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第4話
少しの間だけ仮眠を取らせてもらうつもりで目を閉じたけれど、どうやら目的のホテルに着くまで爆睡してしまったらしい。
何度か肩を揺さぶられたけれど、目を開けられなかった。
それが恐らく数分前で、未だに微睡みから抜け出せない自分の名前を、再度呼ぶ声が聞こえてくる。
肩に感じる優しい感触が徐々に覚醒を促していくようで、起きている事を知らせようと半分寝ぼけながら唇を開いた。
「…、ぅん、…竹内、さん」
いつもならすぐにある返答がなくて、どうしたのだろうかと、椅子に凭れ掛かった体勢のままでゆっくりと瞳を開けと、予想外の人物の顔が飛び込んでくる。
「…ぁ、…ぃ、ごめんっ! 竹内さんに、車に乗っているルキさんを起こしてきて欲しいって言われて。ぁ、…あの、竹内さんはすぐ戻って来ると、思いますっ」
流生の視界に飛び込んできたのは顔を真っ赤にさせてあたふたと動揺している水野で、何故竹内が座っていた運転席に水野がいるのかという疑問は解決したがそれだけだった。
あまりにも突然の事過ぎて、目はバッチリ覚めたけれど頭の中は真っ白だ。
目の前の水野が大袈裟な程に酷く狼狽していて、それが余計に流生を混乱させる。
もしかして、寝ぼけてルキっぽくない事をしてしまった?
そんな不安に駆られたまま流生は目を見開き、二人で身動きも取れずにいる様はお互いが蛇に睨まれた蛙状態だった。
こんな状況だからかも知れないけれど、目が合うとすぐに逸らしたくなる性分だったのに、何故か水野からは目が離せない。
しかも目を逸らしたいと思っていない自分には驚愕で、駆け寄ってくる足音が大きくなっている事にやっと気が付くと我に返った。
…、竹内さんだ。
気持ちが一瞬にして楽になり、自分はルキなのだという自信が湧いてくる。
「水野君、そんなに見つめられると…、恥ずかしい、かなぁ」
わざとらしく照れた表情を作り、目を逸らしてからの上目遣いで、はにかんで見せた。
「ご、ごめんっ‼」
途端に水野の顔が真っ赤になり謝罪を口にすると、頭を車内でぶつけたりと忙しなくしながら運転席から退いた。
そして、それと入れ替わりで竹内が訝しげな顔を覗かせてくる。
「? 何か、ありましたか?」
「もう少し竹内さんが戻って来るのが遅かったら、何かあったかも知れません」
「え…⁉」
「…、えぇ⁉ な、何もしてませんよ!」
竹内の表情が凍り付いた瞬間にやり過ぎたかもと反省が過り、水野が目を白黒させて無罪を顔で訴えているのを見て、大笑いしている裏側で本格的に反省した。
「…っ、嘘だよぉ。冗談だってば」
だが、ここで普通に謝罪をしたらルキらしさが無い。だからひとしきり笑った後に涙を拭く仕草をして微笑んで見せると、その場の張り詰める様な空気も和らぎを見せた。
水野君、ごめんね。
スキャンダルは時に致命傷になりうる。特に人気のある時期なら尚更で、盛りに盛られてSNSにでも晒されたらキツイ。
熱愛報道を連発していた過去をもつ水野がルキに手を出したなんて噂が出回れば、マスコミは大喜びだろうけれど、ファンがどう感じるかはわからないからだ。
だから、本当にごめんね。
胸裏で謝罪を復唱し、水野と竹内が安堵の息を吐いたところで流生が車から降りる。
そして見計らった様なタイミングで水野のマネージャーの岩田も合流すると、四人でホテルへと向かう事にした。
今年オープン予定のホテルには流生達と撮影スタッフ、そしてホテルで勤務予定の従業員が数名いるのみで閑散としていた。設備等は整っている風で、内装だけ見るといつオープンしてもおかしくないように見えた。
オープンまでの計画や事情がどうなっているのかはわからないけれど、人の少ないホテルの中に入る事は初めてで気分が上がる。
未知の空間に入った高揚感もあるけれど、この広いホテルに対しての利用者数だ。
ワンフロアを使って鬼ごっこをしたとしても、隠れてやり過ごせる位少ない。
人のいない空間がそこら彼処にあるだろうと推測でき、ずっと誰かと一緒に居るなんて息が詰まると思っていた流生には好都合過ぎて、緩みそうな口元に力を籠めた。
とりあえずは避難先がありそうで、竹内の後ろに隠れてホッと胸を撫でおろす。
けれど油断は禁物で、ホテルの従業員に名前を呼ばれると内心ヒヤリとしながらも愛想良く手を振り、「お世話になりますぅ」と笑顔で応えた。
水野の方を一瞥すると、相変わらずの爽やか笑顔で手を振り返していた。
元気だな。そう思うと同時に、自然と短く息を吐いてしまう。
正直、この時点で既に疲れていた。
特に何があった訳でも無いけれど、笑顔を作る事がいつも以上にしんどく感じられるのは、気が重いからに他ならない。
エントランスを抜け、最上階に向かうエレベーターに乗ると流生と竹内、水野と岩田の四人だけとなった。
広くもない密室に、特に親しくもない水野と岩田もいる。
乗り込んですぐはしんと静まり返っていたが、竹内と岩田とでスケジュールの読み合わせが始まり、少しだけ緊張が解けた。
別に喋れと言われている訳でも無いのに、会話が無いと喋らなくてはいけないと思い込んでしまってソワソワしてしまう。
だから、話し声があるだけでそのプレッシャーから解放された気がして、気持ちに余裕が出来ていた。
でも、最上階はまだかなぁ…。
そんな事を思いながら点滅する階層に視線を遣り、視界の端に映り込む水野を一瞥すると、間の悪い事に目が合ってしまった。
すぐには言葉が出てこなくて息を呑んでしまうが、それは水野も同じだった様で二人同時に愛想笑いを浮かべる。
気まずい…。見るんじゃなかった。
今更そう思っても遅くて、こうなってしまった以上話をするしかない。
「思ったより広いホテルだよねぇ。今日はスケジュールあんまり入ってなかったと思ったし、空き時間にホテル探索しよっかなぁ」
「…、ホテル貸し切りみたいなもんですしねー。でも、撮影で使う階以外は入れないようにされてるみたいですよ」
「えぇ⁉ そうなの⁉ こ、こんなに広いのに勿体ないね。…、みんなでかくれんぼとかしたら絶対面白いと思ってたのになぁ」
「この広さでやったら絶対面白いですよ! 見つけた時のアドレナリン凄そう」
他愛の無い会話をしているうちに、エレベーターのドアが開いた。
流生の顔は終始笑顔だけれど、内心はどんよりとした曇り空だ。
ホテルが全開放でなかった事実が、心に重く圧し掛かる。
オアシスは蜃気楼だった。そんな気分だ。
壁に顔を向けて短く息を吐き、気を取り直そうと向き直ると視線を感じた。
「流生さん、大丈夫…、です?」
「っ…、ん? 大丈夫だよぉ」
どうやら水野に、流生らしからぬ真顔を見られてしまった可能性が高い。
動揺から顔が強張りそうになったけれど、愛想笑いをして首を振る。
「それなら、良いんだけど…」
大きな図体の水野が小首を傾げ、眉を寄せながら顔を覗き込んできて、ドキリとした。
大型犬の子犬を彷彿させるその仕草は、あざとさを感じさせないギリギリで、思わず息を呑んでしまい、これがギャップ萌えだと鼓動が逸る。
こんなのが素で出来るなんて、水野君って本当の良い人なんだろうな。
そんな風に思いながらも、流生の素顔を見られてしまった事を反省した。
部屋の前まで着くと竹内にドアを開けてもらい、その後に続いて中へと入る。
部屋の中は白を基調としたシンプルでクラシカルなデザインで統一されていて、間接照明が多く落ち着いた雰囲気だ。
所々に点在する花や緑もフェイクでは無く全て本物で手入れが行き届いていて、まさに高級ホテルのスイートルーム、といった風格があった。
だがこの部屋に踏み込んだ四人、全員が苦い顔をして立ち尽くす事になる。
その理由は全員一致している事だろうと予想できる程、誰しもが室内に視線を泳がせていた。
こんなの聞いてない…。口には出せないけれど、この一言に尽きる。
しんと静まり返った室内は重苦しくて気まずい空気が漂っていて、隣に立っていた水野を一瞥すると、流生と同じように緊張した面持ちをしていた。
考えてることは同じ。そんな風に思いながら短く息を吐くと、水野の唇が動く。
「あの、…この部屋って、なんで…、壁が無いんですか?」
水野が苦い顔のまま呟く様に溢し、それに対して岩田が困惑気味に眉を下げ、返す言葉が見つからないのか小さく唸る。
「…、バスルームは、ガラス張りなんだね」
ここぞとばかりに流生も半笑いで溢し、竹内も目元を抑えて悩まし気に息を吐いた。
ここまで開放的な部屋だなんて、きっと誰も聞いていない。
一歩足を踏み出した水野に続き、各々が室内を見て回り始めた。
壁が殆ど見当たらず、部屋の丁度中央辺りに位置しているリビングからは、全ての部屋の奥までが見渡せた。二つあるというトイレだけは死角にあり、不幸中の幸いといえる。
仲の良い二人のプライベートな雰囲気が欲しいとは聞いていたが、この空間に思春期の子がいる家族で泊れと言われて喜べるだろうか。いや、最低でも恋人同士のようなかなり親しい間柄でもない限り、ここに二人で泊る理由は無い。…、絶対に、無い。
このプライバシーの少ない、というよりほぼゼロの空間で、一ヵ月も他人と過ごすのかと思うだけで胃がキリキリする。
無意識に腹部を摩っていた手を止めて腕を組む仕草に変え、ソファに座ると竹内、水野、岩田の順で視線を巡らせた。
竹内は神妙な面持ちで室内を見て回っていて、水野と岩田は二人で何やら話している。
本当に仲良しで羨ましい。
水野と岩田の距離は内緒話でもしているかのように近くて、竹内と平行線の流生には目に毒だった。密かに溜息を吐いて窓の外へと視線を流すと、水野が竹内を呼ぶ声が聞こえて、流生も顔を水野に顔を向ける。
竹内が合流すると、水野が口を開いた。
「もし良かったらなんですけど、二つある寝室…ぽいスペースを、ルキさんと俺の部屋として分けるのはどうですか? どっちも部屋の隅で離れてますし、俺はともかくルキさんが落ち着かないんじゃないかなって。写真集としては仲が良いって設定ですけど、急に一緒に寝ろなんて難しいじゃないですか」
水野がリビングから一番近いベッドルームと、少し離れた浴室の近くにあるベッドルームを指差し、流生をはじめとする全員の顔を見て「どうですか?」と小首を傾げた。
嫌だと思いながらも、なるようにしかならないと諦めていた流生にとって、水野の提案は青天の霹靂で、一気に水野の株が上がる。
気遣いの出来る好青年。真の好青年だからこその提案だと、自分より遙かに大人な水野に心底感心した。
流生も数回頷いて同意を示し、さらなる助け舟欲しさに竹内に視線を送る。
「…、そうですね。ルキ君は眠る時は一人でないと落ち着きませんし、寝室はきっちり分けましょうか。プライベートをイメージした撮影に関しては、その時にどちらかのベッドに移動したら良い事ですし」
「ですね。こんな空間ですし、尚更プライバシーの確保は必要かと思います。…それに、うちの慎一郎君が、いびきをかいてご迷惑をかけるかも知れません」
「い、岩田さんっ!」
「え? いびきを聞かれるのが嫌で言ってるんじゃないの?」
「ここでそれを言わなくても良いじゃないですか…っ‼」
突然話を振られた水野が顔を真っ赤にし、岩田に小声で反論している姿は微笑ましくて自然と唇が弧を描く。
一時はどうなる事かと思ったけれど、和やかな雰囲気で話が纏まり解散となった。
リビングから一番近いキングサイズベッドの周辺が水野のスペースで、もう一つの浴室に近いセミダブルベッドが二つ並ぶスペースが流生の場所となった。
流生の部屋のすぐ傍にはガラス張りの浴室があり、浴室側のベッドに寝転がって顔を向けるだけで浴室の中が丸見えで、…後はお察しだ。
ここ、絶対健全な仲で泊る場所じゃない。
なんとも言えない気恥ずかしさから浴室から顔を背け、使用していないと主張したくてベッドの上に荷物を広げた。
肌の手入れに必要な基礎化粧品や例の香水瓶等をドレッサーに置き、他に持ってきた物といえば下着と部屋着位なもの。バスローブは部屋にあるとは聞いているけれど、寝相には自信がない為、使用は避けたところだ。
気が重すぎて、何度目かの溜息が零れた。
荷物整理も呆気なく終わってしまい、何気なくリビングへと視線を遣ると、視界の端に屈んでいる様子の水野が映る。
本当に、せめて壁だけは欲しかった…。
そんな風に思うと、辛すぎて笑えてきた。
流生には現実逃避と気晴らしが必要だと脳が無意識に判断した様で、視線がスマートフォンに向けられる。
背の高い観葉植物の隙間から目を覗かせ水野の姿を一瞥すると、一目散に部屋の奥側のベッドに座ってスマートフォンに触れた。
ディスプレイに映るのはペットカメラの映像で、大切な蟻達が元気に蠢いている姿を捉えた瞬間に安堵の息を吐く。
元気そう。あぁ、…癒される。
自然と口元が緩んでしまい、感嘆の声を押し殺しながら凝視していた。
少しの間だけ癒しの時間をと思っていたのに、バッテリー残量が半分以下になっていて室内も鮮やかな橙色に染まっていた。
ヤバい、今何時だろう…?
普段なら大慌てなところだけれど、久しぶりに見る夕焼けに流生は心奪われた様に釘付けになっていて、不意に呼ばれた自分の名前に身体が大きく跳ね上がる。
完全に油断していた。
「ひぃっ…!」と上擦った声が洩れてしまい、反射的に手で口を覆った。
「ご、ごめんなさいっ」
「わ、私の方こそごめんねぇ。…、ボーッとしちゃって。…それより、水野君とはこれを機会に仲良くなりたいし、…、そろそろ、敬語止めよぉ?」
可愛さの欠片もない悲鳴を上げてしまった失態を誤魔化す為、思い出したかの様な顔を作り、上目遣いに提案をしてみせた。
あざとい表情の裏で鼓動が大きく高鳴る。気を抜いたら顔が強張ってしまいそうで、必死さを隠しながら水野の様子を窺う。
目を丸くして唇を薄く開いていた水野の表情が徐々に緩んでいき、頬が紅潮し始めたかと思うと、照れ笑いに変わっていく。
「そう、だよね。前にも、そう言ってもらったのに、緊張しちゃって。…、という事で、今から敬語止めます! …ぁ、止める」
水野が頭を掻きながらはにかんだような笑顔を向けてきて、凌げたのだと確信した。
「うん。一ヵ月もあるし、気楽にいこ! ところでぇ、何か用だった?」
未だに鼓動は煩いままだけれど、とりあえずは一安心で、水野が来た理由が気になり訊いてみる事にした。
「…、えっと、夕食どうするって岩田さんから連絡があって、…、ルキさん、何か希望とか、…あるかなって。あ、勿論、竹内さんも一緒だから」
「うーん、夕食の希望ねぇ。美味しいフルーツがデザートにあればメインは何でも良いかなぁ。水野君は何が食べたい?」
流生自身、食にはあまり興味がなくて、ルキも私生活に関する情報は殆ど表には出していない。好きな食べ物は果物全般とプロフィールに載せてはいるけれどメインとなると話は別で、何と答えるのがベストなのか悩んでしまい、水野に質問を返した。
「あぁ、ルキさんフルーツ好きって書いてあった、よね。…、俺は、…俺に訊くと肉一択になるけど、ルキさん、良いの?」
どことなくたどたどしく聞こえる水野の台詞が妙に可笑しくて、演技ではない自然な笑みが浮かぶと「良いよ」と即答していた。
そんな自分には少しだけ驚愕するが、好青年相手で調子が狂っているのだと思い、深く考えもしなかった。
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