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第10話 告解
『UNFILTERED LOVE』「告解」
玲二が借りてきた車の助手席で、誠は、美しい彫像のように、ただ窓の外を眺めていた。その瞳が、流れていく高速道路の光を捉えているのかどうか、玲二には分からない。 車内には、エンジンの低い唸りと、時折、誠が浅く息をつく音だけが響いていた。
玲二は、逸る気持ちを抑え、ただ、ひたすらにハンドルを握った。
目指すのは、都会の喧騒から完全に断絶された、奥多摩の山中に佇む、川沿いの温泉宿。かつて、誠が「いつか、何もかも忘れて、あそこで一週間くらい過ごしてみたいな」と、冗談めかして言っていた場所だ。
何時間、走っただろうか。 アスファルトの道は、やがて木々の匂いが濃い、舗装されていない小道へと変わった。車のライトに照らされた、せせらぎと、風に揺れる木々の葉。ここにはもう、二人を追い詰めた世界の音は、何も聞こえない。
宿に着き、離れの部屋に通されても、誠は、玲二の言葉に従うだけの、人形のようだった。 玲二は、そんな誠を、まず、部屋付きの露天風呂へと促した。熱い湯が、彼の凍りついた心を、少しでも溶かしてくれるように、と祈りながら。
誠が風呂に入っている間、玲二は部屋の囲炉裏に、静かに火をおこした。パチパチと、炭の爆ぜる音が、部屋の沈黙を優しく満たしていく。 やがて、浴衣姿の誠が、部屋に戻ってきた。
その頬は、湯気で、ほんのりと赤みを帯びている。虚ろだった瞳に、囲炉裏の炎が、小さな光として映り込んでいた。
玲二は、温かいお茶を、彼の前にそっと差し出す。
そして、誠の心が、ほんの少しだけ、外界からの言葉を受け入れる準備ができたのを、玲二は見極めた。彼は、もう逃げないと固く決意して、口を開いた。
「誠さん…」
涙で濡れた顔を上げた玲二は、最後の告白をする覚悟を決めた。
「僕が、あなたとの関係を頑なに隠してきたのは…僕の弱さのせいだけじゃないんです」
「……」
「覚えてますか? 一年半前の、嘉納さんの個展……。潮さんが来た時にファンの方に、写真を頼まれた時のこと」
誠の瞳が、わずかに揺れる。
玲二は、続ける。
「あの時、ファンが撮ったセルフィーに、僕を見る誠さんの顔が、小さく写り込んでたんです。あの写真、『目がガチすぎる』って騒がれて、一部のファンの間で、ずっと……ずっと、ネットの片隅に残り続けてたんです」
玲二の声が、震える。
「誠さんがストーカーだって言われ始めた、きっかけは…多分、あれときの写真なんです。僕のせいで……僕に向けられたあなたの優しい目が、過激なファンの悪意の的になって……あなたは、あの時からずっと……晒されてた」
ごめんなさい、と玲二は続けた。
「僕は、それに気づいてたのに…。本当のことをいうことでさらにあなたが危険な目に遭うのかもしれないと思うと、怖くて、何も言えなかった。どう説明すればいいかわからなくて、ただあなたを隠すことしかできなくて…。本当に、ごめんなさい……っ」
誠は、言葉を失った。
「僕がインフルエンサーとして名をはせる前に、はじめて炎上を経験したことがあるんです。それは、僕が撮りたいと思って撮った写真でした。」
──
それは、インフルエンサー『U-sagi』が、まだ何者でもなかった頃の話だ。
フォロワーは数千人。マイクロインフルエンサーだった玲二は、自分の写真家としての可能性を試すため、なけなしの貯金をはたいて、初めてのヨーロッパ一人旅に出ていた。
彼が投稿するのは、派手な自撮りでも、有名な観光地でもない。石畳の路地に差し込む朝の光や、市場で働く老人の深い皺。そんな、旅の中で見つけた、名のない、愛おしいきらめきだけだった。フォロワーは少なくても、その一人ひとりが、異国の地で奮闘する自分を応援してくれる、大切な仲間だった。
その日、エーゲ海に浮かぶ小さな島の断崖で、玲二は生涯忘れられないほどの美しい夕焼けに出会った。
白い家々がオレンジに染まり、空と海が燃えるような紫と金色に混じり合っていく。まるで世界が終わる前の、最後の絶景。玲二は、寒さも忘れ、夢中でシャッターを切り続けた。
「すごい……」
安宿に戻り、小さな机の上でPCを開いても、興奮は収まらない。あの時、自分の目で見た燃えるような色彩の感動を、日本にいる仲間たちに、どうすれば伝えられるだろう。彼は、ほんの少しだけ、写真の彩度を上げた。現実を偽るためじゃない。あの時、自分の魂が震えた「記憶の中の色」に近づけるための、ほんの少しの魔法だった。
『空が燃えた日』
そんな言葉を添えて投稿すると、すぐに日本から、温かい反応が返ってきた。
『すごく綺麗!』
『ヨーロッパからの素敵な景色、ありがとうございます』
『U-sagiさんの写真を見ると、世界が輝いて見えます』
玲二は、異国の固いベッドの上で携帯を握りしめ、一つ一つのコメントに返信しながら、胸が温かくなるのを感じていた。この繋がりが、孤独な旅の中の、唯一の支えだった。
――異変は、現地の深夜に起きた。
一件の辛辣なコメントが、その温かい空間に氷水をぶちまけた。
『これ、加工しすぎじゃない?空ってこんな色にならないでしょ。人を騙してまで「いいね」が欲しいの?』
その一言が、狼煙だった。
堰を切ったように、日本からの批判のコメントが殺到し始める。
『フォトショ乙』
『こういうフェイク写真のせいで、真面目にやってるカメラマンが迷惑するんだよ』
『どうせイケメンなのも加工なんでしょw』
議論は、いつしか写真の是非から、玲二の人格攻撃へと変わっていた。そして、何よりも彼の心を抉ったのは、昨日まで応援してくれていたはずのファンからの言葉だった。
『がっかりしました。もっと誠実な人だと思ってたのに』
『純粋な写真が好きだったのに……。フォロー外します』
『裏切られた気分です』
手のひらを返す、という言葉は、これほど冷たくて鋭いのか。
通知が鳴り止まない携帯は、もはや悪意を吐き出す呪いの箱になっていた。
玲二は、見知らぬ安宿の部屋で明かりもつけず、ベッドの隅で膝を抱えて震える。窓の外では、陽気な外国語の歌声が聞こえてきていた。だけど、彼の世界は、この小さな携帯の画面の中に閉じ込められていた。助けを呼べる人間は、ここには誰もいない。
ただ、綺麗なものを綺麗だって、伝えたかっただけなのに。
僕の何が、いけなかったんだろう。
その夜を境に、玲二は変わった。
自分の「好き」を、ありのままに表現することが怖くなった。「がっかりさせたくない」「嫌われたくない」という強迫観念が、彼の心に重くのしかかる。
彼は、ファンが求める『理想のU-sagi』という仮面を被ることを選んだ。そして、素顔の自分も、本当に大切なものも、その仮面の下に隠して、鍵をかけるようになった。
エーゲ海に沈んだ、あの燃えるように美しかった夕焼けは、玲二にとって、異国の地で心を焼かれた、どうしようもなく孤独なトラウマの色として、深く、深く刻みつけられてしまったのだった。
───
「僕はそれ以来、語句が撮りたくて撮った写真をSNSに投稿しなくなりました。もちろん、プロになるために始めたことですから、撮りだめていますけど、インフルエンサーの『U-sagi』としては、あなたの写真を、あの時みたいに悪く言われるのを見るのは堪らない」
点と点が、線になる。なぜ、玲二がSNSでの写真にあれほど神経質だったのか。なぜ、関係を隠すことに、あそこまで必死だったのか。 それは、彼を守るためだった。彼自身の弱さもあっただろう。だけど、紛れもなく、自分に向けられる悪意から、誠を守ろうとしていたのだ。そして、その罪悪感に、一人でずっと苛まれてきたのだ。
怒りなど、どこにも湧いてこなかった。ただ、愛しさと、切なさが、胸を締め付ける。
誠は、泣きじゃくる恋人を、今度こそ、迷いなく、力強く抱きしめた。
「『惚れバレ』ってやつな、あれはお前のせいじゃねえよ」
誠の声は、穏やかだった。
「俺が、だらしな~く惚れた顔を玲二に向けてた。それが写ってた。それだけだろ」
「でも……!」
「それより、俺のほうこそ悪かった。玲二ちゃんが、一人でそんなことまで抱えてたなんてな。気づいてやれなくて、悪かったのは、俺の方だ」
許し、赦される。 全ての嘘と秘密が洗い流された夜。二人の絆は、もはや誰にも壊せないほど、強く、深く、結び直されていた。
◇◆◇◆◇
夜。
外は、全てを洗い流すかのように、激しい雨が降っていた。 古民家宿の離れ。囲炉裏の柔らかな火が、向かい合って座る二人の顔を照らしている。長い沈黙を破ったのは、玲二だった。
ファンの賞賛が、一夜にして憎悪に変わる恐怖。それ以来、彼は「ファンをがっかりさせてはいけない」という強迫観念に囚われてしまったこと。
そして、活動を続けるうちに増えていったスポンサーたち。彼らの期待と、契約書に書かれた「クリーンなイメージ」という見えない檻。誠との関係を公にすれば、ファンも、スポンサーも、全てを失ってしまうかもしれないという恐怖に、ずっと苛まれていたこと。
「あなたを守りたかったのは、本当です。でも、それと同じくらい…自分が傷つくのが、怖かった……。本当に、ごめんなさい…」
全てを聞き終えた誠は、静かに言った。
「……そうか。お前、ずっと、そんなもんと一人で戦ってたのか」
その声には、怒りも、失望もなかった。ただ、愛する人が独りで抱えていた痛みを、ようやく理解した、深い優しさだけがあった。
その優しさに、玲二は涙が溢れた。
誠は優しい。その優しさが、今はあまりにも、まぶしかった。
(僕は、この人を失うかもしれない。でも──)
玲二は、震えて挫けそうになる気持ちを奮い立たせた。これ以上、誠に隠し事を続けたら、この人と一緒にいる資格なんかない。
(懺悔を、しなければならない)
玲二の顔は、まだ苦悶に歪んでいる。最も重く、醜い罪が、まだ胸の奥に突き刺さっていた。
「誠さん……まだ、あります。僕が、あなたに謝らなければいけない、最低の過ちが……」
玲二は、ファンミーティングの後の、あの朝帰りの夜のことを、全て告白した。
誠との喧選挙で自暴自棄になっていたこと。
ファンミーティングを終えてから軽く食事の席が設けられたこと。
その時隣にいた『共響』のポップアップイベント会場の空間デザイナーの女性に誘われるままにバーへ行き、雰囲気のまま、キスをしてしまったこと。
そして、その瞬間に、相手が誠ではないことに絶望し、自分が本当に愛しているのは誠だけだと、愚かにも思い知らされたこと。
だから、帰宅後に罪悪感に苛まれて、ひどい対応をしたこと。
その罪悪感を引きずって、誠と、まっすぐ向き合うことさえできなかったこと。
「……最低なことをしました。どんなに軽蔑されても、当然です。本当に…ごめ なさい…っ」
玲二は、もう、その場に立っていることさえできず、膝から崩れ落ちると、囲炉裏の間の冷たい畳に、額をこすりつけた。子供のように、ただ、声を上げて泣いた。
誠は、言葉を失っていた。
全身の血が、急速に冷えていく。怒りと、裏切られた痛みで、頭が真っ白になる。
けれど、目の前で、許しを乞うように、小さくなって泣きじゃくる恋人の姿が、いやでも目に映る。
(…違うな)
誠は、自分に言い聞かせた。
(ずっと、この話題から逃げていたのは、俺も同じだ)
あの日、午前4時に帰ってきた玲二の体から、酒の匂いと、そして、自分の知らない、甘い香水の移り香がした時。誠は、確かに、女の影を感じていた。
だから、誰といたのかを聞いたのだ。それなのに、玲二は答えなかった。
あの時から、誠は、玲二の心が、もうここにはないのだと、その恐怖に、ずっと身をすくませていたのだ。
交際の初めの頃、考えたことがある。玲二が、いつか、女性と本当の恋をする日が来るかもしれない、と。そうなったら、黙って身を引こうと、そう、決めていたはずだった。
それなのに。
あの香水の匂いに気づいた瞬間、誠の心を支配したのは、諦めではなく、もっと、どうしようもなく、原始的な感情だった。
(いやだ。別れたくない)
でも、玲二の気持ちが離れてしまったのなら、残酷な真実を、彼の口から直接聞かされてしまったら、今度こそ、本当に終わってしまう。
それが怖くて、何も聞けなくなった。何も、言えなくなった。
仕事も、対話も、何もかも、身がすくんで、心が沈んで、世界が、遠くなったのだ。
長い、長い沈黙の後、誠は、震える声で言った。
「…顔を、上げろよ、玲二」
そして、続けた。
「人のこと、言えねえんだよ。俺も」
「え…?」
玲二が、涙に濡れた顔を上げる。誠は、囲炉裏の、揺れる炎を見つめたまま、静かに語り始めた。
「俺が、会社に行った日…。ピロに……犀川に、ヨーロッパのでかいプロジェクトに誘われた。ここじゃない、新しい世界で、もう一度やり直さないかってな」
「……」
「それに…プライベートも、って。正直…ぐらっときた」
誠は、そこで初めて、玲二の目を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳には、彼自身の、隠していた弱さが、痛々しいほど、誠実に映っていた。
「お前に拒絶されて、会社でも針の筵で…もう全部捨てて、あいつと逃げちまおうかって、一瞬でも、考えちまったのは、事実だ」
そして、彼は、自嘲するように、小さく笑った。
「…人間、本当に弱ってると、馬鹿な考えが浮かぶもんなんだよ。お前も、俺もな」
玲二は、愕然としていた。
(もし、誠さんが、僕を許せなくて、あの人を選んでしまったら…?)
それは、考えただけで、全身の血が凍りつくような、本当の絶望だった。
「…それで、どうする?」
誠の、静かな声が、玲二に問いかける。
「え……」
「俺もお前も、これから、別の相手を探すのか、どうかって話だよ。そういう話をするために、お前は、俺をここに連れて来たんだろ。…お前は、どうしたいんだ」
その、あまりに現実的で、残酷な問いに、玲二の心臓は、早鐘を打ち始めた。
目の前の、この人は。僕が、あの夜、一瞬の気の迷いで他の誰かに慰めを求めようとしたように。この人も、絶望の淵で、一瞬だけ、楽な道へと逃げることを考えていたんだ。
「ば、僕は…!」
玲二は、必死に言葉を紡いだ。
「あの夜、彼女と、キスはしました。でも、あなたじゃないから、ダメだった…!その先は、何もない。彼女には、僕には、あなたという、大事な人がいることを話して、謝って、それで、家に帰ったんです…!あなたとは、違うんですか」
玲二は、懇願するように、誠の唇を凝視した。
(お願いだから、僕のために、踏みとどまってくれたって、そう言って…!)
「…踏みとどまったかどうかと、お前と俺が、これからどうなるかってのは、別の問題だろ」
誠の言葉は、非情だった。
「言えよ。どうしたいのか。俺が、お前に聞いてんだ。質問で返すな」
玲-二は、息をのんだ。喉が、鉛を飲んだように痛い。
(答えなければ、話は進まない。この人が、別れると決めていたとしても、僕は、僕の気持ちを、全部、話すしかないんだ)
深呼吸をする。誠は何と言った?
『正直…ぐらっときた』
そうだ。彼は、そう言った。それなら、この人は、踏みとどまってくれたんだ。そう信じたい。いや、信じるしかない。
この、誰よりも強いと思っていた人も、自分と同じように、弱さに負けそうになって、たった一人で、その誘惑と戦ってくれていたのだ。
玲二は、ゆっくりと顔を上げた。そして、最後の真実を、最後の切り札を、差し出すように、震える手で携帯を手に取った。
「誠さん…。僕は、あなたを、ずっと隠してきた。そんな過ちを犯して、あなたを追い詰めた。けど…これだけは、ずっと、僕の中にあった宝物でした。…見てもらえますか」
玲二は、インスタグラムの「下書きフォルダ」を、誠の前に、そっと差し出した。
誠は、息を呑んだ。そこに広がっていたのは、三年間という、二人が過ごしてきた時間の全てが凝縮された、秘密の画廊だった。
一枚一枚が、玲二が、ただの「誠を愛する玲二」として、撮りためてきた、愛の記録。
「これが、あなたとの三年間、僕が撮った、僕の作品です」
玲二の声が、静かに響く。
「あなたと一緒にいる時間以外は、これを撮っている時間だけが、僕が、本当の僕でいられた時間でした。…僕は、あなたと、いたい。何を置いても、あなたが一番大事だって、思い知ったんです」
誠の心が、その健気な愛の証に、強く締め付けられる。
「だから、もう、嘘で固めた『U-sagi』は、やめます。ファンとか、スポンサーとか…そのために、あなたという僕の宝物を隠し続けるのは、もう、嫌なんです」
玲二は、誠の手を、祈るように、強く握りしめた。
「あなたさえ隣にいてくれれば、他に何もいりません。あなたが、僕の全てだから」
そして、彼は、悲壮な覚悟を込めて、宣言した。
「僕、あなた以外の全部を、捨てます。…この仕事、全部」
誠は、その、あまりに純粋で、自己犠牲的な決意に、ゆっくりと首を横に振った。
その瞳には、呆れと、そして、どうしようもないほどの愛しさが浮かんでいた。
「だめだ。そんなの、俺が納得できねえ」
「え……」
誠は、玲二の手を握り返すと、その目を真っ直ぐに見つめた。
「……いいか、玲二。やめるなんて、一番つまんねえ逃げ方だ。やるなら、もっとデカい賭けをしようぜ」
彼の瞳には、プロデューサーの鋭い光が宿る。
「賭けですか?」
「ああ。」
誠は、不敵に笑う。
「お前が本当に撮りたい写真と、俺たちが歩んできた、このどうしようもなかった三年間。そして、世間が勝手に作り上げた、俺たちのデタラメな物語。お前が一人で抱え込んできた、理不尽なこと。その全部を、俺たちの手でひっくり返しに行くぞ」
「え……」
「俺が、お前を本物のアーティストにしてやる。だから、その写真、全部俺にくれ」
玲二は、息を呑んだ。
誠の、プロデューサーとしての、そして、一人の男としての、あまりに力強い宣言。
玲二は、ただ、涙を流しながら、何度も頷くことしかできなかった。
誠は、そんな玲二の濡れた頬を、不器用な手つきで、そっと拭う。そして、まるで、ずっと言えずに胸に溜めていた独り言を、吐き出すように、静かに語り始めた。
「…俺、ずっと、お前に言ってやりたかったんだと思う。…いや、今、話しながら、自分でも、はっきり気づいた」
「え…」
「『いい加減にしろ』って。『ファンやスポンサーの顔色ばっかり見てんじゃねえ』って。『お前の作品は、そんな安っぽいもんじゃねえだろ』ってな。…ずっと、そう言いたかったんだ」
誠の瞳が、囲炉裏の炎を映して、痛々しく揺れる。
「だけど、言えなかった。お前を信じてたからだ。…いや、違うな。信じすぎてたんだ」
「……」
「お前の才能を、お前の誠実さを。いつか、お前は自分で気づいて、自分で壁を乗り越えるはずだって。そう、勝手に信じ込んでた。だから、なんにもしねえで、ただ黙って、待ってた」
誠は、自嘲するように、ふっと息を吐いた。
「その結果が、このざまだ。俺は、勝手にお前に期待して、勝手に焦れて…勝手に壊れちまった。お前がやりたいこと、まだやれてないって俺は知ってたのに、なんもしねえでただ待って、お前が間違った方向に進んでくのをやっかみながらみてただけだった」
誠は、玲二の、涙で濡れた瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
そして、三年間、ずっと言えなかった、もう一つの告白を、口にした。
「だから、これは、俺の過ちだ。…玲二、信じすぎてて、ゴメン」
その、あまりに優しく、そして、あまりに残酷な謝罪の言葉に、玲二の心は、完全に張り裂けた。
「……ひどい、です…誠さん…」
違う、違うんだ。
「違う…!謝るのは、僕の方です…!僕のほうこそ、信じてくれてたのに、甘えてばかりで、ごめんなさい…!」
玲二は、誠の胸に、すがるように額を押し付けた。
「あなたの、その信頼に、僕は、ずっと甘えてたんだ…!あなたが、僕に期待してくれてるって、本当は、分かってたのに!怖くて、逃げて…あなたの優しさの上にあぐらをかいて、あなたを、一人で、こんな風になるまで、待たせてしまって…。本当に、ごめんなさい…!」
罪の告白。そして、赦し。
誠が、玲二の過ちを受け入れたように。
玲二も、誠の、不器用すぎるほどの愛情と、その過ちを受け止めた。
二人は、どちらからともなく、互いの傷を確かめ合うように、強く、強く、抱きしめ合った。
この人は…。僕が犯した、最低の過ちすらも、罰するのではなく、僕たちが再生するための力に変えようとしているのか。
ただ、許されただけじゃない。信じて、くれたんだ。僕の弱さも、過ちも、その奥にある、写真への想いも、全て。その絶対的な信頼が、壊れかけていた二人の心を、以前よりも遥かに強く、深く、結びつけていくのを、玲二は確かに感じていた。
その瞬間、玲二の瞳から、熱い雫が、とめどなく溢れ出した。 それはもう、絶望や罪悪感の涙ではなかった。この、どうしようもなく不器用で、誰よりも強い光をくれる人となら、どこへだって行ける。何だってできる。 熱い、希望の涙だった。
もう、言葉はいらなかった。
三年間という、長く、そして、少しだけ間違ってしまった道のりの果てに。
二人は、ようやく、本当の意味で、同じ場所に立つことができたのだから。
全ての告白と、涙が終わった後。
部屋には、囲炉裏の炭が、静かに爆ぜる音と、窓の外の、優しい雨音だけが響いていた。
長く、張り詰めていた緊張の糸が、ようやく解けて、穏やかで、少しだけ気まずい沈黙が、二人を包んでいた。
先に動いたのは、玲二だった。
彼は、そっと立ち上がると、部屋の隅に用意されていた布団を、静かな手つきで、二組、隣り合わせに敷き始めた。
それは、言葉にできない問いかけ。そして、無言の招待状だった。
誠は、ただ、黙って、その姿を見つめている。その瞳には、まだ、ほんの少しの戸惑いと、怯えの色が残っていた。
布団を敷き終えた玲二は、誠の前に、静かに、膝をついた。
そして、その、傷ついた瞳を、まっすぐに見つめ返す。
「誠さん…」
玲二の声が、震えた。
「…触れても、いいですか?」
それは、懇願だった。
自分の犯した過ちで、この人を、深く傷つけた。その手で、もう一度、この人に触れる資格が、自分にあるのか。その、最後の許しを、彼は乞うていた。
誠は、何も言わなかった。
ゆっくりと、瞬きを一つすると、その頬を、玲二の差し伸べた手のひらに、そっと、預けた。
それは、声にならない、肯定の言葉。
玲二の指先から、誠の、確かな体温が伝わってくる。
玲二は、その頬を、慈しむように、壊れ物を扱うかのように、そっと撫でた。そして、導かれるように、顔を寄せ、その唇に、自分の唇を、優しく重ねた。
それは、情熱的で激しいキスではなかった。
互いの存在を確かめ合うような、互いの体温で心の芯まで溶かしあうかように、ゆっくりと熱を灯す、赦しのキスだった。
言葉は、もう必要なかった。
ただ、肌を重ね、互いの温もりを確かめ、失われた時間と、壊れてしまった信頼を、一番、原始的で、誠実な方法で、一つひとつ、繋ぎ直していく。
そんな二人を月明りだけがみていた。
翌日、水曜日の朝。
雨は、すっかり上がっていた。
障子窓から差し込む、柔らかな朝の光の中で、玲二は、先に目を覚ました。
腕の中では、誠が、ここ数日、見たこともないほど、穏やかな顔で、寝息を立てている。
眉間に刻まれていた深い皺は消え、その表情は、まるで、子供のように、無防備だった。
(…ああ、よかった)
玲二の瞳から、一筋の涙が、静かにこぼれ落ちた。
その時、誠の瞼が、かすかに震え、ゆっくりと開かれた。
まだ、夢の中にいるような、ぼんやりとした瞳が、玲二を捉える。
そして、彼は、本当に、久しぶりに、笑った。
まだ、少しだけ、痛みを引きずった、はにかむような、でも、紛れもない、玲二だけに向けられた、優しい笑顔だった。
玲二が何かを言う前に、誠は、その腕に、そっと力を込めて、恋人の体を、強く、そして、優しく、抱きしめた。
失われたものは、あまりに大きかった。
けれど、取り戻したものは、それ以上に、温かく、そして、かけがえのないものだった。
二人の、本当の朝が、ようやく、訪れようとしていた。
「いくぞ、玲二」
二人の反撃は、この瞬間、確かに始まった。
◇◆◇◆◇
Re:START
時刻は、水曜の夜7時過ぎ。 東京に戻った二人の日常が静かに動き出していた。
誠と玲二は、玲二の部屋で、個展に展示する写真の選定を始めていた。ハードディスクに収められた膨大な写真データを見ながら、誠がふと、口を開いた。
「なあ、玲二。…あの写真って、まだあるのか?」
玲二の指が、ぴたりと止まる。
「あの写真って?」
「お前が、初めて炎上したっていう、夕焼けの写真だ」
部屋の空気が、一瞬で張り詰めた。玲二は、顔をこわばらせ、視線を泳がせる。
「……ありますけど…。なんで、そんなものを」
「見せてみろ」
誠の、静かだけれど有無を言わさぬ声に、玲二はおそるおそるフォルダを開き、一つの画像ファイルをクリックした。
画面に、あの日の夕焼けが映し出される。空全体が、オレンジと紫のグラデーションに燃え上がっている、息を呑むほど美しい、それなのに呪いとなった写真。玲二は、それを見つめることができず、顔を俯かせた。
誠は、その美しい写真をしばらく黙って見つめた後、静かに問いかけた。
「お前は、この写真がどうして炎上したんだと思う?」
「……」
「お前の考えでいい。聞かせろ」
玲二は、震える声で、ぽつり、ぽつりと答えた。
「僕は……ただ、あの時見た感動を、伝えたかっただけで、僕が見た色に近づけただけなのに……。みんな、僕が嘘をついてる、騙してるって……。僕にそんなつもりはなかいのに……一方的で、大勢で、なにもできなかった。ただの、誤解、だったのに……」
「…誤解、か。ああ、その通りだ」
誠は、静かに頷いた。
「クレームってのは、突き詰めれば全部そうだ。どっちかの、あるいは両方の『勘違い』だ。だけど、玲二。勘違いで終わらせちまったら、何も見えなくなる」
「……」
「大事なのは、その裏にあるもんだ。…どんな勘違いの裏にも、必ず『気持ち』がある」
「気持ち…?」
「ああ。今回の場合は『期待』だ」
誠の言葉は、鋭かった。
「お前のファンだった連中は、お前に期待してたんだ。『U-sagiの作品に嘘はない』って。勝手に信じ込んで、神聖視してた。だから、自分たちの信じてたものと少しでも違うと感じた瞬間、その期待が、そっくりそのまま『裏切られた』っていう強烈な憎しみに変わった。……愛情の裏返しってやつが、一番タチが悪いんだよ」
誠の言葉は、淡々としていたが、不思議な説得力があった。
「そもそも、写真の色味をいじるなんて、今どき女子高生だってやるだろ。それが『嘘』なら、世の中の写真なんて、ほとんど嘘だらけだ」
彼は、きっぱりと言い切った。
「問題の本質は、そこじゃねえ。お前の『伝え方』に、迷いがあったからだ」
「僕の…伝え方…」
「ああ。『これは俺が見た、俺だけの感動なんだ』って、胸を張って言いきれなかった。お前のその僅かな迷いが、見る側の不安を煽ったんだ。『もしかして、こいつは俺たちを騙そうとしてるんじゃないか?』ってな」
誠は、諭すようでいて、厳しいプロデューサーの目で、玲二を見つめた。
「クリエイターってのはな、玲二。自分の作品に、最後の最後まで責任を持つ覚悟がいるんだ。技術だけじゃなく、その『伝え方』にもな」
誠は、スクリーンを指さした。その瞳は、プロデューサーの鋭い光を宿していた。
「だから、これも個展に出そう」
「えっ!?」
玲二は、信じられないというように顔を上げた。
「無理です、こんなの…!僕の、トラウマで…それに、また何を言われるか…!」
誠は、そんな玲二の肩を、力強く掴んだ。
「無理じゃねえ。無理なんてのはお前の思い込みだ。そんなもん犬にでも食わせとけ」
彼は、もう一度、スクリーンの中の傑作を見た。
「これが、どれだけいい写真か、見たらわかる。お前の感動を見た奴に伝えられる。構図も、光も、色も…お前がその時に感じた『本物の感動』が、ちゃんとここに写されて在る。お前がそれに蓋をして、一番見ようとしてないだけだ。この写真を展示したら来場者は感動して帰るさ。絶対だ。」
そして、誠は、恋人の目をまっすぐに見つめて、言った。
「俺が、保障する。お前はお前が俺のこと信じてくれてるって信じてるからな。だから、この写真、展示しようぜ。玲二」
その一言は、どんな慰めよりも、どんな励ましよりも、玲二の心の奥深くに、確かな光を灯した。
「誠さん」
これは、ただの恋人の言葉ではない。自分の才能を、物語を、その全てを信じてくれる、最高のプロデューサーからの、絶対的な約束だった。
◇◆◇◆◇
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