって思えた相手は、來さんだけです。性別なんて気にならないくらいにです」 「そうか……」  暮野はさり気なく目じりを指で擦ると、そっと顔を上げ八神に微笑んだ。 「あの……もし僕の精子を提供することになった場合、その……将来、子ども同士がたまたま付き合っちゃうとかっていう危険性はないですか?」 「そんなことないように、ちゃんとAIが管理する。だから大丈夫」 「そうですか……あ、じゃあ、何でゲイの人がこのミッションを行うんですか?」   「男性相手のこのミッションは、女性にはリスクが高いからだよ」 「ああ、確かに……」 「ま、一番の理由は、こんなミッション誰もやりたくないだろう? 未来では子孫を残す意志のない同性愛者がひどい差別を受けているんだ。ゲイだと判明した場合、政府が決めた二十歳を過ぎた若者を、ミッション遂行のために作られた機関に連行し、そこで強制的に働かせる。俺もその中の一人だ」 「ひ、ひどい話ですね……」  八神の心に強い怒りが込み上がる。八神は差別という言葉が嫌いだ。それが人間の持つ根源的な感情なのだとしたら、八神は人間以下の動物や虫けらに生まれ変わっても平気だと思う。 「機関に連行された俺たちはまだいい方なんだよ。俺たち以外の同性愛者だと身バレした人間達は、社会的地位を失い、社会保障制度も受けられなくなる。にもかかわらず、誰もやりたくないような環境の悪い仕事を強制的にやらされる……」 「信じられない。ひどすぎる」  生きるためには手段を選べない人生など考えられない。そんな未来がこの先の日本に待っているなんて、余りにも悲しすぎる。 「以前はターゲットに薬を飲ませて、眠らせたところで精子を採取するっていう単純なやり方をしてたんだ。でも、今まで過去の男子から採取した精子を使って子どもを作ろうと思っても、上手く妊娠できなかったり、流産してしまったりで、子どもを作れないんだ。妊娠させる女性も政府が選んだ、遺伝子レベルで優秀な女性ばかりで、もちろん彼女たちの家系に同性愛者がいないかも徹底的に調べる。でも、結局それでも上手くいかないから、ついにやり方を変えたんだよ。ただ無機質に精子を採取するんじゃなく、愛のあるセックスで採取したら、精子の質に変化が見られるんじゃないかって。そんなことを考えたバカが一人……ほんと、クソみたいな計画だろう?」  暮野は眉間を指で抑えながら顔を上げると、自虐的に笑った。 「だ、だから……僕と來さんは恋愛関係になったんですね? でも、それ、無理がありませんか? だって男同士だし……それに、ターゲットを選べる権利は、來さんにはないですよね?」  あるわけがない。あったら、暮野は絶対に自分を選んでいないと、八神は自信を持って言える。 「ああ。選べない。俺以外の任務者はみんな苦労してる。しかも相手はゲイじゃないから。正直、最初は俺もこんなミッション死ぬほど嫌だったよ……でも、今はまったく後悔してない。優弥に会えたことが、俺にとって最高の幸せだから」  八神をまっすぐ見つめながら、暮野は淀みなくそう言い切った。八神はその言葉に百倍くらいの思いを上乗せして暮野に返したかった。でも、感動で胸がいっぱいで「僕もです」と震える声で言うのが精一杯だった。 「だけど、前にも言ったけど、過去の人間にはこのミッションのことを絶対知られちゃいけないんだ。だからこそ、嘘発見器みたいなのを着けられる。例えば、俺が未来からきた人間だってことが、ターゲットを介して知らないうちに誰かにばれたとする。もしその相手がテロリストだった場合どうなると思う? 様々な危機を想定してのことなんだよ」 「そうか……でも、知られてしまったら?……現に僕は知ってしまいましたよ?」 「……そうだよ。知っちゃったよ」 「……來さん?」  暮野は急に黙り込んだ。心配した八神が暮野の肩を揺さぶると、暮野は意を決したように顔を上げた。その表情は苦痛に歪んでいる。暮野は突然、まるで頭にピストルでも打つような仕草を八神にして見せた。 「ターゲットの記憶を消す。ばれた時点で即。ばれずに済んでも必ず消さなきゃならない。元々ヘテロの人間をゲイにしてしまったら、本末転倒だし……それ以上に、ターゲットの未来を変えてはいけないルールは絶対で、それを破った人間は、犯罪者になる……」  「そ、そんな……」 「明日俺は、俺が所属する機関のトップに会う。その時、ミッションを継続させてくれと懇願するよ。そしたら、もっと長く優弥といられる。俺は一分一秒でも長く優弥といたい。必死に頼むよ……だから、俺を信じて待っていて欲しい……」  記憶を消すという言葉が八神の脳内を駆け巡る。それは、暮野との思い出がすべて消えることを意味しているのなら、八神は暮野に出会う前の自分を思い出し、叫び上げたいほどの猛烈な悲しみに飲み込まれる。 「嫌だ! 嫌だ! 忘れたくない! 僕はやっと心から好きな人に出会えたんです!  やっとこんな自分のことを好きになりかけたんです! それなのに……それなのに!」  八神は涙混じりに暮野に訴える。胸が痛くて、苦しくて、ぱくぱくと声にならない声を上げ続ける。 「すまない! 一分一秒なんて嘘だ。本当は俺もずっと優弥と一緒にいたい。俺がどうにか説得するよ。優弥の記憶を消さないで済むよう、絶対になんとかする!」  暮野は八神の腕を取り引き寄せると、八神の頭を抱え耳元に強く囁いた。 「信じてくれ、俺を……」 「來さん、來さん……」  その言葉に縋るように、八神はまるで子どものように何度も頷きながら、暮野の名を呼び続けた。

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