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kureno5
臣との約束の三十分前に、暮野は臣のいる所長室の前に立つ。どうやって臣を説得するか考えていたら夕べは一睡もできなかった。落ち着きなく窪んだ目を擦りながら、暮野はゆっくり、大きくドアをノックしたが、何の反応もなかった。
「來です。失礼します」
暮野は大きな声でそう言うと、ドアノブに手を掛けた。驚いたことに部屋には鍵がかかっておらず、暮野はそのままゆっくりとドアを前に押した。不用心だと感じたが、意外と抜けている臣らしいとも思う。
室内は明かりが付いておらず薄暗かった。約束の時間より早く来てしまったからだと暮野は思い、所長室内を一応ぐるっと見渡した。部屋の中央にはモニターの本体となる楕円形の台がある。その台から今日は珍しくモニターが投影されたままになっている。多分、何かを調べている途中で臣は席を外したのだろう。暮野はモニターに近づくと、興味本位で空中に浮かぶ透明なそれに手を翳した。セキュリティー上臣の指紋にしか反応しないだろうと思いながら手を翳すと、案の定何の反応も無かった。
しかし、こんな無防備な状態で臣はどこへ行ったのだろう。機関のトップにいる人間とは思えないほどの杜撰さに、暮野はさすがに呆れてしまう。
もう一度部屋を見渡してみる。臣専用の、威厳のある横長のテーブル。その左奥にあるのは臣のプライベートルームに繋がるドア。もしかしたら昼寝でもしているのかもしれない。臣は良く二日酔いの時などに、このプライベートルームを利用すると聞いたことがある。暮野は自分が約束の時間より三十分早く来ていることなど都合良く忘れ、そのドアにゆっくりと近づいた。ドアに耳を近づけると部屋の中から物音が聞こえた。まさかこの部屋には流石に鍵がかかっているだろう思いながらドアノブに手を翳すと、予想を反しドアが開いた。小さな丸い窓と、楕円形のベッド。シャワールームのドアも部屋の床も、全体的に丸みを帯びたシルエットになっていて、それがコクーン(繭)を連想させる。しかし、ドアを開けた瞬間目に飛び込んできた光景に、暮野は腰を抜かすほど驚いた。
「あ、ああっ……いいっ、臣!」
艶やかな喘ぎ声が響く真っ昼間の情事。それも男同士。上に覆い被さっているのは臣で、その下で官能的に臣を求めているのが……まさか……まさかの!
「なっに! し、しっ、てるんですかー!!」
暮野は声をひっくり返しながら叫んだ。あまりの状況に天地がひっくり返るほど驚き、これは夢だと思い我が目を疑った。二人は、二人だけの甘い世界から我に返り、声の主である暮野に、首が引き散れんばかりの勢いで同時に振り返った。
「ら、來!! なっ、何でここにいる!!」
臣は顔面を蒼白にして叫んだ。
「何でじゃないです! 何してるんですか? 臣所長! 総理!」
臣の下で顔を覆い震えているのは、国家のドンである総理大臣。何故彼が臣に抱かれているのか、暮野は瞬時に理解できず呆然と二人を見つめた。
「やっ、約束の時間まだだろう。何なんだよ、お前は。時間守れよ!」
臣はそう叫ぶと腰にシーツを巻き付け、ベッドから飛び降りた。
「本当に呆れた人ですね。機関のトップでもあろう人が、部屋の鍵を閉めないとか、モニターは出しっぱなしとか、マジ有り得ないですよ!」
「う、うるさい! 突然できた空き時間だったんだよ! すごく貴重な逢瀬だったのに……來のせいで台無しだ!」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、臣所長。この状況かなりの異常事態ですよ。冷静になってちゃんと説明してください。お願いします!」
貴重な時間だの、逢瀬だの、突然そんなこと言われても訳が分からない。暮野は呆然と一点を見つめる総理大臣を一瞥すると「外で待ってますから」と言い放ち、部屋を出た。
しばらくして戻ってきた二人は、この世の終わりのような顔をしていた。でも、強ち嘘じゃない。子孫を残せない日本など既に終わりかけている。その終わりかけた日本を救うために奔走している二人がこんな状態なのだから、もう日本の消滅は確定したようなものではないか。
暮野。そして臣と総理大臣である秋本颯あきもと そうはソファーに向かい合って座った。この異様な空気に耐えられる人間などいるだろうか? 暮野は一年分の疲労を全身に受けたような気分で二人と対峙した。二人は、暮野の手前微妙な距離を取っているが、お互いを強く意識しているのが痛いほど分かり、暮野はひどく複雑な気持ちになる。
「……いつからなんですか? お二人の関係は」
暮野は憮然とした態度で二人に問いかけた。
「俺が所長になってしばらく経ってからだ。その間颯が首相になって、初めて顔を合わせた時、お互いにゲイだって気づいた。あの時は目の前に電流が流れたよ。びりびりって、弾けた」
臣は遠い目をしながら淡々と語り始めた。そんな臣の様子を見つめながら、暮野は今までの二人に思いを馳せる。二人の立場から考えて、愛を育んでいくのは相当な苦労があったに違いない。公務に忙殺されている総理に会える時間など皆無に等しいだろう。今日のように、少しの空き時間を狙って逢瀬を重ねることができたのは、本当に奇跡に近いのかもしれない。そして、もしこの関係が世間に知れたら、全国民からひどいバッシングを受け、あっという間に転落人生だ。それに、虐げられてきた同性愛者達は、二人に裏切り者というレッテルを貼り、ひどい暴動が起こることも考えられる。でも、そんなこと知るかというくらい、暮野も二人に対しかなり怒りを覚える。だから、自分が二人の関係を暴露してしまえばいいとさっきまで憤慨と共にそう考えていた。しかし、暮野はそれ以上に良いことを思いついたのだ。この千載一遇のチャンスを利用しない手などないのだ。
ドキドキと興奮が収まらない自分を落ち着かせながら、暮野はすうっと息を吸った。
「あの、提案があります。聞いてくれますか?」
暮野は僅かに声を震わせながらそう言った。落ち着いて考えると、総理大臣が目の前にいるという事実に腰が抜けそうになるが、そこは気合いで乗り切ろうと心に決める。
「何だ? 俺たちのこと世間にばらすんだろう? どうせ」
臣は自虐的な口調で吐き捨てるようそう言った。総理大臣の方はさっきからマネキンのように能面で静かで、綺麗な顔立ちだからこそ余計に不気味さを感じる。
「違います。あの、今日俺は、臣所長に頼みたいことがありました。それがとても頼みやすくなったということです」
「はあ? どういう意味だ」
「単刀直入に言います。俺はお二人のこと見逃します。だから、お二人も俺たちのことを見逃してください」
「……詳しく話せ」
臣は暮野の話しに食いついたのかやや前屈みに身を乗り出した。
「俺とターゲットは愛し合い、セックスをしました。でも、ターゲットに薬は効かず、そのせいで精子を採取したことがターゲットにバレました。何故こんなことをするのかと強く問われ、俺はどうせ彼の記憶を消されるのだからと思い、計画のすべてを彼に話しました。この計画は残酷です。俺たちは愛し合っているのに、結局すべてなかったことになってしまう。俺たち任務者は計画が成功するまで何度もこのミッションを行わなければならない。その都度非情にも記憶を消され、愛した人間を切り捨てていかなければならない……俺とあなた達は同じゲイなのに、どうしてこんな残酷なことができるんでしょうね……」
暮野は詰め寄るように二人の顔を交互に見つめた。意外にも暮野の問いに声を発したのは秋本の方だった。
「私も臣と同じような環境だったよ。先祖代々閣僚を務めるような家系でね。ゲイであることなど断じて許されない。臣に会うまで私は、自分の心を殺して生きてきたよ……」
「だから?」
暮野は冷たくそう言い放った。
「だから……分かってくれとは言わない。でも、ここで君たちに頑張ってもらわないと、この機関の解散は免れない。三年間が限界なんだ。この間になんとしてでも結果を出してほしい。君のような男なら、男でも恋に落ちてしまうよ。君が頼りなんだ。だから……このままこの計画を継続できるように、どうか、私たち二人のことは……黙って、いて、ほしい……」
秋本は両方の拳を太股の上で固く握りながら、まるで喉が潰されたかのような、聞いていて苦しくなるような声でそう言った。暮野はそんな秋本を冷ややかに見つめると、こう切り出した。
「じゃあ、さっきの話しに戻ります。俺はお二人の関係を絶対に口外しません。その代わり、俺と八神の記憶は消さないでください。そして、俺を今回のミッションから外し、俺を過去の世界の人間として八神と生きさせてください。それと……あなた達と同じ、同性愛者の生活を最低限保障してください。嫌だとは言わせませんよ。もし断ったら、俺は今すぐに、二人がゲイで、愛し合っていることをネットで拡散します」
「なっ!」
臣が勢いよくソファーから立ち上がった。その目は失望に満ちている。
「何ですか? 裏切り者は臣所長の方じゃないですか? 俺はあなたを信じてたのに」
「……た、確かに俺たち二人はひどいミッションをお前達に課せているよ。でも、この私の考えた計画が最後の望みなんだよ……來、愛する者の記憶を消すという残酷さを、日本のためにどうか乗り越えてほしい。お前は特別だ。このミッションには絶対に欠かせない男なんだよ。お前がいれば計画が成功するかもしれない。そしたらこの機関の存在意義が認められ、同性愛者が市民権を得られる。」
下手に出て宥めるような臣の態度が暮野には腹正しくてしょうがない。本当にこの男は基本自分が一番のお坊ちゃまで、身勝手な我儘野郎で……。
「じゃあ、自分も同じ思いをしてみたらどうですか? 今すぐこのポケットにある器械であんたの記憶を消し去ってあげますよ? 今までたくさんの人間を欺きながら、総理大臣とこそこそ愛し合ってた記憶をね」
「ら、來! お、お前って奴はっ……俺たちだって辛くない訳ないだろう! 常に周りの目を気にして、白日の下を歩けないような恋愛なのに! 今日だってこうやって会うことができたのは、本当に奇跡に近かったんだぞ!」
「そんな辛い恋愛したくないなら、地位も名誉も捨て去りゃいいんだよ!」
自分の言い分だけをぐだぐだと話す臣に、失望しながら暮野は叫んだ。図らずとも臣を信頼し、最後まで任務を遂行しようとしていた自分や仲間達のことを思うと、心底みじめな気持ちになる。
「……本当にそうだな」
秋本が呟くようにそう言った。
「私たちに勇気がなかったばっかりに……。臣。この子の気持ちになって考えれば分かることだよ。愛する者の記憶を消されるんだ。君は私との記憶を消されても平気かい?」
秋本はそう言うと、穏やかな表情で臣を見つめた。秋本に見つめられた臣は、静かに項垂れ、深い溜息をつく。秋元は暮野に顔を向けるとゆっくりと話し出した。
「分かったよ。君の交換条件を受け入れる。君が私たちのことを黙っていてくれれば、私たちは君を自由にするし、同性愛者達が人権を取り戻せるよう努力する。運良く君のターゲットは死ぬまで独身だったようだから、未来に影響はないだろうし。君は早く過去に戻ってその彼と一緒に暮らせばいい。過去ですぐ生活できるよう、君の架空の戸籍や必要な経歴などを、私の力ですべて揃えておくよ。ただ、その彼には良く忠告しておいてくれ。この計画のことを絶対に他言してはならないとね。もし約束を守れなかったら、今度こそ記憶を完全に消すと伝えてくれ」
「……分かりました。でも、総理、他言したかどうかなんて、黙っていれば分からなくないですか? 俺は八神をそんな奴じゃないって、自信を持って信じてますが」
暮野は急に不安になって秋元に問いかけた。
「これは私からの最後の命令だ。あのリストバンドを過去に持っていってほしい。そして毎月一回、それで確認し、必ず政府に報告する。その時、君が嘘を付いていないかも、そのリストバンドで確認する。あ、電池も一生分あげるよ」
「……なるほど。了解です」
暮野は真剣な顔で秋元を見つめると、二人は探り合うようにお互いの目を深く覗き合った。臣は納得できないというような顔で二人を見ていたが、寂しそうに暮野に近づくと、「さよならだな。來」と一言呟き、そっと暮野の肩を抱いた……。
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