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第8話 絶望

日曜日、午前九時。 窓の外は、残酷なほど穏やかな光に満ちている。部屋の中は、時間が止まっていた。 誠はソファに座ったまま、魂の抜け殻のように虚空を見つめている。玲二が話しかけても、そっぽを向かれる。昨夜から、その反応は変わらない。 玲二は、自分が愛した男が目の前でゆっくりと石になっていくような、途方もない恐怖と罪悪感に苛まれていた。 昨日はこの状態の誠を置いて出かけた結果、誠は責任者である立場を放棄して会場に来なかった。今日は、解体作業があるはずだ。 (どうしよう…) 玲二は唇を噛みしめた。今日も昼からトークイベントに出演しなければならない。会場のことは誠の会社に連絡すればフォローしてもらえるだろう。この状態の誠を、一人で部屋に残していくことなど到底できなかった。 頼れる相手は、もう一人しかいない。 玲二はスマートフォンを手に取ると、深呼吸を一つして、潮の番号を呼び出した。心が、屈辱に震える。誠の親友であるこの男が、一年半前から自分のことを快く思っていないことは、痛いほど伝わっていたからだ。 『…なんだよ』 電話の向こうから聞こえてきたのは、案の定、不機嫌で冷たい声だった。 「潮さん…。朝早くにすみません、玲二です」 『……』 「あの、お願いがあるんです。僕、今日どうしても外せない仕事があって…。それで、誠さんのこと…」 『はっ。なんで俺が? 誠だって今日仕事だろ』 潮は、玲二の言葉を鼻で笑った。 「昨日と、状況が変わっていないんです。彼の休みの連絡は僕から入れておくので……」 『それならお前の控室にでも連れてって、待たせておけばいいじゃねえか』 「それが…!」 玲二は声を詰まらせた。そして、最大の屈辱を自らの口で告白する。 「…できないんです。会場には、誠さんのことをストーカーだと思い込んでいる人たちが、大勢います。僕には、彼を守ってあげられない…」 電話の向こうで、潮が息を呑むのが気配で分かった。 数秒間の重い沈黙。やがて聞こえてきたのは、地を這うような低い声だった。 『…今、お前、なんつった?』 「だから、お願いです…!」玲二はプライドも何もかも捨てて頭を下げていた。「潮さんしかいないんです。どうか、彼を一人にしないでほしいんです…!」 潮からの言葉を待つ、永遠のような時間。 携帯からガサガサと雑音がした後、聞こえてきたのは潮ではない、別の声だった。 『……レイちゃん』 嘉納の声だった。それはステージの上で話す華やかなデザイナーのものではない。 「あたしもあんたと同じで、自分の名前をブランドにして生きてる人間だから、ファンの期待とかスポンサーの顔色とか…守らなきゃいけないものがたくさんあるってことは、理解してるつもりよ」 一見、理解を示すような優しい言葉。次の瞬間、その声は氷の刃のような鋭さを帯びた。 『でもね、あんたのやり方は、最低最悪。三流の仕事よ』 「……!」 『生稲誠っていう、業界の誰もが欲しがる最高傑作の男を隣に置きながら、あんたはその価値を世間に見せつけるどころか、埃まみれの布を被せて薄暗い倉庫に隠してた。…才能の、無駄遣いだわ』 嘉納のあまりに残酷な評価が、玲二の胸に突き刺さる。 『その結果が、これよ。最高傑作は、あんたが被せた布の下で息もできなくなってる。…それでも、あんたはまだ、彼の隣にいるつもりなの?』 その有無を言わさぬ問いかけに、玲二は涙を堪えながら必死に声を絞り出した。 「…っ、い、いえ、それは、ダメです…! で、でも…!」 彼はしゃくりあげながら、ほとんど懇願するように言葉を続けた。 「でも、僕は、一緒にいたい…誠さんと、一緒にいたいんです…!」 嘉納は、そのあまりに痛々しい純粋な愛の叫びを静かに聞いた後、最後の、そして最も残酷な真実を玲二に告げた。 『…そう。なら、覚悟なさい。生稲誠が、あんな風に心を閉ざすのは初めてじゃないって話よ』 「え…?」 『昔、あいつがまだ新人だった頃、仕事で大きな失敗をして三日間誰とも口を利かなくなったことがあるって聞いたわ。マコちゃん、自分が誰かの信頼を裏切ったって思い込んだ時に、そういう状態になるんだって。……あんたは、自分が引き金を引いたかどうか、それが何だったか、心当たりがあるのかしら?』 電話はそれだけ言って、一方的に切れた。 玲二はその場に立ち尽くす。潮と嘉納の容赦ない言葉の刃が、彼の心をずたずたに引き裂いていた。 (僕が、引き金を引いた…。誠さんが僕の信頼を裏切ったなんてことはない。裏切ったのは僕だ。でも、どうしよう。これから、どうすればいい…?) 思考が完全に麻痺する。その永遠にも思える沈黙を破ったのは、玄関のインターホンの甲高い電子音だった。 ――ピンポーン。 玲二は弾かれたように顔を上げた。電話を切ってから、まだ二十分と経っていない。 震える足で玄関に向かいドアスコープを覗くと、そこには潮と嘉納の厳しい顔が映っていた。 (それじゃ、最初から向かって来ていたんだ…) その行動の速さに、玲二は感謝と、自分との覚悟の違いを見せつけられたような新たな絶望を感じていた。 部屋にやってきた潮は、涙を流す玲二に目もくれず、まっすぐ誠の元へ向かった。 嘉納がそんな玲二の横を通り過ぎる際に、感情のこもらない声で言い放つ。 「犀川には、潮ちゃんからこっちの状況は連絡済みよ。会場の方はなんとかしてくれるでしょ。…それより、今日あんたが仕事に穴を開けたりみっともない顔を晒したりしたら、これまでのマコちゃんの献身が全部無駄になるのよ」 「……」 「あんたが今から立つステージは、恋人の犠牲の上に成り立ってるってこと、忘れんじゃないわよ。これまでしてきたことと今日これからすることの違いを、わかってるってあたしに信じさせて」 そして、昨日と同じように、抵抗しない誠を着替えさせ外へと連れ出していく。 自分には何もできない無力感に苛まれながら、玲二は玄関で二人に深く頭を下げた。 「あ、の、本当に、本当にありがとうございます…!誠さんのこと、お願いします」 すると、潮は初めて玲二の方を、憎悪と軽蔑に満ちた目で真っ直ぐに見た。 「勘違いするな。お前のためにやるんじゃねえ。誠を守るためだ。…お前は、首でも洗って待ってろ」 その言葉を最後に、潮はドアを閉めた。 玲二は、その場に立ち尽くしたまましばらく動けなかった。 親友にそこまで言わせるほど、自分は誠を傷つけたのだ。 その事実が、玲二の胸に重く、重く、のしかかっていた。 ◇◆◇◆◇ 日曜日、夕方。 二日間にわたったトークイベントは、大盛況のうちに幕を閉じた。 玲二は、プロの仮面を完璧に被りきった。気のそぞろだった昨日の初回とは違い、今日の彼は完璧な『U-sagi』だった。間瀬との掛け合いも軽妙にこなし、ファンサービスも怠らない。 イベント後、打ち上げに誘う間瀬に恋人の体調不良を理由に丁重に断りを入れると、「じゃあ、これ二人で食えよ」と、みたらし団子の差し入れを持たされた。わざわざスタッフに買って来させていたらしい。そのプロとしての気遣いと器の違いに、玲二はまた少し打ちのめされた。 (僕には、まだあの人の足元にも及ばない…) そんなことを考えながら、玲二はタクシーを飛ばして自宅マンションへと急いだ。 潮からのメッセージでは、誠はまだ心を閉ざしたままだと。でも、もしかしたら。僕が帰るのを、待ってくれているかもしれない。 そんな淡い期待を胸に、ドアを開けた。 「ただいま、帰りました…」 静まり返った部屋に、彼の声が虚しく響くだけだった。誰もいない。潮も、嘉納も、そして、誠も。 一瞬、心臓が凍りつく。どこへ? いや、潮さんたちがどこかへ連れ出してくれているんだ。そうに違いない。 玲二は自分に言い聞かせると、シャワーを浴びることにした。これから誠の友人たちに、そして何より誠本人に断罪されるであろう自分への、せめてもの禊のような気分だった。 シャワーを終え、リビングでただひたすらに待つ。 重い沈黙が部屋を支配していた。 その静寂を破ったのは、唐突なインターホンの音だった。 玲二は弾かれたように玄関へ向かう。 ドアを開けると、そこに立っていたのは犀川だった。週末の激務の疲れなど微塵も感じさせない完璧なスーツ姿で、まずドアを開けた玲二に一度だけ視線を向ける。 その半歩後ろに―――自分の足で立っている、誠がいた。 目は虚ろではあった。でも、昨日友人たちに引きずられていった時の、人形のような姿ではない。 「…イベント、つつがなく終了したと聞いている。ご苦労だったな、鵜鷺さん。マンション前で潮と市彦と会ったよ。潮が怒り心頭だったから、帰って頭を冷やすよう言っておきました」 その声は完璧にビジネスライクで、温度というものが一切感じられなかった。 彼は玲二からの返事を待つまでもなく、その横をすり抜けまっすぐリビングへと向かう。まるで玲二など、そこにいないかのように。そして誠はその犀川についてきて、ソファに座った。 犀川は、それまでの冷たい仮面が嘘のように、誠の表情を気づかわしげに、深い憂いを帯びた優しいものへと変えた。彼は誠の前に膝をつくと、その虚ろな瞳を覗き込むようにして語りかける。 「誠。週末、よく耐えたな」 あまりに穏やかなその声に、玲二は息を呑んだ。 「イベントは俺が最後まで代行した。解体も問題なく終わる。会社には俺から上手く言っておく。だから、お前は何も心配しなくていい。月曜、約束通り待ってるから」 誠は、玲二や潮の声には何の反応も示さなかった。 今、目の前で語りかける犀川の声だけは、まるで分厚い氷を溶かすように、ゆっくりと彼の意識に届いているようだった。 彼はその視線をそらさない。ただじっと、犀川の言葉を聞いている。 犀川は最後に、誠の髪を弟を慈しむ兄のように一度だけ優しく撫でると、静かに立ち上がった。 そして去り際に、もう一度だけ玲二に冷たい視線を向ける。その瞳には侮蔑でも怒りでもない、ただ絶対的な事実を告げるような静かな光が宿っていた。 彼が帰った後、誠の携帯が静かに震えた。 画面に表示されたのは、『PIRO』の四文字だった。 (…ピロ) 玲二の知らない、誠だけの特別な呼び名。そのたった四文字が、玲二の心をガラスのように砕いた。 誠はゆっくりと携帯を手に取り、通話ボタンを押す。 「……はい」 玲二は息を呑んでその光景を見ていた。 自分や親友である潮の声にさえ反応しなかった誠が。犀川の電話には、出た。 電話口の犀川が何を話しているのかは聞こえない。誠の、あの氷のように固く絶望に満ちていた表情が、犀川の声を聞くうちに、ほんの少しずつ、本当にわずかに、緩んでいくのがわかった。 そして最後に「…はい。ありがとうございます」と、か細いけど確かな安堵の色を浮かべた声で呟いたのだ。 通話が切れ、誠が再び虚ろな人形へと戻っていく。 玲二はもう立っていられなくなり、その場に崩れ落ちた。 (なぜだ…?) 玲二の全身を、冷たい戦慄が駆け抜けた。 (僕の声も、潮さんの声も、誠には届かない。それなのに…なぜ、あの男の声だけが…!) (何が違う?僕と、あの人の、何が違うんだ…?) 答えは、分かりきっていた。 犀川は、誠に「仕事」と「未来」を与えられる。誠が最も大切にしてきた「プロデューサーとしての居場所」を守り、導くことができる。 では、僕は? 恋人である僕は、彼に何を与えられた?与えられたのは絶望と、キャリアを失いかねないほどの深い傷だけだ。 (あの男なら、誠を救えるというのか…?) (じゃあ、僕は…? 僕の存在は、もうあの人にとって、ただの痛みの記憶でしかないのか…?) 玲二は初めて、犀川洋昌という男に対して嫉妬や劣等感ではない、絶対的な敗北にも似た強烈な恐怖を覚えた。 自分の恋人が、今、自分以外の男の手にその魂ごと落ちようとしている。 その抗いがたい事実を、ただ呆然と見せつけられていることしかできなかった。 ◇◆◇◆◇ 崩落の月曜日 週明け、月曜の朝。 玲二はソファの硬い感触で目を覚ました。結局ベッドに入る気になれず、魂の抜け殻のようになった誠の横に座ったまま、うたた寝をしてしまっていた。 隣に誠の姿が見えず心臓が跳ねる。彼は寝室から出てきたところだった。週末の間ずっと部屋着だった彼が、きっちりとスーツに着替えている。 「誠さん、…会社行くんですか。気を付けて」 玲二が声をかけると、誠は無表情のまま顔だけをこちらに向けた。 (あ、こっち、向いた…) ただそれだけのことで、玲二の鼻の奥がツンと痛くなる。彼はその痛みに耐えるように、恋人の背中を見送った。 誠の中に、ほんの少しでも日常を取り戻そうとする意志が生まれた。その事実が、玲二に僅かな希望を与えてくれた。 彼はイベント明けで今日はオフだ。誠の回復の兆しを見てようやく安心して、週末から放置していた間瀬からのメッセージに返信を送ることができた。 『イベントお疲れ様でした。早々に帰ってしまってすみません。打ち上げは楽しまれましたか』 すぐに返信が来る。 『おう、お疲れ。ステディは生きてたか?w 大変だったな。落ち着いたら、例のイベンター様、ちゃんと紹介しろよ。じゃあな』 そのカラッとした文面に、玲二は少しだけ救われた気がした。 ◇◆◇◆◇ 外の光が、寝不足の目に突き刺さるようだった。 誠はオフィスにつくなり犀川の元へ向かい、深く頭を下げた。 「その、週末は…申し訳なかった。ピロ、ありがとうな」 声は掠れ、力が入っていない。本調子でないことは分かりきっているだろう。それでもなけなしの意地をかき集めて、誠はここに立っていた。 犀川はそんな誠をミーティングルームへと促す。 二人きりになった途端、犀川は心配そうに誠の顔を覗き込んだ。 「…ひどい顔だな、誠。まだ眠れていないのか」 その昔と変わらない呼び声に、誠は曖昧に頷くことしかできない。 犀川は、誠のモニターに映っていた映像を思い出しながら本題を切り出した。 「なあ、俺はお前が心配だよ。お前ほどの才能を、インフルエンサーの下請け仕事で疲弊させておくのは見ていられない」 その言葉は、弱った誠の心に誇りと痛みを同時に呼び覚ます。 犀川は身を乗り出し、声を潜めた。その瞳は獲物を見つけた獣のように鋭く、そして熱を帯びていた。 「俺が今立ち上げているヨーロッパのプロジェクトに来い。あれは、お前のための舞台だ」 「……」 「それに…」と犀川は続ける。 テーブルの上の冷え切った誠の手に、彼は自分の手のひらをそっと重ねた。その驚くほど熱い体温に、誠の肩が微かに震える。 「俺は今も昔も、お前の才能に惚れ込んでる。…それは、仕事の才能だけじゃない」 その、囁くような声。 望んでも玲二がくれない絶対的な肯定の言葉。冷え切った心に、犀川の熱があまりにも温かく染み渡ってくる。 誠の脳裏に、まだ広告代理店にいた七年前の記憶がよみがえっていた。新型自動車の発表イベントで、協力会社の誠が参加していたプロジェクトチームを率いていたプロデューサーは犀川だった。 開催を一週間後に控え、クライアントの鶴の一声で企画の根幹が土壇場で覆されてしまう。 深夜の会議室は通夜のような雰囲気に包まれ、誰もがもう間に合わないと諦めていた。誠の上司は怒鳴り散らし、チームは完全に崩壊寸前だった。 その絶望的な沈黙を破ったのは、当時まだ若手だった誠の一言だった。 「…もし、ステージを一つも使わないとしたら、どうでしょう」 それはこれまでの企画を全てゼロにする、あまりに突飛で無謀なアイデア。 当然、上司からは「馬鹿を言え!」と一蹴される。 その会議にイベント会社側の責任者として参加していた犀川は、それまで腕を組んで黙って議論の全てを聞いていた。 誠のアイデアが完全に否定され、会議が本当の「終わり」を迎えようとした、その時。 彼が初めて、静かに口を開いた。 「…面白い」 たった一言で、会議室の空気が変わった。 「生稲くんのそのアイデア。無謀じゃない。むしろ天才的だ。…俺に、三十分だけ時間をくれませんか」 そして犀川はホワイトボードの前に立つと、誠が放った荒削りで熱いだけのアイデアを一つひとつ拾い集め、驚くべきスピードと正確さで再構築してみせた。 必要な予算、スタッフの再配置、機材の代替案、そしてクライアントを納得させるための完璧なプレゼンテーションのロジック。 誠のただの「閃き」という名の光が、圧倒的な経験と冷静な思考力を持つ犀川によって、誰もが見惚れるような完璧で実行可能な「計画」という名の美しい光へと変わっていく。 誠は、その光景を呆然と見つめていた。 自分がただ闇雲に放っただけの『意見』を、犀川はこんなにも美しく力強い光に変えて、この絶望的な暗闇を照らし出してくれている。 その時、誠は悟ったのだ。 (…この人は、魔法使いみたいだ。俺の未熟な意見を、誰も道を間違えないように、完璧な光に変えてくれた) 深夜の会議がようやく終わり、クライアントも上司も満足げに帰っていった。 がらんとした会議室で、誠と犀川は二人きりで後片付けをしていた。 その静寂のなかで犀川は、ホワイトボードの残骸を消しながら、まるで独り言のように静かに呟いた。 「…なあ、誠くん」 「はい」 「君は、いつまで光を『広める』側でいるつもりだ?」 「え…」 それは広告代理店で働く誠の仕事そのものを指していた。犀川は誠の方に向き直る。その瞳はこれまで誠が見たどんな人間のものよりも深く、真剣だった。 「今日の会議だけじゃない。君と仕事をするのはこれで三度目だが、いつもそうだ。君のふとした一言や、常識に囚われないたった一つの『気づき』が、俺たちの行き詰った計画の突破口になってきた」 彼は、誠の才能を正確に、そして慈しむように言葉にしていく。 「君は作られたものをただ広めるだけの人間じゃない。君自身が物語を『創り出す』人間だ。その才能を、代理店という少し現場から遠い場所で燻らせておくのは、罪だ」 そのあまりにストレートな評価に、誠は言葉を失い慌てて首を横に振る。 「な、何言ってるんですか、犀川さん!今日の件だって、あなたの手腕があったからです!俺のただの思いつきを、あなたが形にしてくれただけじゃないですか。俺は、何も…」 「なにを言ってるんだ」 犀川は誠の謙遜を強い口調で遮った。 「俺は、お前のアイデアをほぼそのまま使っただけだ。…いいか、誠くん」 彼は誠の目の前まで歩み寄ると、その両肩にそっと手を置いた。 「太陽は、お前だよ」 「……!」 「俺は、そのあまりに強すぎる光を人々が見えるように調整して反射させるだけの、月だ。太陽がいなければ、月は輝けない」 誠は、息を呑んだ。 (創り出せる? 俺が?) 犀川は懐から一枚の名刺を取り出した。そして万年筆でその裏に何かを書き込むと、誠の胸ポケットにそっと差し込んだ。 「…うちの会社に来い、誠。俺の隣で、もっとでかい光を放ってみろ」 その声は命令ではなく、懇願に似ていた。 「いつでも連絡してこい。…待ってるから」 犀川は最後に悪戯っぽくふっと笑うと、誠に背を向け会議室を去っていった。 一人残された誠はしばらくの間、動けなかった。やがて震える指で胸ポケットの名刺を取り出す。その裏には、彼の個人的な携帯番号が力強い筆跡で記されていた。 それは、誠の人生を大きく変えることになる招待状だった。 (ああ、ダメだ…) 目の奥が、ツン、と熱くなる。こんな、簡単なことで。今、自分は泣きそうだなんて。 その自分自身の反応に、誠は愕然とした。 (俺は、何を考えている?玲二がいるのに。あいつを愛しているのに。別の男の優しさに、一瞬でも救いを求めてしまったのか? 俺はそんなに弱い人間だったのか――) そう思いながらも、朝帰りしてきた玲二から香った甘い匂いが鼻腔によみがえる。 『あなたとは違う』 誠は、弾かれたように犀川の手を振り払い、椅子から立ち上がった。 「……考え、させてくれ」 そう答えるのが、精一杯だった。 ◇◆◇◆◇ 犀川からの誘いは、暗闇の中に差し込んだ一筋の蜘蛛の糸のように思えた。 誠は混乱した頭を冷やすようにミーティングルームを出て、給湯室へと向かう。そのドアの隙間から、彼をさらに絶望の淵へと突き落とす、無遠慮なひそひそ話が聞こえてきてしまった。 「…ていうか、U-sagiのストーカーって、うちの生稲さんのことらしいよ」 「え、マジで? でも、今やってるコラボ『共響』のポップアップショップ担当してるから、一緒にいるだけじゃないの?」 「いや、見てよこれ。もっと前からだって。筋金入りだよ…ほら、噂の“惚れバレ写真”!」 「え、やだ、何これ、目がガチじゃん…」 「そういえば、『共響』コラボ担当って生稲さんが希望したんだよね」 「一年半前から狙ってたってこと!?」 同僚たちが回し見しているスマートフォンの画面が、受け渡しの瞬間、偶然にも誠の目に飛び込んでくる。 写真は不鮮明でよく見えなかった。その画面のレイアウトは、誠も知っている、悪意だけを煮詰めたようなネットのゴシップまとめサイトだった。 血の気が、さあっと引いていく。 誠は給湯室に入るのをやめ、亡霊のような足取りで自分のデスクへと戻った。 オフィスにはまだ午後の明るい光が差し込んでいる。誠の世界だけが急に色を失い、モノクロに変わってしまったかのようだった。 震える指で、ブラウザを開く。 検索窓に、まるで自分の罪状をタイプするかのように、一つずつ言葉を打ち込んでいった。 『U-sagi』 『ストーカー』 そして、最後の、最も見たくなかった言葉。 『惚れバレ』 エンターキーを押すと、画面には無数の悪意が羅列された。その一番上にある見覚えのある記事のタイトルを、彼はクリックした。 そこに、それはあった。 ネットで面白おかしく、そして残酷に再拡散されている、一年半前の嘉納のブランドパーティーでの自分の姿。 その下に続く、おびただしい数の罵詈雑言の奔流。 『うわ…目、こわ…』 『ガチ恋勢すぎて引くわ』 『こっからストーカーに進化かよw』 誠は全てのコメントを無視して、ただ写真の中の自分を見つめた。 恋する男の、だらしなく無防備な顔。自分では必死に隠しているつもりだった玲二への愛情の全てが、そこに誰の目にも明らかな形で晒されていた。 (ああ、そうか) パズルの最後のピースが、カチリ、と音を立てて嵌まった。 (あいつのファンが俺をストーカーと呼ぶ、その全ての原因は。俺の、この顔だったのか) 玲二じゃない。『maze』でも、デザイナーの彼女でもない。 原因は、自分自身だった。 好きで、好きで、どうしようもない気持ちが顔に出ていた。赤の他人が一目見ただけで分かるほど、あからさまに。 普段、自分はこんな顔で玲二を見ているのか。 俺の気持ち。俺のこのどうしようもない気持ちが、あいつの仕事を、あいつの人生を、邪魔している。 先ほど犀川が差し伸べてくれた救いの手。ヨーロッパという輝かしい逃げ道。 その全てが、遠い世界の出来事のように思えた。 逃げ道など、どこにもない。 俺自身のこの気持ちが、全ての元凶なのだから。 犀川の誘いがもたらした僅かな浮力は跡形もなく消え失せ、誠の心はより深く、光の届かない冷たい海の底へと沈んでいった。 ◇◆◇-◆◇ その日どうやって仕事を終えたのか、誠はほとんど覚えていない。 同僚たちの「お疲れ様」という声も、まるで厚いガラスの向こう側から聞こえるようにくぐもって現実感がなかった。ただ時計の針が定時を指したのをきっかけに、身体がオートマタのように動き出し、気づけば会社の外に出ていた。 夏の生暖かい夜風が、火照った頬を撫でる。 ネオンが煌めく街は仕事終わりの人々で賑わい、楽しそうな笑い声と飲食店の食欲をそそる匂いに満ちている。その全てが、今の誠にとっては別世界の出来事だった。 人々が生きる世界のすぐ隣を、自分だけが色のない幽霊になって歩いているような感覚。 (…帰ろう) 頭の中に、それ以外の言葉は浮かんでこなかった。 (家に帰って、何も考えずに眠ってしまいたい。今日のことも、玲二のことも、全部忘れて…) ただそれだけを呪文のように心の中で繰り返しながら、重い足取りで自宅へと向かっていた、その時だった。 ポケットの中で、携帯が短く震えた。 画面に表示されたのは、親友・潮からの短いメッセージだった。 『おい、生きてるか。なんかあったら、いつでも言えよ』 そのぶっきらぼうで、紛れもない優しさに満ちた言葉に、誠は思わず雑踏の中で足を止めた。そういえば週末にメッセージをくれていたのに、返事をしていなかった。 返事をしなければ。簡単な一言でいい。『大丈夫だ』と。 彼はメッセージの入力画面を開いて返信しようとした。震える親指はキーボードの上をただ彷徨うだけだった。 (なんて、返せばいい?) (『大丈夫だ』? ――嘘だ) (『助けてくれ』? ――何を。どう助けてほしいんだ。原因は、全て自分自身だというのに) (それに、潮に玲二のことを話せばまた『ほらみろ』とか『別れろ』とか言われるだけだ) たとえそうだったとしても、今はそんな言葉は聞きたくない。 自分のこの途方もない絶望と自己嫌悪を言葉にして親友に伝える。その行為がひどく億劫で、そして途方もなく難しいことに思えた。 やがて画面のバックライトがふっと消える。 誠はそのまま携帯をポケットに押し込むと、再びとぼとぼと歩き始めた。 親友からのたった一本の救命ロープを、自ら手放してしまったかのような深い無力感に襲われながら。 自宅マンションのエントランスへと続く最後の道を、ただ幽霊のように進んでいく。 あと少しで、この喧騒から逃れ、一人きりになれるはずの安全な場所へ。 彼はその時、まだ信じていた。 日が落ち、植え込みの影が濃くなったエントランスの前。誠がポケットから鍵を取り出そうとした、その時だった。 物陰から、ぬるり、と三つの人影が姿を現し、壁のように彼の前に立ちはだかった。 「……生稲 誠さん、ですよね?」 リーダー格の女が、ねっとりとした耳障りな声で尋ねる。その瞳は笑っていなかった。 誠が息を呑んだ瞬間、三台のスマートフォンが一斉に彼に向けられる。 そして、鼓膜を劈くようなシャッター音と共に閃光が、彼の網膜を、思考を、白く焼き切った。 「ウチらの U-sagi に、つきまとうのやめてくれますか」 「ストーカー」 「全部見てますから。あなたのこと」 侮蔑のこもった言葉が、矢のように次々と彼の心に突き刺さる。 誠は、何も言えなかった。 (…何か、言わなければ。違うと。やめろと) 口が動かない。体が、まるで地面に根を張ってしまったかのように鉛のように動かない。 怒りも恐怖もとうに通り越していた。ただ全身の力が指先から、足元から急速に抜けていくような、途方もない無力感。 彼は反論もせず逃げ出すことさえできず、ただそこに立ち尽くした。 やがて女たちは、彼のその無抵抗な姿に満足したように嘲るような笑みを浮かべると、「じゃあ」と言い残し夜の暗闇へとあっけなく消えていった。 後に残されたのは、視界で明滅するフラッシュの残像と、自分の喉の奥から聞こえる荒い呼吸の音だけ。 誠はゆっくりと、自分が帰るはずだった部屋を見上げた。 もう、自分の部屋のドアを開けることはできなかった。 あのドアの向こうはもう安全な場所ではなかった。彼らに場所を知られてしまった。聖域は、侵されたのだ。 彼は踵を返し、当てもなく光の溢れる夜の街へと再び歩き始めた。 行き交う人々の幸せそうな笑い声が、まるで違う世界の出来事のように聞こえる。 仕事も、プライバシーも、そして帰る家さえも失った。 ネオンの光が涙で滲む視界の先に見えた、「24時間営業」という看板。誠は吸い寄せられるようにそのネットカフェのドアを開けた。 狭く、薄暗い個室のリクライニングシートに倒れ込むように体を沈めた瞬間。 一日中かろうじて繋ぎ止めていた意識の糸が、ぷつり、と、あまりにもあっけなく切れた。 ――ああ、もう、無理だ。 彼の心は、その夜、完全に折れた。

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