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第7話 INCUBUS
※事後なのでR18要素はありません。
歯型/無意識執着/喫煙
フロアの喧騒から離れた宿泊用個室のベッドに、悠と怜司は寝転がっていた。
情事の熱が冷め、くたくたに汗ばんだシーツ。
脱ぎ散らかした服は床に置かれたまま。
悠は少しだけ身体を起こして、ベッドの背もたれにクッションを立てかけ凭れこむ。
枕元に放り投げてあった煙草の箱から、一本取り出して浅く咥えた。
バンドマッチを指で弾く音がパンと響き、細い煙が夜の空気に溶けていく。
「ふう…」
怜司は悠の腰に腕を回し、目を閉じて眠りに落ちていた。規則正しい寝息が、静まり返った部屋に小さく響いている。
どうも今夜の怜司は疲れていたみたいだ。
目の下にうっすらとくまが浮かんでいるし、バーに来る時間も最近は遅い。
なにやら忙しいんだろう。
とはいえ、しっかり悠を絶頂させた上で、満足げに眠りに落ちているのだが。
バーの外で、どんな生活をしているのか、そういえばお互い知らない。
聞いたことがないのだ。聞かれたら、話すのだろうけど。
バーに入り浸っているうちに気が合って、一緒にプレイするようになって、果てにはお互いの身体で快楽を得るに至った。
劇的な出来事があったとか、一目で奪われたとか、そんなんじゃなくて…
あまりにも自然にこういう関係になった。気がする。
なるべくして成った関係を、人間界では“落ちた”というのだろうか?
悠は煙草をくゆらせながら、眠る怜司の顔をまじまじと眺める。
クールな目元。
瞼を閉じると解るが、案外睫毛は長い。
つんと高い鼻筋に、少し生意気な唇。
前髪を指でそっと上げると、眉の上に小さなほくろが現れる。
「へぇ…」
小さく呟き、唇に咥えた煙草から煙を吐き出す。
窓の外を見ると、情事中はまだキラキラと輝いていた街の明かりが、今は夜が更けてまばらになり、遠くで車の走る音が時折うるさく響くだけだ。
深夜の静けさが部屋を包み、煙草を吸う音と怜司の寝息が、かすかに耳に残る。
それから、少し身じろぐだけで大げさに鳴る衣擦れの音。
ベッドが軋む音に隠されたら聞こえない、微かな、微かな音。
この部屋に時計はない。
時間なんてこの空間に必要ない。
求めあう身体があればそれだけでいいんだから。
誰だって、時間を忘れたくてここに来る。
悠は煙草を指で摘み、灰皿に軽く叩いて灰を落とす。
怜司の口元に指先を寄せると、煙草の匂いに反応したのか、唇が微かに吸い付くように動いて面白い。
「フッ」と小さく笑い、悠はその動きをじっと見つめる。
怜司の無防備な寝顔に、どこか幼さを感じて、口端が緩んでしまう。
「寝てればこんなにかわいいのに」
煙草を咥えたまま両手で怜司の手を取り、指の形を一本ずつ確認するように眺めた。
節くれ立った関節と、荒々しくも力強い手つき。
(男だな…)
男だ。さっきまで自分の腰を掴まえて、太ももを左右に割り開き、身体中這っていた、男の手。
この手に触れられると、否応にも触れた場所が熱くなる。
――…始まりは暇つぶしだった。
好みの女の子に出会えずに、深い意味もなく怜司に対して「アンタでもいいくらいだよ」と口をついた。
きっかけはただの性欲と興味。
まあまあ、俺らインキュバスらしい、と悠は自嘲気味に思う。
悠は煙草を挟んだ指を自分の首に添わせる。
規則的に並ぶそれは、蚯蚓腫れのように指先に伝わった。
そしてふと、マスターが以前話した言葉が頭をよぎる。
『インキュバスには、マーキングする個体がいたのを知ってるかな』
少し前、怜司がいない夜に、マスターは珍しくまじめな顔をしてそう言った。
グラスを手に持ったままカウンターに凭れて。
悠が首を傾げると、マスターは指で自分の首筋を軽く叩いた。
「悠君も知ってる通り、俺たちの本来の形は、サキュバス体で人間の精を腹に奪い、インキュバスとなってソレを人間の女に注いで孕ませることなんだけどね」
そういって悠の目をのぞき込む。
「更に、気に入った個体を確実に孕ませるために、噛んでしるしをつけるやつらがいたんだ。丁度、君の首にあるようなヤツを」
マスターはそこで目を細め、悠の首に視線を落とす。
悠が無意識に首に手をやると、マスターはグラスをテーブルに置き、割れた舌をチラリと覗かせて笑った。
「マーキングした人間を執拗に毎夜犯す。孕むまで、犯す。そういう名残をいまだ残してしまう子がいるんだよ。つまり――…」
――つまり。
(怜司は俺を気に入ったってことか)
悠は眠る怜司の手を放り出し、クッションに埋もれる。
(怜司は、そのことを知らない。自分がなんでそんなことするのかを、知らない)
無意識に、意味も知らず、夢中で悠に歯を立てる。
元々噛み癖があるわけじゃない。女の子を噛んでるところは一度も見たことがない。
(我ながら…、俺もよく怜司のこと見てんだな)
怜司の寝顔を見ながら、深く吸った煙をゆっくり吐き出した。
煙草をサイドテーブルの灰皿に置くと、先端から落ちた灰がシーツに小さく散る。
指でそれを払ってから、怜司の髪を軽く撫でた。
(インキュバス同士絡んだって食事にならない。何も生み出さない)
冷めた視線で窓の外を見つめ、
(何も生まないのに、な)
と繰り返す。
セックスして、「孕ませたい」と歯型をつけたとして。
そこに生まれるものはいったいなんだ?
”何”を孕ませたい?“何“を植え付けたい…?
何度も欲望を打ち付けて、身体を重ね、そこから生まれるモノがあるとしたら…。
悠はふと手を伸ばし、怜司の鼻をつまんだ。
「んがっ」と小さく呻いて目を閉じたまま顔を歪める怜司を見て、悠はクッと笑う。
灰皿に置いた煙草を手に取り、もう一度だけ吸い煙を深く吐き出すと、火を消して怜司の頭を抱え込むように胸に抱き横たわる。
怜司の髪に鼻先を埋めると、ほんのりとミュゲの香りがする。そして消えかけのメンソールの香り。
(あ…眠れそう…)
朝の鳥が声を上げる前に。
悠は目を閉じ、怜司の寝息に耳を傾けながら眠りに落ちていく。
まだ消えない煙草の埋火が、灰皿で小さく燃える。
心の奥で消えずに残る、何かのように。
いつか、火種になる。
くすぶって、消えそうな細い糸が立ち上っていく。
精の食事にもならない、ナンセンスな執着が二人に絡みついて離れない。
でも夜毎求めあうことをやめられない。
その関係は、まだ名付けずにいたい。
部屋に漂う煙と二人分の体温が、深夜の静けさに溶け合う。
明けかけた空の下、
どこか遠くで、誰かが笑う声がした。
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