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kureno7

  暮野は八神の父親から聞いた話がずっと頭から離れないでいる。あの時の二人のやり取りに感動し、とても胸を打たれたのは事実だ。でも、その間暮野はあるひとつのことをずっと考え続けている。それが暮野の頭を占領し、苦しめる。  どうして八神はターゲットに選ばれたのだろう。完全ヘテロの人間をAIはターゲットに選んでいるはずなのに。身体検査では唾液も採取する。その唾液で遺伝子情報を検査し、ゲイになる遺伝子を保因していないか確認をする。ましてや父親がゲイの八神が、ゲイ遺伝子を保因していない可能性が極めて低いことは歴然としているのに。  暮野は八神の精子を未来に渡してしまったことに不安になる。もし、八神の精子で生まれた子に強い生殖能力が現れたら、ミッションは成功とされ日本は歓喜に舞うだろう。でも、その裏に、手放しでは喜べない事実が存在していることを知ったら、一体どうなるのか。 (そんなこと……ないよな)  暮野はぼそりと独り言を口にし、頭を左右に振った。このままを頭を振り続けたら、暮野を占領する不安が払拭されればいいのにと思いながら。  暮野は朝から傷んだ本の修理を任せられている。修理本の中には、背表紙の上下が傷んでいる本が圧倒的に多い。修理方法は、透明接着フィルムを使って破損部分にくるむようにして貼り付けるという単純なものだが、弛みや空気が入らないように貼るのが以外に難しい。一度貼ってしまうとやり直しがきかないので冷汗がでる。その集中力を必要とする作業に、暮野は朝から没頭できずにいる。  暮野はため息を一つ吐くと、手を止め時計を見つめた。事務室の時計はちょう十時を指していた。休憩時間までまだ二時間ある。暮野は気分転換にトイレに行こうと立ち上がり、そのついでに、今日もカウンター業務に勤しんでいる八神の様子を見に行こうと考えた。  トイレから出て、午前中は割と閑散としている管内を見渡す。利用客数はだいだい二十人ぐらいか。今日も特に変わり映えのしないいつもの光景だ。カウンターの八神はどうしても肩に力が入ってしまうらしく、いつものように固くぎこちない動きは滑稽だが、暮野にはそんな八神が飽きずに可愛くてしょうがない。  暮野は正面から軽く手を振り、自分に気づいた八神にアイコンアクトで好意を伝えた。そんな暮野の視線に耐え切れず、八神は恥ずかしそうに慌てて視線を反らすと、利用客への対応に素早く切り替えた。  暮野はさっきまでの自分の不安が、きょどっている八神の可愛さに胸がときめいたせいで、完全に忘れかけている。その時だった。 「ガタン!!」  管内に聞いたこともない大きな音が響いた。図書館と静寂はセットだと疑わないでいた自分に、一瞬、この物音は現実ではないのかと思わせるほどの異様さを与えた。暮野は驚いて音がした方に視線を向けると、カウンターに黒いスーツを着た男が数人立っている。  一人の男が八神の胸ぐらを掴み、カウンターから引きずり出そうとしている。八神は恐怖で顔を歪ませると、二十メートルくらい離れた場所にいる自分に、助けを求めるような視線を投げかけた。その男は八神の視線を辿るように後ろを振り返ると、暮野を見つけ不敵に微笑む。  暮野は目の先にいる男に愕然とする。八神の胸ぐらを掴みながら引きずるように暮野に近づいて来るのは、臣だ。臣は手にピストルを持っている。それを八神の頭に当てがう姿は、今から誰かを脅迫する準備を示している。気が付くと、暮野は臣の部下たち数人に取り囲まれていた。良く見ると、臣の部下は皆同じ顔をしたAIロボットだ。暮野は恐怖でガタガタと震える八神を見つめた瞬間、怒りが軽々と沸点に達した。 「離せ! 優弥を離せ!!」  暮野は臣に飛び掛かろうとしたが、部下たちに羽交い絞めにされそれが叶わない。 「おいっ! 何なんだよ、離せよ! 臣所長! これは一体何? 何でここにあなたがいるんですか?」  管内の利用客や、従業員たちがこの状況に驚き、暮野たちに一斉に視線を向ける。明らかに尋常じゃない状況に、皆騒然とした雰囲気で静かに固まっている。これだけの人間たちにこの状況を目撃されてしまうことを臣はどう考えているのだろうか。今ここにいるすべての人間たちの記憶を消すのは至難の業ではないのか。 「やあ、來……会いたかったよ」  臣は八神の首に腕を回すと、変わらずピストルを八神の頭にきつく押し付けながら、冷ややかにそう言った。暮野は臣の突然の行動が全く理解できず、ショックで胸が張り裂けそうになる。 「臣所長……お願いです。まずは優弥を離してください……俺に話があるんでしょう?」  暮野の感情は怒りから瞬時に悲しみへと変わった。今、目の前にいる男は自分のよく知る臣ではない。その衝撃に、暮野の喉は痞え、何とか絞り出すようにそう臣に伝えた。 「ああ。そうだ。來。お前に用があってきたんだよ。この裏切り者め……」 「裏切者? は? 何ですか、それ」 「はっ、この期に及んで白を切る気か? おい、お前の大事なこの子がどうなってもいいらしいな」 「え?、ちょ、ちょっと、待ってください! マジで話が見えない。何のことを言ってるんですか?」    怒りの形相でギリギリとピストルを八神に押し付ける臣に、暮野は八神を失う恐怖で、発狂しそうになるのを必死に食い止める。 「ま、待って、臣所長、落ち着いてください! 俺にちゃんとこの状況説明してください!」 「何を言ってやがる? お前しかいないだろう? 來。約束したじゃないか。お前がここでこの男と生きて行けるようにしたのは俺と颯だろう? それをお前は、こんな形で裏切るなんて……」  臣の部下たちが、ポケットから、臣と同じ形のピストルを取り出すと、それを周囲の人間たちに見せ脅迫し、一か所に集まれと指示を出し始めた。図書館にいる八神と暮野以外のすべての人間をフロアの一角に集めた部下たちは、いきなりそのピストルを利用客たちの頭に突きつける。 「ああ! 何するの? や、やめて!!」  八神がその光景を見て、必死に臣の手を解こうともがきながら、絶叫する。 「臣所長! やめろ!! お願いだ。何でも言うこと聞くから、お願いだから馬鹿なまねはやめろ!!」  臣は馬鹿にしたように暮野を見て笑うと、ピストルを暮野の前でユラユラと揺らした。 「安心しろ。來。これが何か忘れたか? 俺の趣味で作ったものだよ。以前見せた気がしたが?」 「はい?」 「うわあっ! やめて!!」  八神が悲鳴のような声を張り上げる。次の瞬間、臣の部下たちが手分けして一人ずつ、頭に突きつけたピストルの引き金を次々と引き始める。でも、想像していたような音も、目を覆いたくなるような惨憺たる光景もない。ピストルで撃たれた人間たちは、皆一人ずつ眠るように気を失っていく。その状況を見て、暮野はピストルの正体を瞬時に悟った。 「あ、ああ……」  八神はこの状況を飲み込めず、廃人にでもなったように脱力し、涙をポロポロと流し始めた。 「どうして……こんな……」  八神は足に力が入らないのか、臣に支えられるようにして立っている。 「重いな、おい! 手伝え」  臣が部下の一人を呼び、両側から八神を支えた。臣はピストルをまた八神の頭に突きつけ、暮野を挑むように見つめた。 「分かったろう? このピストルは小さな死だ。約束を守れなかったお前に、俺が今、この手で制裁を下す」 「待って! 臣所長。約束は守ってます。俺はあなたたちを裏切ってない!」 「じゃあ何故だ? もう日本中に知れ渡ってるんだよ。颯がゲイだということが。今、未来では大変な騒ぎなんだよ。……もう終わりだ。颯の地位も名誉も、すべて失う。俺たちが計画したこのミッションも、成功に漕ぎつく前に、破滅する」 「知れ渡ってる? どうして? 誰がそんなこと……」 「だからお前だろう! お前以外に俺たちの秘密を知ってる人間がいるか? ああ、もう我慢の限界だ。今から、この男の記憶を消す。來。お前という人間はこの男の頭からきれいさっぱり消え去る。そして、お前は未来に戻り、犯罪者として生きていくんだ」 「駄目……駄目だよ!」  八神が正気を取り戻したように、はっきりとそう口にした。 「消させない。僕は絶対に來を忘れない」  八神はそう言うと、油断していた臣と部下の腕に噛みついた。 「っつ! な、何をする!」  臣が痛さの余りピストルを床に落とした。くるくると床を転がるピストルに、八神は滑り込むように飛びつきを、それを掴む。 「おいっ、返せ!」  臣は床にまだうつ伏せでいる八神の両足を掴もうとする。八神はそれを上手くかわすと、ピストルを手に持ちながら、うつ伏せの状態から体を起こした。そして、素早く臣に近づくと、臣のこめかみ目がけてピストルを突きつける。 「打つよ。僕が……あなたも、愛する人の記憶を忘れたい?」 「ふっ、甘いな、そのピストルは私には効かないんだよ。それで消せる記憶はな、君の中の來の存在だけと設定してあるんだ」 「え?……」  八神が虚を衝かれた隙に、今度は臣が八神から素早くピストルを奪い返した。そして、部下と協力して八神を押さえつけると、また八神の頭にピストルを突きつける。 「無駄なあがきはやめておけ。さあ、始めようか……來。今度こそ俺の苦しみを思い知れ!」 「臣所長! やめろっ!!」  暮野がそう叫んだ時だった。突然フロア内に眩い閃光が煌めいた。目が潰されそうなその光に、暮野の頭は一瞬真っ白になる。 「臣、やめるんだ」  霞む視界の中にぼんやりと人影が浮かぶ。その聞き覚えのある声を、暮野は必死で思い出そうとする。 (誰だ?……この声は誰だ?) 「臣。愚かな行いはもうやめるんだ」 「……颯!」 (颯?……え? 秋元総理大臣?!)  暮野は必死で、秋元の存在を確認しようと目を凝らす。ぼんやりとしていた視界が徐々にクリアになっていくと、暮野の目の前には、総理大臣である秋元が凛として立っていた。 「皆、もうやめなさい。暮野君と、その彼から手を離しなさい。……臣。心からのお願いだ。今から私が話すことに耳を貸してくれ」 「颯……どうして……」  臣はがっくりと膝を落とすと、悲愴感に打ちひしがれたように深く項垂れた。暮野は八神の傍まで行くと、八神を強く抱きしめ、共に臣と秋元のやり取りを注視した。 「私だよ。マスコミに流したのは」 「え?」 「私が自分でゲイだということをマスコミに流したんだよ。マスコミを通した方がセンセーショナルだし、周知が早いと思ってね」 「ど、どうして……」  臣はこれでもかと目を見開くと、口元をわなわなと震わせた。 「賭をしたんだ」 「賭け?」 「そう。自分の人生を投げ打てば、成功を手に入れられるっていう、無謀な賭さ。まあ、正直言うと、楽になりたかったという方が大きいかな。ゲイだということを隠していることが、もう限界に辛かったからね……」 「……でも、颯、だからって……どうして、こんなこと……」  声にならない声を臣は発する。でも、さっきまで怒りに我を忘れた臣の醜い心が、秋元の出現によりゆっくりと解毒されていくのが分かる。 「すまない。臣、お前に断りもなく勝手な行動をして。でも、臣なら私の行動を理解してくれると思っていたからだよ。まあ、私の方が、少しだけ勇気があったということかな。なあ、臣も、カミングアウトしてくれるだろう?」  秋元は床に座り込んだままの臣に近づき、そっと手を差し伸べた。臣は俯いていた顔を上げると、その手をしばらく黙って見つめる。 「何があっても私は臣と一緒だよ。そう思えば何も怖くない。だって、もう失うものなど何もないだろう?」 「あ、あるだろう! 計画が……俺たちの計画がすべてパアになる。俺たちの夢が、終わるんだ……」 「そうだな。計画が終わってしまうかもしれないな」 「かもしれないだ? 颯! 何呑気なことを言ってるんだ? かもじゃない。もう完全に終わりなんだよ。今頃未来では大変な騒ぎだ。お前は失脚を免れないし、激しいバッシングの末、人間扱いされなくなるんだぞ! いいのか? 颯、お前はそれで!」  臣は秋元の手を叩いて振り払うと、両手で床を強く叩き始めた。 「別に構わない。臣と一緒なら平気だ。でも、まだ分からないよ。だって、私は自分の人生を生け贄に、この計画を絶対に成功させるつもりでいるからね」 「は?……どういう意味だ?」 「私はずっと待ってるんだ。もっと先の未来からの報告を」 「報告?」  臣は間抜けな顔をしながら、秋元を見つめた。 「そこにいる二人の愛の結晶だよ。臣。私は暮野君から大切な宝物を預かっているんだからね」 「え?……」  臣は弾かれたように体を起こすと、暮野と八神の顔をまじまじと見つめた。 「まだかな。そろそろ結果が出る頃なんだが……」  秋元はスーツの袖を捲ると、腕時計にちらっと視線を落とした。その時、丁度視線を落とした腕時計から、奇妙な音が鳴った。秋元は素早く腕時計を口元に持って行くと、「秋元だ」とはっきりと名乗った。 「総理! 成功です!!」  腕時計から興奮する男の声が聞こえる。「成功」という言葉の意味を、ここにいる四人の男が、一斉に頭の中で理解する静かな間が流れた。 「臣! やったよ! 成功だ。その彼の精子でついに女の子が生まれたよ! その子を始めに、未来で沢山の子が生まれているんだよ!」 「マ、マジか……」  臣はもう一度へなへなと床にへたり込むと、突然大声でわんわんと泣き始めた。大の男が、しかもあの臣が、子どもみたい泣く姿を見て暮野は唖然とした。 「來……なんか良く分かんなんけど、僕たち、やったみたいだね……」  八神が暮野の腕を痛いほど掴みながら、興奮気味にそう言った。 「ああ、やったよ……やったんだよ!!」  感動がゆっくりと暮野の心に染み渡る。暮野は八神を高く抱きかかえると、異様な状況になってしまった図書館のフロアを、歓喜の声を上げながらぐるぐると回り続けた……。

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