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第9話 逃避行
ネットカフェのリクライニングシートの上で、誠は眠ったのかどうかも分からないまま朝を迎えた。
首筋が固まったように痛む。人工的な空気清浄機の匂いと、隣のブースから漏れるかすかなゲームの音。ここには窓がない。今が何時で、天気がどうなのかも分からない。
それが、今の自分の世界の全てだった。
誠はゆっくりと体を起こすと、震える指でスマートフォンを操作した。電話帳から上司の名前を探し出す。数回のコールの後、相手が出た。
「……生稲です」
声がひどく掠れていた。感情というものが全て抜け落ちたような、平坦な声。
「すみません、体調不良で……。本日、休ませてください」
何かを問い返される前に、一方的に通話を切る。社会人としてあるまじき行為だった。
もう、どうでもよかった。
画面には、おびただしい数の不在着信とメッセージの通知が表示されている。そのほとんどに『鵜鷺玲二』の名前が並んでいた。
『どこにいるんですか』
『電話に出てください』
『ごめんなさい』
一通一通が重たい鎖のように、誠の心に絡みついてくる。
彼はもう、それを見ていることさえできなかった。
スマートフォンの側面にある電源ボタンを、強く、長く、押し続ける。
画面に『電源を切りますか?』という無機質な問いかけが表示された。
誠はためらわなかった。
『電源OFF』。
画面がふっと黒に染まる。
世界との繋がりが、完全に断たれた。絶対的な静寂。
誠は亡霊のような足取りでネットカフェを出た。真夏の太陽が容赦なくアスファルトを焼いている。仕事へと向かう人々の喧騒が、まるで分厚いガラスの向こう側で起きている出来事のようにひどく遠くに感じられた。
どこへ行くという当てもない。ただ、足が動くままに。
気づけば彼は、展望台があるランドマークタワーの前に立っていた。
観光客や幸せそうなカップルに紛れて無言で展望エレベーターに乗り込む。急速に上がっていく高度と共に耳がツンとする。窓の外では、東京の街並みがみるみるうちに小さくなっていった。
最上階。
展望フロアに足を踏み出した瞬間、息を呑むようなパノラマが彼の眼前に広がった。
ビルはミニチュアのように、車はおもちゃのように、人々は蟻のように小さく蠢いている。
自分がつい昨日まで、あの営みの中にいたという事実が信じられなかった。
誠は窓ガラスにそっと手のひらを押し当てた。冷たいガラスの向こう側には、どこまでも広がる青い空と海。そしてガラスに映る、自分の輪郭のぼやけた、ひどく頼りない顔。
これから、どうすればいいのか。
どこへ、行けばいいのか。
何も、分からない。
彼はただ途方に暮れていた。まるで、地上百二十三メートルの空中に取り残された、一人ぼっちの迷子のように。
◇◆◇◆◇
火曜午前四時。
玲二は一睡もできないまま、朝の気配が窓の外に滲むのをただ見ていた。
誠が、帰ってこない。
金曜の夜、ファンミーティングから戻ってきたときは話しかけてくれたのに、玲二は疲労と罪悪感からまともに応えず寝室に入った。
あの人だって落ち着いたら寝室に来るだろうと思っていた。
彼はその後もずっと居間にいて、何を話しかけても返事もなく、見向きもされなかった。
『共響』のポップアップは、今年の春から動いていたプロジェクトの最後を飾る、外せない二日間だった。
土曜に潮さんたちがどこかへ連れ出してくれ、帰ってきたときはそっぽを向かれたものの、反応があったことが嬉しかった。
日曜のイベント最終日、終了後に犀川さんが来て、誠は彼に従順で電話にも出た。
そして昨日、月曜は犀川さんとの「約束」がある会社へ出かけて行った。
玲二はイベント明けでオフだった。一週間後には懇意にしている女性デザイナーのイベントに招かれて仕事をする予定がある。
ここのところ手付かずだった写真の整理をして、夕方には食材を買いに出かけた。
マンションのエントランス前で僕のファンだという子たちにセルフィーを求められたけれど、対応する余裕がなく忙しいからと断ってしまった。
かなりぶっきらぼうになったはずだ。今の僕はインフルエンサーU-sagiにはなれない。誠のことで頭がいっぱいだった。
部屋に戻っても明かりは消えたままで、「ただいま」という言葉は虚しく消えた。
最初は気持ちが不安定だから、また潮さんたちと飲みに行っているのだろうと思っていた。深夜零時を過ぎても、玄関のドアが開く音はしない。
電話をしても、電源が入っていない。
連絡もない。
メッセージアプリも、既読にならない。
焦りがじわじわと胸を蝕んでいく。
何度電話をかけても聞こえてくるのは、『おかけになった電話は電源が入っておりません』という無機質で冷たいアナウンスだけ。その機械的な音声が、まるで自分たちの関係への「拒絶」を宣告されているようで、玲二は何度も意味もなく通話ボタンを押し続けた。
先週の金曜日、彼もこんな風に不安だったのだろうか。
やがて夜が白み始め、残酷なほど穏やかな朝の光が部屋の様子を照らし出す。
テーブルの上には、誠が昨日の朝飲みかけてそのままにした、冷たいコーヒーの入ったマグカップ。
寝室を覗けば、きれいに整えられたままの空のベッド。
家の全てのものが、彼の不在を、そして自分が犯した過ちの取り返しのつかないほどの大きさを、静かに、雄弁に物語っていた。
玲二はソファに崩れ落ちる。
金曜の、自分の言葉が頭の中で何度も再生される。
『あなたとは、違う』
あの人の傷ついた瞳。絶望の色。
(僕の、せいだ……)
後悔が黒い奔流となって、彼の心を飲み込んでいく。
(僕が、あの人の優しさに甘えきって、あの人を傷つけたからだ)
(僕が、自分の弱さから目を逸らして、抱えきれないほどの荷物を全部あの人に背負わせていたからだ)
(僕が、誠さんを追い詰めたんだ……!)
そのどうしようもない真実にたどり着いた瞬間、玲二の瞳から熱い涙がぽろぽろと零れ落ちた。
後悔と恐怖で張り裂けそうになっていた、その時。けたたましい携帯の着信音が、静寂を引き裂いた。画面に表示されたのは、『潮』――誠の、たった一人の親友の名前だった。
「……もしもし」
『おい鵜鷺! お前、誠と連絡取れたのか!?』
電話の向こうから聞こえてきたのは、怒りと、そして隠しきれない不安に満ちた焦った声だった。
『あいつ、今朝会社に「体調不良で休む」って連絡してきたらしいぞ!昨日からずっと様子がおかしかったんだ! お前、何か知らないのか!?』
何か、知らないのか。その言葉が玲二の罪悪感を抉る。心臓が氷水に浸されたように冷たくなっていく。
「ぼ、僕も、探してるんです。あの、急いでるんで……失礼します」
それだけ言って電話を切った。もう立っていられなくなり、冷たいフローリングの上へと崩れ落ちる。
(限界だったんだ。誠さんは、ずっと限界だったんだ。突然こんなことになったんじゃない。僕が、苦しめてたんだ。あの人を。ちゃんと、考えなくちゃ)
脳裏に犀川の言葉が呪いのように反響する。
『その原因については、パートナーであるあなたのほうが、私よりもよくご存知なのでは?』
そして『PIRO』のコールに出て安堵を浮かべた誠の表情が浮かんだ瞬間、息を呑んだ肺が、きしむように痛んだ。
(犀川さんが、僕より先に彼を見つけたら? そんなことになったら、もう…)
(僕が、先に見つけないと。あの人を僕が見つける。そうしないと)
玲二はもつれる足でアパートを飛び出した。
追い越していく車のヘッドライトが涙で滲んで見える。ただ誠の元へ、一秒でも早く。その一心だけが彼を動かしていた。
(どこへ?どこに行けば、あの人に会える?)
彼は誰かに頼るのが下手な人だ。一人で全部を抱え込む人だ。思い悩んだ時、彼はどうしていた? 僕たちの家では、いつも街を見下ろせる大きな窓辺に立つのが好きだった。そうだ、高い場所…!
「タクシー!」
祈るような気持ちで流しのタクシーに飛び乗り、街で一番有名な電波塔の名前を告げた。
「運転手さん、もっと速く!お願いします!」
窓の外を、見慣れた東京の街並みが猛烈な速さで後ろへと過ぎ去っていく。ようやく辿り着いた展望台に、彼の姿はなかった。
「はぁ、はぁっ…!」
玲二は再びタクシーを拾う。次は、最近できたばかりの都庁の隣の超高層ビル。あそこの最上階にあるバーの話を、誠がしていた気がする。
そこにも、彼はいなかった。
焦りと絶望で心臓が潰れそうになる。また別のタクシーに乗り込み行き先も告げられないまま、玲二は後部座席に深く身を沈めた。流れていく夜景を見つめるうちに、玲二の脳裏に、忘れていたはずの何でもない日常の記憶が、次々と断片的に蘇ってきた。
それは、この狂おしいほどの絶望の中で見つけた、唯一の道標だった。
あれは、二人で暮らし始めてすぐの頃。インテリアショップで、色違いのマグカップを手に子供のようにはしゃいだ日。
『色違いにしますか?』と僕が聞くと、あの人は少し照れくさそうに、『いや、同じのでいい』と、僕と同じ濃い青色のカップを手に取った。
洗面台に並んだお揃いの歯ブラシと、お揃いのカップ。一緒に暮らす。それが、二人が「家族」になったと思える、最初の証だった。
僕が徹夜で写真の編集に根を詰めていると、何も言わずにそっとマグカップを置いてくれるのも、いつもあの人だった。
カップから立ち上る、蜂蜜の甘い香りがするホットミルク。
『無理すんなよ』
その、ぶっきらぼうで、どうしようもなく優しい声。
僕が新しい写真をSNSに投稿すると、いつだって一番に「いいね」をくれるのも、あの人だった。
『この一枚、いいな。被写体への、お前の優しさが出てる』
彼は決してただ褒めるだけじゃない。僕の写真の、その奥にある、僕自身でさえ気づいていないような本質をいつも見抜いて言葉にしてくれた。
そして、何より…。
どんなに疲れて帰ってきても、どんなに喧-嘩をした日の後でも。
僕が玄関のドアを開けると、あの人はいつもリビングから顔を上げて、少しだけ安堵したように、穏やかに笑ってくれた。
『おかえり、玲二』
(…そうだ。あの人は、いつだって僕の『帰る場所』だったんだ)
(あんなに、あんなに温かい場所を、僕が。僕自身の手で、壊してしまったんだ…!)
「…っ、う…」
込み上げる嗚咽を、玲二は拳を握りしめて必死に堪える。
タクシーが急ブレーキと共に、タワーのエントランスに停まった。
(お願いだから、ここにいてくれ…!)
玲二は、お釣りも受け取らずにほとんど転がり落ちるようにして、展望台へと続くエレベーターホールへと走った。
息を切らし、観光客たちをかき分けるようにして展望フロアにたどり着く。そして、人垣の向こう、一番遠い窓のそばに、その姿を見つけた。
「……誠さんっ!」
玲二は叫びながら駆け寄った。
そこにいたのは、玲二の知っている誠ではなかった。街を見下ろしているようで、その瞳には何も映っていない。感情というものが全て抜け落ちた、魂の抜け殻のようだった。
「誠さん……! ごめんなさい、僕のせいです。本当に、ごめんなさい……っ」
玲二は泣きながら誠の腕にすがりついた。誠は、何の反応も示さない。その虚ろな瞳が、何よりも玲二を恐怖させた。
言葉は、もう届かない。謝罪も、後悔も、もう意味がない。
その瞬間、玲二の中で何かがぷつりと切れた。
彼は泣くのをやめた。瞳に、涙とは違う、燃えるような決意の光が宿る。
(もういい。僕が、インフルエンサーの『理想』を守ろうとしたせいで、この人をこんな目に合わせたんだ。スポンサーのためでも、ファンの機嫌のためでもない。僕は、僕の撮りたいものを、一番大切な人に見せたくてカメラを持ったはずだ。その一番大切なものを壊してしまうなら、他のすべてに価値なんかない)
玲二は、誠の冷えきった手を、両手で力強く掴んだ。
「もう、いいんです。全部」
それは、命令に似た強い響きだった。
「いきますよ。誠さん」
玲二は、呆然とする誠の腕を引き、エレベーターホールへと力強く歩き始めた。
「僕が、あなたをどこにも行かせませんから」
身体をこわばらせはしても、抵抗する力も残っていないらしい誠を、玲二はエレベーターに乗せる。閉じていくドアの向こうで、二人が捨てたきらびやかな東京の夜景が急速に遠ざかっていく。
二人の、全てをゼロにするための逃避行が、今、始まった。
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