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yagami12

 暮野には、過去の日本で行きたい場所や、やりたいことがたくさんあるらしい。未来では既に存在していない場所や、なくなってしまったシステムや娯楽などが数多くあるらしく、暮野が、このミッションの特権は本当にそれぐらいだと、ぼやくように八神に話していたことを思い出す。特に、初めて八神と食べた焼き肉の食べ放題システムは、暮野にとって最高の経験だったようだ。未来では食事に時間を割くのは愚行らしく、簡単に短時間で空腹を満たす、宇宙食のような簡易食品が主流だと聞いた。暮野は、焼き肉のような「焼きながら食べる」という経験は、正真正銘初体験で、そのおいしさに心から感動したという。  日本の未来は急ピッチに科学が今以上に進歩し、便利且つ合理的な世界が広がっているのかもしれないが、その進歩と引き替えに、何か大切な物が失われている感は否めない。衣食住というものが利便性によって薄れていくのは、何も今現在の日本も変わらない。八神だって毎日の食事を簡単に済ませているし、面倒なことを少しでも避けられる物があったら、それにすぐ飛びつくだろうし。  結局科学の進歩によって日本人は、恵まれすぎる環境を手にしたことで、潜在的に備わっているはずの動物的本能が弱まり、暮野が言ったような、子どもを作れない男性を量産するという悲劇を生んだのかもしれない。それ以外の理由ももちろんあるだろう。環境ホルモンや地球温暖化。様々な要因が複合的に絡み合い、暮野のいる未来に暗雲を立ち込めさせているのは確かだ。  暮野は未来に戻った後、二日も空けず八神に会いに来た。勤務中だった八神を呼び出すと、人気のない所まで連れて行き、いきなり八神を抱きしめ「ここにずっといられる!」と叫ぶようにそう言った。夢のように嬉しくて、二人ずっと一緒にいられることを心から喜んだ。 (こんなに上手く行って本当に大丈夫なんだろうか?)  もちろんそんな不安が八神に過ぎらない訳はない。ターゲットの記憶を消さないことや、暮野が過去で生きることで、未来に何かしらの影響を及ぼさないかなどの不安は拭いきれない。もし、後になって暮野に制裁が下されるなんてことがあったら……。八神はあの時、喜びと不安が綯い交ぜになったことを思い出す。  暮野は未来で、上の人間達と上手く話しを付けたらしく、過去で生きるための架空の戸籍や、必要な経歴などを手に入れた。どうやって話しを付けたのかを八神は敢えて聞かないし、暮野も詳しいことは何も話さない。ただ、リストバンドを象った未来の嘘発見器を付けて、八神がこの一連のミッションのことを誰にも話さないか確かめることだけは許して欲しいと言われた。もし、話したら、今度こそ記憶を消されてしまうと、暮野は苦しそうに八神にそう言った……。  そんなことは全然構わない。暮野のことを忘れるぐらいなら死んだ方がマシだと八神は思う。嘘発見器でも、電気ショックの拷問でも、暮野を忘れるぐらいなら甘んじて受け入れる。その覚悟が八神には強く、強くある。  未来に残してきた暮野の家族のことも気になった。自分がゲイだと自覚した時に、シングルマザーの母親と家出同然のような形で別れたらしい。その数年後、暮野の元に母親が病気で亡くなったという知らせが届いた。母親の死に目に会えなかったことを暮野は今でも悔やんでいる。文字通り「天涯孤独」になってしまった暮野だとしても、未来にまったく未練はないのだろうか。  暮野は過去に戻ってからすぐに就職先を探した。自分も図書館で働きたいと言い、八神が勤務する公立図書館に臨時職員として無事採用された。だから、暮野と八神は四六時中一緒にいる。ただ、余りにも二人一緒にいる時の空気が濃密すぎるため、職場の人間に自分たちの関係がバレるのは時間の問題かもしれない。  今日から暮野と八神は一緒に暮らし始める。以前、暮野が所属する秘密機関が、ミッション遂行のために借りていたマンションにそのまま住むことになった。家賃は若干高いが、二人の給料を合わせれば何とか支払っていけるぐらいの金額ではあるから、特に生活が苦しくなる程ではないだろうと考えている。 「俺、高いところが基本好きなんだと思う」  眼下に広がる景色を見ながら、暮野が改まったようにそう言った。 「確かに。二回も木登りしてたし」  八神は木登りをしている暮野を思い出しながら、少し呆れ気味にそう言った。 「気持ちがいいんだ。嫌なこと、何もかも忘れられるから」  暮野は八神を見つめると、目を細め笑った。  今の日本でも、過去の産物のような扱いのこの赤い鉄塔に、暮野はどうしても登りたいと八神を誘った。今ではもう一つの新しいタワーの方がずっと高くて人気だが、このレトロ感のある鉄塔の方が、暮野が生きていた未来では、より日本的でノスタルジックな魅力を持っているのかもしれない。実は八神もこの鉄塔に登るのは始めてで、高いところが余り好きではない八神にとって、この鉄塔に対する思い入れは正直少ないが、暮野の喜ぶ顔が見たくて、頑張って天辺まで登ったのだ。  八神は天辺の景色に若干足を震わせながらも、暮野の嬉しそうな笑顔に胸をときめかせた。 「怖いの? 足震えてない?」  暮野は心配そうと言うより、意地悪そうな顔で八神の顔を覗き込んだ。余りにも顔が近いのと、高い所にいるという心理的不安定のせいで、八神の心拍数は急にピッチを上げた。 「こ、怖くないですよ……全然」  強がったせいで、僅かに上ずる自分の声にモヤモヤしながら、八神ははあっと大きく息を吐いた。暮野の顔を近くで見るのは未だに慣れない。その男らしい美しい顔に、心があたふたと慌てふためくことに、自分がいつか慣れてしまう日が来るなんて俄に信じがたい。 「本当に? じゃあ、あの透明な床の上に立ってみようぜ」  暮野はそう言うと八神の手をひっぱり、突然大股で歩き出した。八神は強引な暮野の手に逆らうように腰を引くと、そのままぺたんと床に正座をしてしまった。そして、ふるふると首を横に振りながら、上目遣いで暮野を無言で見つめた。 「嫌なの?……ほら、やっぱり怖いんじゃん」  暮野は嬉しそうに八神の前にしゃがみ込むと、八神の頭をぽんぽんと二回叩いた。 「ごめん。びびってる八神がすんごく可愛くて、無駄にテンション上がっちゃったよ」 「うっ、ひどい……」 「強がる優弥が悪いんだろう」  その通りだとは思うが、大好きな人の前で強がる気持ちを分かって欲しいと、八神は少しだけ拗ねたい気持ちになる。 「好きだからです」 「え?」 「來さんが、凄く」 「そんなの……俺もだよ」  甘い空気が漂う。その空気の濃さに頭の血がどろどろと掻き回される感じがして、八神は掴まれている暮野の手をぎゅっと強く握った。 「そろそろ行こうか……」 「え?……何処にですか?」 「それ……聞いちゃう?」 「……え? あっ、は、い……」  窘めるような暮野の目に、八神の心臓はこれまでにないくらいどくどくと脈を打つ。八神は暮野の手に掴まり立ち上がると、二人体を寄せ合いながら地上へと戻った。

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