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第11話 逆襲の狼煙

「チーム結成」 木曜の朝。 誠は、オフィスへと帰還した。 彼がフロアに足を踏み入れた瞬間、慣れ親しんだはずのオフィスの空気が一変していることに気づく。それまでそこにあったキーボードを叩く音や電話の呼び出し音、雑談の声が、まるで潮が引くようにすっと消えた。 そして静寂の後、数十の視線が、好奇と憶測、ほんの少しの侮蔑をない交ぜにした針のような痛みを伴って、彼の背中に突き刺さった。 ストーカー疑惑がネットで横行する中、青ざめて覇気のない姿を晒し、自ら望んで担当したイベントを二日連続ですっぽかした。そして週明けから二日間、会社を休んだのだ。この風当たりは当然の報いだった。 (平常心だ。何も見るな。何も聞くな) 誠は心の中で呪文のように繰り返した。 (ただ、前だけを見ろ。今日の俺は、昨日までの俺じゃない。目的は、たった一つだ) まず上司の元へ向かい、深く頭を下げた。体調管理の不行き届きで迷惑をかけたことを詫びると、上司は少し気まずそうに「ああ、まあ、犀川から大体は聞いている。有給休暇にするなら申請を出しておけ。承認するから」と言った。 (…また、あの人か) 戦う準備をしてリングに上がったのに、対戦相手もレフェリーさえも、すでに彼によって手懐けられていた。そんな肩透かしを食らったような、奇妙な無力感を覚える。 (俺が、考えすぎていただけなのか…?) 萎縮しかけた心を、誠はぐっと奮い立たせた。 (違う。借りなら、くれてやる。今の俺には、もっと大事なことがある) 彼は踵を返すと、フロアの一番奥にあるデスクへと迷いなくまっすぐに向かった。 その背中に、再び社員たちの視線が突き刺さる。 デスクの主、犀川は海外のクライアントと流暢な英語でビデオチャットをしていた。 誠の姿を認めると、彼は悪戯っぽく片目をつぶって見せ、手早く話をまとめて通話を切る。そして革張りの椅子をゆっくりと誠の方へ向け、値踏みするように、どこか面白そうに口を開いた。 「…おかえり、マコ」 その声は、全てを見透かすような響きを持っていた。 「随分と、いい顔になったじゃないか」 「ピロ、先日の、誘いの件だけど…」 「ああ、ヨーロッパの話か。どうだ、決めたか」 誠は言葉を続ける代わりに、その場で深く、深く頭を下げた。 「俺、ヨーロッパ行きは断ることにした。誘ってくれたこと、感謝してる。そんで、いろいろありがとうな」 犀川は驚いたようには見えなかった。ただ静かに眉を上げると、目の前の男の顔を改めてじっくりと観察した。 数日前の、魂が抜け落ちたような死んだ魚の目とは全く違う。全ての迷いを振り払い、困難のど真ん中に立つことを決めた、強く澄んだ目をしている。 「困ったときはお互い様だろ。それに社の顔を潰すわけにいかねえからな。それで、俺の誘いを蹴って東京に残る理由、聞かせてくれ」 「どうしても、俺がやらなきゃならない企画があるんだ」 誠は顔を上げた。その声は静かだったが、揺るぎない自信に満ちていた。 「俺が惚れ込んだ才能があるんだ。世間はまだ気づいていない、本物の才能だ。それを俺自身の手で世に送り出したい。…いや、送り出す責任が、俺にはあるんだ」 その言葉に嘘も気負いもないことを、犀川は見抜いていた。彼はふっと息を吐くと、まるで答え合わせをするかのように呟いた。 「…それって、お前が惚れた男のことか」 「……!」 「いいだろう」 犀川はあっさりとそう言った。 「でも、条件がある。その企画、必ず成功させろ。言っとくけどお前が自分で思ってるほど簡単な話じゃないぞ。お前はお前自身が入れ込んでる案件だと感情に流されて、全体指揮がおろそかになる悪い癖がある。いい機会だからその課題を克服してみせろ。お前が俺の誘いを蹴ってまで選んだ道だ。中途半端な仕事して、俺を失望させるなよ。お前をこの会社に呼んだのは、俺なんだからな」 それはプロフェッショナルとしての、犀川からの挑戦状だった。彼はニヤリと獰猛な笑みを浮かべる。 「そして、それが終わったらヨーロッパだ。俺は大事な弟分をちょっとの間、インフルエンサーに貸してやるだけだぞ」 それは誠の決断を尊重し、未来への選択肢を奪わないという、犀川なりの最大限の誠意であり、友情の証だった。 「…はい!ありがとうございます!」 誠はもう一度、今度は感謝と決意を込めて力強く頭を下げた。 失ったはずの未来が、今、確かな光となってその足元を照らし始めている。そしてその光が、これから進むいばらの道を行くための、何よりの道しるべになることを、誠はもう知っていた。 誠はそれから最短で確保できる役員会議の予約をとり、そこでプレゼンするための企画書制作に集中する。土日もプライベートの時間も削って、社内の予算取りのために戦いを開始したのだ。 ◇◆◇◆◇ 翌週月曜の午後。 誠が所属するイベント会社の最上階にある役員会議室。磨き上げられたマホガニーの長テーブルを挟み、社長をはじめとする経営陣五名が、値踏みするような厳しい表情で誠一人を見据えていた。 空気はガラスのように張り詰めている。 誠は深呼吸を一つすると、手元のリモコンでプロジェクターを操作した。スクリーンに、白抜きの文字が浮かび上がる。 【インフルエンサー『U-sagi』初個展 企画『Truth & Proof』】 「本日はお時間いただきありがとうございます。プロデュース部の生稲です」 凛とした声が、静まり返った部屋に響く。緊張で滲む手のひらの汗を、誠はスーツのズボンでそっと拭った。 「皆様におかれましては、『U-sagi』に関する一連のネット上の騒動はすでにご存知のことと存じます。本日ご提案するのは単なる写真展ではありません。その全ての噂と憶測に終止符を打ち、数多のファンが固唾をのんで見守る一つの物語の最終章を、わが社でプロデュースするというご提案です」 社長が腕を組んだまま、冷たく言った。 「生稲。感傷的な話はいい。ビジネスの話をしろ。リスクと、リターンを」 「はい」 誠は淀みなくページを切り替える。スクリーンには玲二の笑顔の写真、そして具体的な数字が映し出された。 「本企画の核となる資産は、インフルエンサー『U-sagi』。彼の写真家としてのポートフォリオは共有フォルダに入れてありますので、後ほどご覧ください」 ポインターが次のスライドを指す。 スライドでは大きいフォントで「基本フォロワー数:六十万人」と表示されている。その横に添えられたSNSの参照画像には「900k」という、矛盾した数字が映っていた。 「まず、収益試算のベースとなる数字ですが、ここでは『U-sagi』がコラボ企画以前から彼自身の力だけで獲得してきた、極めてロイヤリティの高い安定したファン層である六十万人を基準とします。もちろん参照画像の通り、先日までのコラボ企画の大成功により、彼の現在のフォロワー数は九十万人にまで急増しています。今回の試算では、その言わば“バブル的”な数字は、あえて一切含んでおりません」 誠の説明に、それまで静かだった経営陣がかすかにざわめいた。 「この企画は、六十万人の岩盤のように固いファン層だけで十分に成立し、莫大な利益を生む極めて堅実なプロジェクトです。その上で、新たに獲得したファンという巨大な『ボーナス』が期待できる。…これが、今回の企画の本当のポテンシャルです」 「そのフォロワーが金を出してまで来るとは限らんぞ」 横から専務が当然の疑問を口にする。 「はい。おっしゃる通りです。そこで、極めて保守的な試算をいたしました」 誠は収益見込みのグラフを指し示す。 「六十万人のフォロワーのうち、わずか2%の一万二千人が来場したと仮定します。チケット単価二千五百円で売上は三千万円。限定フォトブックなどのグッズ売上を合わせれば、損益分岐点は十分にクリア可能です」 経営陣の目の色が変わる。誠は畳み掛けた。 「この企画の真の価値は、直接的な売上だけではありません。広告PR価値です。この『物語』は必ずメディアが取り上げる。我々が広告費を払うのではありません。この個展そのものが、数千万円規模の広告塔となるのです」 ロジックと数字で外堀は埋めた。最後の鍵はそこにはない。 誠はリモコンを置くと、経営陣一人ひとりの顔をまっすぐに見つめた。 「そして…どんな数字よりも強いのが、この企画が持つ『熱量』です」 スクリーンに映し出されたのは、一枚の写真。かつて炎上のきっかけになった、あの燃えるような夕焼けの写真だった。 「この一枚に、彼の挫折と再生の全てが詰まっています。人々はもはや単なるファンとしてではありません。一つの壮大な物語の『証人』になるために、会場へ足を運ぶでしょう。お金では決して買えないこの人間的な熱狂こそが、本企画の成功を約束する最大のエンジンです」 長い沈黙。 誰もが、誠の覚悟と、その瞳に宿る本気の光に圧倒されていた。 やがて、それまで黙って全てを聞いていた社長が、重々しく口を開いた。 「…リスクは高い。扱うテーマも極めてデリケートだ」 「……」 「お前の数字には根拠がある。戦略にも抜かりはない。そして何より…」 社長は誠の目を射抜くように見つめた。 「その目だ、誠。己の人生を懸けてこの企画を成功させるという、プロデューサーの目をしている」 社長はふっと息を吐くと、言った。 「…承認する。失敗は許されないぞ」 その言葉は誠の背中に重くのしかかった。彼の胸には不安を遥かに上回る熱い闘志が燃え上がっていた。 「ありがとうございます。必ず、成功させます」 誠は深く頭を下げるとミーティングルームを出た。ドアが閉まるその瞬間、小さいけれど力強くガッツポーズを握りしめた。 最大の関門を突破し、企画を開始させることができた。 ◇◆◇◆◇ 会社の経営会議で無謀とも思える企画の承認をもぎ取った、翌日のことだった。 誠はまるで数日間の絶望が嘘だったかのようにエネルギッシュに動き回っていた。 その瞳にはもう虚ろな光はなく、目標だけを見据える百戦錬磨のプロデューサーの光が再び宿っていた。 まず社内の使われていないミーティングルームの一つを、『Truth & Proof』プロジェクト専用の事務所、通称「作戦室」として確保する。玲二がビルのセキュリティカードの権限を追加する手続きをしている間に、誠はプロジェクト用の固定回線を引き、ネットワーク部門にドメインの手配を依頼し、部屋の壁一面に巨大なホワイトボードを運び込んだ。 そこはもうただの会議室ではない。これから始まる二人の逆襲のための要塞だった。 「よし、玲二。ここからが本番だ」 ホワイトボードの前に立ち、誠がマーケティング戦略の骨子を書き込みながら言った。その背中は、玲二が三年間ずっと憧れてきた頼もしい背中だった。 「まずは最優先課題が三つ。資金集め、会場確保、そして展示写真の選定だ。手分けしてやるぞ」 「はい!」 「資金については、お前はお前の『信用』を使え。俺は俺の『人脈』と足を使う。会場の選定とスタッフの人選は俺がやる。お前は作品選定を進めてくれ」 誠は玲二に向き直ると、プロデューサーの目で具体的な指示を与えた。 「会場の規模によって飾れる枚数は変わる。だから……」 「僕の心臓になる、絶対に外せない『Aリスト』。できれば飾りたい『Bリスト』。そして最悪諦める『Cリスト』。そうやって優先順位をつけてすすめたらいいですか?」 「そう。その通り」 そして誠は一度言葉を切り、その声のトーンが少しだけ個人的なものに変わる。 「…それと、一つ確認だ。照明は潮に頼む。俺が全幅の信頼を置いてる最高の照明デザイナーだ。…そうなると、玲二。お前は展示の最終段階で、あいつと二人きりで何時間も作品について話し合うことになる」 誠は玲二の瞳を真っ直ぐに見つめた。 「……平気か?」 その問いに、玲二の脳裏に潮のあの憎悪に満ちた目が蘇る。心臓がひやりと冷たくなった。 彼は隣に立つ誠の顔を見た。この人のために、そして自分自身のために、もう逃げるわけにはいかない。 「…はい。怖くないと言ったら、嘘になります」 玲二は正直に自分の弱さを認めた。そして続けた。 「でも潮さんは、誠さんの一番の親友です。その人に認めてもらえなければ、僕はあなたの隣に立つ資格がない」 彼は覚悟を決めた強い瞳で誠を見つめ返した。 「これは僕が乗り越えなきゃいけない、最後の試練です。…だから、大丈夫です」 その迷いのない返事に、誠は全ての不安が晴れたように心から安心して、そして誇らしげに笑った。 「…そうか。じゃあ、決まりだな。俺からあいつには話しておく」 その日から、二人の怒涛の日々が始まった。 失われた三年間の全てを取り戻すための、熱く、そして輝かしい戦いの日々が。 玲二はこれまでにタイアップした企業リストを広げ、一社一社丁寧に電話をかけていく。最も緊張したのはアンバサダー契約を結んでいる大手カメラメーカーの担当役員への連絡だった。 「…ですので、今回の個展では僕のプライベートなパートナーであるプロデューサーの生稲との関係も全て公にするつもりです。これは御社のブランドイメージにリスクをもたらす可能性も否定できません。ですが…」 玲二は震える声を叱咤し、言葉を続けた。 「この企画は僕が、そして僕たちが、嘘偽りのない『真実』を写すための新たなスタートです。御社のカメラはその瞬間を捉えるための、僕にとって唯一無二のパートナーです。どうか、これからも僕たちの挑戦を応援していただけないでしょうか」 電話の向こうの数秒の沈黙。やがて聞こえてきたのは、担当役員の温かい笑い声だった。 『面白いじゃないか、鵜鷺くん。君はただのインフルエンサーじゃない、アーティストだと我々は信じているよ。君の『真実』の物語、ぜひ我が社のカメラで美しく切り取ってくれ。もちろん、喜んで協賛させてもらう』 玲二は受話器を置くと、思わずガッツポーズをした。 一方、誠もまたプロデューサーとしての腕前をフル活用していた。 彼はこれまでの人脈のほか、企画の主題に焦点を当てて関連する企業にスポンサー提案を持ちかけ交渉した。誠は犀川のような広い人脈を持たない。その分、広告代理店で磨いた連想力や発想力で関連性を見出し、体当たりで交渉していく。今回は写真の個展という特性から、印刷会社や額縁メーカーに「会場でのクレジット掲載」を条件に、最高品質の現物提供を取り付けた。 さらに、『U-sagi』の60万人のフォロワーの大半が購買意欲の高い20代〜30代の女性であるというデータを武器に、これまで接点のなかったファッションブランドや美容業界の広報担当者にアポイントを取り付け、次々と協賛を勝ち取っていく。 それだけではない。 会場が未定なことを逆手に取り、東京駅へのアクセスを重視した立地にある高級ホテルに、遠方からの来場者向けの「オフィシャルホテル」となることを提案。 大手の出版社には個展と連動した「限定フォトブック」の出版企画を持ちかけ、国内の公共交通機関には「この個展は新たな観光資源になる」とメディアパートナーとしての協賛を交渉した。 いくつかの企業が興味を示し、詳細は後日訪問して話を聞いてもらうことになった。 長い一日が終わり、作戦室には疲れ果てはいても確かな手応えを感じている二人がいた。 「…ふう。初日にしては、上出来だな」 ネクタイを緩めながら、誠が言う。 「はい。カメラメーカーさん、僕たちの物語を応援してくれるって…。信じて、くれました」 玲二が達成感に満ちた顔で答える。 誠はそんな恋人の顔を、ただ守るべき存在としてではなく、共に戦う頼もしいパートナーとして誇らしげに見つめていた。 要塞に灯ったたった二つの闘志の炎は、これから多くの仲間たちを巻き込み、巨大な熱狂の渦へと変わっていく。 ◇◆◇◆◇ その週の夜。 誠の会社の殺風景なミーティングルームには煌々と明かりが灯っていた。テーブルの上には膨大な数の写真のコンタクトシートや嘉納のデザイン画が散乱している。冷めたピザの箱と何本もの空の缶コーヒーが、会議の長さを物語っていた。 その中心に、四人の男がいた。プロデューサーとして議論を率いる誠。アーティストの玲二。照明デザイナーの潮。そしてファッションデザイナーの嘉納。 それぞれがこの企画に確かな熱量を寄せている。その熱量とは裏腹に、部屋の空気はどこかぎこちなく張り詰めていた。 玲二は誠の様子を不安そうに見つめている。そしてそれ以上に、彼が意識しているのはテーブルの向かい側に座る男――潮の存在だった。 潮はPCの画面に映る照明のシミュレーションデータに視線を落としたまま、一度も玲二の方を見ようとしない。その横顔は、玲二に対する明確な拒絶を示していた。 その全ての緊張を、ただ一人、嘉納だけが楽しそうに観察していた。 誠はモニターに映し出した絵コンテを前に、静かに、確かな熱を込めて口火を切る。 「待たせて悪かった。この企画のプロットを共有するぞ。俺たちがこれからやるのはただの宣伝じゃない。世間が作り上げた俺たちへの『偏見』そのものを利用した、壮大なミスリードだ」 玲二、潮、そして嘉納の三人が固唾をのんで誠の言葉に耳を傾ける。 「予告編フィルムでは、間瀬と玲二の親密なコラボ映像と、そして…」 誠は一度言葉を切った。 「俺がストーカーのように見える、あの『惚れバレ写真』を意図的に使う」 「――はあ!?」 沈黙を破ったのは潮の怒りに満ちた声だった。彼はテーブルをバン!と叩いて勢いよく立ち上がった。 「お前、そんなとこつついて大丈夫なのかよ。それに惚れバレってなんだよ?!」 血相を変える親友に、誠は冷静なプロデューサーの顔で静かに告げた。 「落ち着け、潮。一年半前の例のパーティーの写真が、最近また悪意ある形でネットで再拡散されてる。俺が玲二のストーカーだったという『証拠』としてな」 「なんだと…!?」 潮が絶句する。その横で嘉納がやれやれとばかりにため息をついた。 「あら、潮ちゃん知らなかったの?ネットの片隅でずーっと燻ってたじゃない、その話。あたしはもちろん知ってたわよ」 嘉納がSNSのゴシップまとめサイトの記事を見せる。 「誠の眼つきだけで騒いでんのか? U-sagiのファンってのは目が節穴なのかよ…!」 愕然とする潮。嘉納はそんな彼を気にも留めず、誠に向かって面白そうに問いかけた。 「で?その、あんたにとって一番都合の悪い『証拠』を、自分から世間に見せつけるってわけ? 正気なの、あんた?」 「正気だよ」 誠は断言した。 「世間の憶測をあえて最大限に煽るんだ。そしてフィルムの最後には必ずクレジットを入れる。『Producer: Makoto Ikuina』と。これは謎だ。俺たちが仕掛ける、視聴者への挑戦状になる」 潮は、怒りと驚き、そして親友のあまりに大胆不敵な覚悟への畏怖にも似た感情で言葉を失っていた。 玲二は、その全てのやり取りをテーブルの下で固く拳を握りしめながら聞いていた。自分のせいで誠がまた悪意の的になろうとしている。その罪悪感。彼の瞳には、それ以上に、目の前の恋人への絶対的な信頼が宿っていた。 誠は神妙な顔で続ける。「と、まあ戦略はこうだが、まだ箱がない」 「お前、正気かよ」 「正気だ」 誠はまた断言した。 「箱が決まってないならなんも決まんねえだろ。会場模型どころか設計図もないんだろ? 俺ここに居る意味あんのか?」 「お前は玲二とシミュレーションして、展示写真を印刷する素材の相談に乗ってやってくれ」 「ああ?」 玲二と潮が気まずいのは知っている。誠はそれをおくびにも出さず、プロデューサーとして言った。 「箱は俺が必ずなんとかする。お前の光を最高に活かせる素材選びがお前の仕事だ。やってくれるよな」 潮はしぶしぶ頷いた。まだ納得していなさそうだが少し時間を置くことにして、誠は話を進める。 「メインビジュアルは佐藤さんに修正依頼を出す。ショートフィルムは山田監督と来週打ち合わせだ。外注の大きなパーツは動き出した。会場が決まらないことには照明も空間デザインも本当の意味では始められない。逆に言えば、今なら新しいアイデアが織り込めるかもしれない。現時点で提案があれば今のうちに案出ししてくれ」 その言葉を受け、玲二がおそるおそる手を挙げた。 「あの…展示について一つ提案があるんです。間瀬とのコラボ企画『共響』のメイキングフィルムの使用承諾について、今あちらの制作会社と交渉を進めています」 「ああ、あの映像か」 誠の声がわずかに低くなる。 「あのフィルムは僕と間瀬の『仲』についての噂の発端になったものです。プロモーションだけじゃなく、いっそあの映像自体をこの個展で展示するのはどうでしょうか」 その瞬間、ミーティングルームの空気が凍った。誠の表情からプロデューサーとしての冷静さが一瞬だけ消え、ただの傷ついた男の顔が覗く。 潮だけが、親友の指先が白くなるほどペンを強く握りしめたのに気づいていた。 動揺は一瞬だった。誠はすぐにプロデューサーの仮面をつけ直し、その提案を冷静に吟味する。 「…面白いアイデアだが即断はできない。まずは全ての素材を取り寄せて俺たちでレビューする。上映するかどうか、どう使うかはそれを見てからだ。ほかに案はあるやつはいるか?」 誠は意識的に話題を切り替えた。「なさそうだな。さて、と。次に資金の話だ。スポンサーリストはこの通り。返事待ちのとこもあるが、ほぼ決まりだとみてる。不足分はクラウドファンディングで補う。困ったことに、正直言うと玲二のファン層へのアプローチは俺は経験が浅い。どういう返礼品が響くのか見当がつかないんだ」 誠の率直な言葉に、嘉納が待ってましたとばかりに頷く。 「当たり前よ。アイドルのセオリーを当てはめても、レイちゃんのファンは喜ばないわ。彼女たちが求めているのは、『共犯者』になれる特別な体験よ」 「共犯者…?」 「ええ。期待を込めてお金を出すことでこの企画の当事者になる。そしてその見返りとして他では絶対に手に入らないスペシャルな体験を用意するの。そうすれば彼女たちは最高の宣伝部隊にもなってくれるわ」 その的確な分析に、誠は深く頷いた。 「そこで頼みがある。リターン(返礼品)の案出し、力を貸してくれないか。ただのグッズじゃない。ファンが熱狂し、この『祭り』の共犯者になりたいと思わせる、イッチーのセンスが必要なんだ」 嘉納は、ふふん、と楽しそうに笑うと艶のある指で自分の顎を撫でた。 「いいわよ。あたしの手にかかればファンが喜んで財布の紐を緩める悪魔的なリターンを考えてあげる。…ただし条件があるわ。リターン品に、あたしのブランド『KANO』との限定コラボグッズも入れさせてもらうわよ。ちゃっかりしてるんだから、あたしは」 その抜け目のなさに、潮が「おいおい」と呆れた声を出し、部屋に少しだけ笑いが戻る。 そして誠は、集まってくれた仲間たちに改めて向き直った。 「…潮。改めて正式に頼む。俺たちのこの無茶な計画に、お前の光を貸してほしい」 誠はまず、親友の名を呼んだ。その声は真剣だった。 潮はPCから顔を上げると誠の顔を見た。そしてその視線をゆっくりと、テーブルの向かいにいる玲二へと初めて向けた。 その瞳は、氷のように冷たかった。 「…いいぜ、誠。お前が人生懸けるってんなら、俺も付き合う」 潮はそう言って誠にだけ笑いかけた。そして再び玲二にその冷たい視線を戻す。 「でもな、鵜鷺くん。あんたにははっきり言っておく。俺はマコの判断を信じてる。あんたのことは、まだ一切信用しちゃいねえんだ。なんでなのかはわかってるよな」 その剥き出しの敵意に玲二は息を呑んだ。彼はもう怯んだり挫けたりしない。その視線を真っ直ぐから受け止めると、静かに、そして深く頭を下げた。 「…潮さんの言ってることはその通りです。僕は誠さんの信頼を一度裏切りました。あなたに信用してもらえないのも当然です。…この仕事を通して、僕が心を入れ替えたことをどうかその目で見極めてください。お願いします」 そのあまりに真摯な言葉に、潮の表情がわずかに揺らいだ。 嘉納がその緊張を断ち切るように、ふん、と鼻を鳴らす。 「はいはい、昼ドラはそこまでよ。次はあたしの番ね」 玲二は今度は嘉納に向き直った。 「嘉納さんにも無理を言ってすみませんが、個展の初日、ステージに立つ僕と誠さんのスタイリングをお願いしたいんです。僕たちはその日世間と戦うことになる。最高の鎧が必要です」 嘉納はスケッチブックを閉じた。その瞳には楽しそうな光が宿っている。 「当たり前よ、レイちゃん。ズタボロのあんたたちをあたしの友人としてステージに立たせるわけにはいかないでしょう。安心なさい。誰もが一目でひれ伏すような完璧な服を用意してあげるわ」 そのやり取りを、玲二は少し潤んだ瞳で見つめていた。誠を支える、温かく、そして厳しい仲間たち。 「潮さん、嘉納さん……」 玲二はもう一度、深く、深く頭を下げた。 「本当に、ありがとうございます。僕も、僕にできる最高の作品で必ずこのチームの期待に応えます」 その言葉に誠は満足そうに頷くと、テーブルの中央に広げられた、まだどの会場のものとも決まっていない真っ白な見取り図の上に、自分の手のひらをドン、と置いた。 「よし。…チームは揃ったな」 誠の力強い声が深夜のミーティングルームに響き渡る。 「これはただの個展じゃない。俺たちの、逆襲だ。絶対に成功させるぞ」 その手のひらに、まず潮の手が、次に嘉納の手が、そして最後に玲二の手が力強く重ねられた。 まだどこかぎこちない。四人の覚悟が一つになったその瞬間、誠は畳み掛けるように言った。 「狼煙は上げただけじゃ意味がねえ。今、この熱が一番高いうちに、世界に火をつけるぞ」 誠は玲二に向き直る。 「玲二。お前の携帯を貸せ。最初の告知を、今ここでする」 「え、今、ですか!?」 玲二の顔に動揺が走る。誠は潮と嘉納が見守る前で、玲二のノートパソコンを開かせた。インスタグラムの投稿作成画面。そこに誠が慎重に選び抜いた朝日を背にした玲二のシルエット写真と、玲二が祈るように紡いだ文章が表示される。 「……本当に、いいんですよね。これで」 玲二の声が不安に揺れる。投稿ボタンの上に置かれた彼の人差し指はかすかに震えていた。 (このボタンを押せば、またあの夜のように無数のナイフが飛んでくるかもしれない…) トラウマが彼の指を鉛のように重くする。 誠はそんな恋人の震える手を、自分の温かい手でそっと包み込んだ。 「大丈夫だ」 静かだ。絶対的な確信に満ちた声だった。 「もうお前一人で戦わせたりしない。俺たちの物語は、俺たちで語る。…もう二度と、誰にも好き勝手書かせたりしない」 その言葉に玲二はこくりと頷くと、一度深く息を吸い込んだ。そして全ての覚悟を決めて、画面を強くタップする。 ――その瞬間、世界が動き出した。 テーブルの上に置かれた四人の携帯が、一斉にけたたましく震えだす。静寂を破る通知音の連打。いいね、リポスト、そしてコメントの通知が光の滝となって画面を流れ落ちていく。 「すげえな、おい!なんだこの勢いは!」 潮が興奮したように声を上げる。嘉納もその唇に満足そうな笑みを浮かべていた。 「ふふん、当然でしょ。あたしたちが、仕掛けてるのよ?」 『U-sagiの個展!?絶対行く!』 『「たった一人の大切な人」って……もしかして』 『#TruthAndProof ……“真実と証明”?どういう意味だろう』 混乱、憶測、そして疑うことを知らない純粋な期待。 玲二の瞳が、画面に映る温かい声援の数々に安堵したように潤むのを、誠は横目で見ていた。 そして確信する。 そうだ。これが、俺たちの武器だ。 誠の口元にあった穏やかな笑みは、すぐにプロデューサーとしての厳しいものへと変わっていった。 彼は熱狂に沸く仲間たちと興奮冷めやらぬ携帯の画面からそっと視線を外す。そしてテーブルの隅に追いやられた一枚のリストにその目を落とした。 その和やかな空気を断ち切ったのは、誠の苦々しい一言だった。 「…まあ、そのクラウドファンディングもプロモーションも、全てはこいつが決まらなきゃ絵に描いた餅だけどな」 誠の視線の先には、無慈悲な「NG」の赤字が引かれた都内のイベントスペースのリストがあった。 部屋の空気が再び重くなる。 企画の心臓部である会場が、まだ決まっていないのだ。 反撃の狼煙は、確かに上がった。 彼らが立つべき戦場は、まだどこにも存在していなかった。 張り詰めた沈黙。潮が忌々しげに舌打ちし、玲二も不安そうに顔を曇らせる。 その重苦しい空気を、まるで興味がないとでも言うように一人優雅にスケッチブックにペンを走らせていた嘉納が、ふと顔を上げた。 そしてその唇に悪戯っぽい笑みを浮かべると、こう言ったのだ。 「あら、何よ、暗い顔しちゃって。なんとかなるでしょ。いざってときは、区民会館でも学校の体育館でも借りたらいいじゃないの」 そのあまりに場違いで突拍子もない一言に、潮が素っ頓狂な声を上げた。 「はあ!? 区民会館だあ? 冗談キツイぜ、嘉納さん! あんたの次のコレクション、そこで発表すんのかよ!」 「それも、面白いかもしれないわね。そしたら潮ちゃんライティングお願いね」 悪びれもせずに嘉納が肩をすくめる。 そのどうしようもないやり取りに、不安でいっぱいだった玲二の口元から、思わずくすり、と笑いが漏れた。 そしてその笑いは、潮にも伝染する。 誠は大きく、深く息を吐き出した。 問題は、何一つ解決していない。 このどうしようもなく頼もしくて無茶苦茶な仲間たちとなら、きっとどんな壁だって乗り越えられる。 そんな根拠のない、確かな予感が、彼の胸に再び温かい光を灯した。

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