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第3話
「失礼します! 水野慎一郎と申します。本日は、どうぞよろしくお願い致します」
長身で肩幅の広い筋肉質な好青年、水野が深々と頭を下げた。
低めの声は威勢が良いにも関わらず耳心地が良く、第一声だけで礼儀正しい好青年だと印象付けてくる。
大型犬のようながっしりとした体躯に、人懐っこそうでいて端正な顔立ち。爽やかで男らしい風貌はお姉さん世代から圧倒的な人気を誇っているらしく、その層からの人気だけはルキにも匹敵すると言われていた。
腕一本見ても、浮き出た血管が色気を放っていて、思わず視線が釘付けになる。
だが包み隠さず言うのであれば、かなり苦手なタイプで思わず怯んでしまった。
声が大きい人と、スポーツマンタイプは苦手だ。完全に偏見ではあるけれど、こういう人はノリを重視する事が多い。絶対、どうでも良い話を振ってきて、親しくも無いのに、ズケズケと踏み込んだ質問をしてくるのだ。
そんな勝手な水野像を脳が作り上げると、ついさっき入れたばかりのルキスイッチがオフに傾き始めてしまい、咄嗟の反応に困り竹内に視線をそろりと送る。
竹内は流生の救援依頼にすぐに気が付き、一歩前に出ると流生を庇うようにしながら名刺交換を始めた。
「ご丁寧にありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いいたします。私はルキのマネージャーをしております、竹内と申します。ルキ君も今日の顔合わせをとても楽しみにしておりました」
穏やかな竹内の声が響き、その背中を見つめながら呼吸を整えて息を呑む。
「初めまして、ルキです。竹内さんに言われちゃいましたけど、今日の事凄く楽しみにしてました! よろしくお願いしますねぇ」
出だしでいきなり躓いてしまった。
その影響が少しだけ表面に出てしまい、笑顔で陽気に喋れてはいるけれど、流生の手指は緊張で震えていて、それを後ろ手に隠す。
こんな事で一ヵ月耐えられるのかと自分を叱咤し、煩い鼓動を無視する。ルキは気さくで社交的だと脳裏で復唱し、自分なりの自己暗示をなんとか完遂させた。
目元に掛かる髪を指先で避けると満面の笑みを作って、水野に話しかける。
「水野君、おっきいですよねぇ。…、筋肉質だし、なんていうか男って感じで、格好良いなぁ」
流生は首を傾けると水野の顔を覗き込み、柔らかく微笑んで見せる。
相手が男でも女でも、ベータだろうがアルファでもオメガでも、この笑顔に心を許さない人なんていない。困った時はこの表情をすれば全てが上手くいく。…、はず。
流生の思惑通り水野の目元は僅かに赤く染まり、口元も僅かな強張りを見せる。
内心気が気では無いけれど、成功が目に見えた事で気分が上向きになり、安堵で足が震えそうだった。
「慎一郎君、ルキ君の大ファンなんですよ。今日もここに来るまでで、何度トイレに行ったかわからない位で」
「ぃ、岩田さん! ルキさんの前で止めて下さいっ! あぁ、もうっ、恥ずかしい…」
ただでさえ赤くなっていた水野の顔がさらに赤さを増し、水野のマネージャーである岩田が朗らかに笑っている傍で、水野が眉間に深く皺を刻ませて頭を抱えている。
この二人、仲良しなんだ…。
二人の関係が良好である証拠のようなやり取りが繰り広げられ、流生の唇も自然と弧を描いていた。
本当に、羨ましい。
そう思った瞬間にも流生の瞳は竹内を捉えていて、それに気付いた竹内が柔和な表情になり首を傾げてくる。
ダメだ、不意打ちは…、無理。
反射的に視線を逸らしてしまったが、頬は既に熱をもっていた。
ルキであるという自己暗示が解けてしまいそうな、そんな予感にシアーレッドの唇を結んで漏れ出そうな溜息を呑み込む。視線が落ちかけていて、このままじゃ不味いと思い切って視線を上げると水野と目が合った。
一部始終を見られていたかも?
そんな思惑もあって反射的に逸らしそうになるが、ここで逸らしたら不自然過ぎる。後退りしそうな気持ちを前に押し上げ、ルキらしい余裕の笑みに変えて見つめ返した。
「あれぇ? 水野君、どうしましたぁ?」
一瞬だけ水野の表情が固まった様に見えたけれど、あれはきっとルキの顔に見惚れたからだ。ネガティブ思考が捗りそうだったけれど、今の自分には火に油だ。
そんな風に思いながら、平静に努めて水野を見ていると、水野の肩が僅かに上がる。
「…あの、ルキさんっ、俺、今回の仕事本当に嬉しくて、絶対良い写真集にします! いや、ルキさんが被写体なんだから当たり前なんですが、…、足を引っ張らないように精一杯頑張りますので、…写真集が出来たら、サインを戴けないでしょうか⁉ ご検討、よろしくお願いしますっ!」
水野の神妙な面持ちが徐々に崩れ、頬を上気させながらハキハキとした口調で喋り、言葉尻と共に深々と頭を下げてきた。
何を言われるのかと内心ひやひやして身構えていたから、拍子抜けだった。
だけどこの展開は水野がルキのファンだと知っていたのもあり予想の範疇で、徐々に肩の力が抜けていくのがわかる。
「…あははっ、水野君って本当に面白い人ですねぇ。私も水野君に負けないように頑張らないとね。…それと、私と水野君って一歳しか歳変わらないじゃない? だから、そんなに畏まらないで仲良くしよぉ? 一ヵ月もずっと敬語とか、絶対疲れちゃうよ」
「…っ、ルキさんが良いなら喜んでっ!」
流生の年齢は二十五歳で、ルキの年齢設定も同じ。水野は一個下の二十四歳だと資料にあったのを思い出して話を振ってみると、水野は感極まったように眉を寄せ、さらには唇を震わせていた。
そんなにルキが好きなのか。
他人事のようにそう思うけれど、好意をストレートに表現されて悪い気はしない。
資料の中にあった水野の写真。窓の外を眺める水野の視線は何を憂いているのか。羽織っただけのシャツから見える逞しい胸板が大人の色気を醸し出していた事を思い出す。
あんな表情も出来るのに、今目の前にいる水野は幸せを噛みしめているのか拳を震わせていて、「死んでも良い」とか呟いていたりと、まるで別人だった。
こういう所が人気の秘訣なのかな。好青年って噂も間違いない感じだし。
冷静にそう感じ、ギャップ萌えという言葉が脳裏に浮かんで大いに納得する。
こんな水野君みたいな人でさえファンにしてしまうなんて、ルキって凄い。
水野の夢を壊さないよう、期待に添えられるように頑張ろうと、無邪気に笑う水野を見ていると謎の意欲が湧いてきた。
心の何処かで水野と顔合わせをした日の埋め合わせ的な、振替休日を期待していたけれど、そんなものは無かった。
貰えるはずだった休日。それが突然消えてしまったショックを引き摺っていると、竹内がなんとか予定を調整してくれて、半日休みを貰える事となった。
午前中からだった撮影が午後になっただけで、実質…? とか考えてしまうけれど、せっかく貰えた休みだからと深く考えない事にした。それに数時間とはいえ竹内が取ってくれた休みだから、その気持ちが嬉しい。
だが、何をして過ごそうかなと、前日の夜にベッドの中でウキウキしながら考えていたのに、目が覚めたのは昼近くだった。
時計を見た時は軽く絶望して、見開いた瞳が乾燥するんじゃないかという程に唖然とした。
何度もアラームを止めていた自分を心底恨んだが、流生の愛してやまない蟻達を撮影期間中預かってくれる先が見つかったと、竹内からのメッセージがスマートフォンに着ていて思わず「やった」と声が出る。
そして、それと同時に寝て終わった半休への負の感情が綺麗に吹き飛び、鼻歌交じりに出かける準備を始めていた。
今日は、…なんて読むかわからなかったブランドの撮影で、その一週間後には地獄の一ヵ月同居生活が始まる。
水野君が、お喋りじゃないと良いな。
そんな願望が自然と脳裏に浮かんでしまい溜息が零れるが、覚悟を決める他なかった。
あっと言う間に地獄の扉が開き、竹内の運転でホテルに向かう事となった。
宿泊先である高級ホテルはオーシャンビュ―で、流生と水野の部屋は最上階にあるツーベッドルームのスイートルームだ。
話の流れで竹内の泊まる部屋が階層違いだと知り、同じ階層で無い事に距離を感じて不安で顔が引き攣りそうだった。
本当は同じ階層で、出来れば同じ部屋にいて欲しい。
ルキが駄々を捏ねたら通りそうな話ではあるが、あまり竹内に拘ると、また週刊誌の的になりそうなので喉元で飲み込んだ。
ともかく、プライベートビ―チもあるらしく、基本的な撮影はギャラリーの無いそこになるという話を、上の空で聞いていた。
海に行きたいなんて思った事は、今まで生きていて一度もない。いや、海だけでなく、山にだって同じ位興味がない。
自分の部屋で好きに過ごしたい。
これが本音ではあるけれど、ルキの設定は流生とは真逆のアクティブだ。
部屋の広く取った窓からは海が一望出来るとスタッフにドヤ顔で言われ、ルキらしく歓声を上げて大袈裟に喜んで見せた。
だが水辺には何か良からぬものが出るんじゃないかと首の後ろがざわざわして、恐怖で密かに身震いをしながら手汗を拭っていた。
そして何よりも気掛かりなのが、水野と二人で一ヵ月間も一つの部屋で過ごさないといけない事だ。
水野は噂通りの良い人ではあったけれど、会うのは当日の今日が二回目で、親密度でいったら限りなくゼロに近い。
口下手でコミュニケーション下手という本性を隠しながら、いびきも寝相だって気を付けて過ごさなくていけない。
気が休まる時間はあるのかと考えると、窓の反射に映り込んだ自分の表情がルキらしからぬ険しさを滲ませていた。
苦行だ。気が重い…。
さらにはオメガだというのに、アルファの振りをしなくてはいけない。
ヒートがきたらどうしたら良いんだよ。
隣で運転している竹内に気付かれないように、何度目かの溜息を吐いた。
オメガにはヒートという発情期が数ヵ月に一度くる。その時期のオメガは性行為の事が思考の大半を占め、普段よりも濃厚なフェロモンを放っては、周りのアルファやベータを無意識に誘ってしまう。
オメガのフェロモンはベータよりもアルファの方が敏感に感じ取るらしく、ベータである水野は香水と抑制剤で誤魔化せるだろうけど、問題は周囲の人間ではなく流生自身の身体の事だ。
理由は単純で、抑制剤を服用したからといって性欲が完全に消えるわけではないから。パートナーがいない場合は自慰をして解消するという選択肢もあるにはあるけれど、流生のヒートは自慰をしたところで平静を保てるのも二時間がいいところ。
二時間もしたらすぐに悶々としてしまい、厭らしい妄想に駆られてしまうのだ。
根がむっつりなのでは? と自己分析し、赤面しつつ、誰にも迷惑はかけていないと開き直る事もしばしばあった。
その上、今の流生には自慰を自由に出来ない事情もあり、ヒートが来ない事を願うばかりだけれど、一ヵ月の滞在期間にヒートが当たる可能性はかなり高い。
考えれば考える程に落ち込んでしまい、ネガティブ思考に飲まれて表情が曇っていく。
「…、流生君、休んでいてもらって大丈夫ですからね」
運転に集中していると思っていた竹内に声を掛けられ、考えている事が見透かされて、不安が伝わってしまったのかと目が泳ぐ。
「ぁ…、はい、ありがとうございます」
こういう時は寝てしまった方が良い。起きていてもろくな事を考えないから。
そう思いながら目を閉じると、自分でもびっくりする程の速さで夢の中だった。
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