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第6話
「ルキさーん、おはようございます! 起きて下さい、朝食の時間だよー」
本日のアラームは、良く通る爽やかな水野の声だった。
寝ぼけ眼のままバスルームへと向かい、歯を磨いて顔を洗う。寝起きで思うように声が出なかったが、壁が無い事が功を成し流生が起きた事は返事をせずとも伝わったようだ。
流生が自分のスペースへと戻ると、タイミングを見計らった様に竹内がやってきた。
「ルキ君、おはようございます。体調はいかがですか?」
「竹内さん、…おはよう、ございます。…朝が弱いのは、いつもの事なので」
実の所、昨夜は部屋の出入りを繰り返す水野が気になってしまい、流生が浴室を使う事ができたのは外が少し明るくなってからで、完全な睡眠不足だった。
流生の返答と充血した瞳を目の当たりにした竹内は眉を寄せ、浮かない顔へと変わる。顔にさえ出ていなければ「よく眠れた」と言って竹内を安心させたいのだけれど、言い訳無用に瞼も重く、笑って誤魔化した。
なかなか誤魔化されてくれない竹内が「体調が悪くなったらすぐに私に」と気遣ってくれて、それだけで元気が出る。
竹内に連れられてリビングへと行き、水野と岩田に元気良くルキとして挨拶をした。
水野と目を合わせる事に気まずさはあったけれど、水野は昨夜の事は知らない。それに今の自分はルキなのだと言い聞かせて、笑顔を振りまいて乗り切ろうと意気込む。
朝から食欲旺盛な水野とは違い、流生は食が細い。ルキの食事量も公表していないわけだしと、ルキ専用で用意して貰った果物と野菜のスムージーに口を付けていると、また強い視線を感じた。
こんな朝早くからまた心霊現象かと慄いていると、水野を窘める岩田の声が耳に入る。
「慎一郎君、いくらルキさんがノーメイクでも綺麗だからって、それは見すぎだよ」
図らずも水野へと視線を向けると、赤面して目を見開いた水野と目が合った。
「ご、ごめんね」
眉を八の字にして謝罪を口にする水野は本当に申し訳なさそうで、叱られた大型犬が項垂れている様にも見える。
「別に構わないよぉ。もっと、見て見て!」
庇ってあげたい。そんな風に思えた事なんて滅多に無いけれど、口から突いて出た言葉は水野を肯定していた。
「ルキ君もこう言ってますし、水野君もどうぞ遠慮なくご覧ください」
「慎一郎君、ルキさんと竹内さんが優しくて本当に良かったね」
「岩田さんだけが、本っ当に意地悪ですね」
未だ頬を赤くしたままの水野が岩田をジト目で見つめ力強く抗議を口にするも、場の雰囲気は穏やかなものとなり笑いが起きる。
宥めている岩田を無視して食事を続ける水野がどうにも可愛らしく見えて、不意に笑みが零れてしまう。
昨夜の出来事はただの事故だと自分に言い聞かせ、二度と水野でああいう妄想をしないと密かに胸裏で固く誓った。
朝食とスケジュール連絡が終わり、一時間後の撮影開始までは自由時間となった。
一時間にも満たない自由時間で何が出来るわけでも無く、流生のスペースに戻ると丁寧なスキンケアと同様、日課としているストレッチをする事にした。
ルキを演じ続けている日々は緊張の連続だから、強張った身体を伸ばすだけでもかなりの気分転換になる。限界まで伸ばした腕をゆっくりと下ろし、大きく息を吐くと今日も一日頑張れそうな気がしてきた。
集合時間が迫ってくるとドレッサーの前へと移動し、色とりどりのお洒落なボトルの中から一際目立つ、白薔薇がモチーフの香水瓶を摘み上げる。
ルキがイメージキャラクターを務めているブランドから出ているこの香水が、オメガである流生の必需品だった。
この香水瓶の中身は既に流生のフェロモンを中和する物にすり替わっていて、いくら振りかけても強く香り過ぎる事が無いようにまで調整もされていた。
これは香水をスマートに身に纏う為のサポートが目的ではあるけれど、フェロモンが気になって付け過ぎてしまう、今の時期の流生にとっては大変重宝している仕様だった。
流生のフェロモンがどれだけ周囲に影響を及ぼすのかは自分ではわからない。だから、とにかく全身に、大量に吹き付けた。
そして最後の仕上げにと、抑制剤を口へと放り込み、水で流し込む。
ヒートが数日中に来てしまう事は間違いない。だけどそれがいつなのかは、自分の身体の事なのに定かではない。この時期が毎度の事ながら一番神経を使うのだ。
でも、きっと、…大丈夫。
鏡の前で小さく息を吐き、前を見据えると自信ありそうな面持ちのルキと目が合う。内心どう思っていようとも、澄ました顔さえしていれば流生はルキだ。
「…、大丈夫」
自分を鼓舞したくて自然に口から出た台詞の裏に、竹内の顔が見えた気がした。ルキを止めてしまったら、竹内が傍にいてくる理由がなくなる。不純な動機だと自覚はしているけれど、流生にはそれが全てだった。
この日の撮影も滞りなく進み、天気にも恵まれた順調な一週間が過ぎていく。
抑制剤を増やした効果もあってか、今のところの体調に問題は無い。ヒートが今日にでも来てしまうのではないかというストレスで落ち着かないし胃も微かに痛むが、相変わらず部屋には殆どいない水野のおかげで、大分気持ちは楽になっていた。
そして本日の撮影場所は、緑豊かな中庭とホテルのエントランス。初めて訪れた体での撮影で、流生は夏らしいノースリーブのブラウスに黒のパンツとヒールのある華奢なサンダル。対する水野は白いティーシャツにジーンズと、スニーカーというシンプルでカジュアルな格好だ。
「今日の天気も最高!」
「そうだけどぉ、日差し強すぎるよぉ」
太陽光を浴びて益々元気な水野の喉仏から鎖骨のラインが目に入ると、ついあの夜のシャワーシーンが脳裏を過ってしまう。日差しを避ける仕草をして、水野を視界から隠すと少しだけ鼓動が落ち着く気がした。
水野君の、昼と夜の顔の差は心臓に悪い。
別に水野が何をしたわけでは無いのだけれど、無意識のギャップ程、込み上げるものがある気がしてならないのだ。
とにかく油断は禁物で、今日は人見知りの初心に帰って、水野の鼻柱だけを見る事に徹しようと決めた。
手ぶらで軽快に歩き周り「早く、早くぅ」と手を振る流生と、二人分の荷物を軽々と運ぶ爽やかな笑顔が眩しい水野。中庭での撮影では花の香りを二人で嗅いだりという、距離の近い撮影もあって内心大慌てだった。
そんな本日の撮影も日暮れと共に終了し、やりきった達成感で清々しい気分だ。
だが履き慣れているとは言え、一日中ヒールで歩き周った脚は怠くて痛い。
部屋に戻る途中で、岩田が四人で外食に行かないかと誘ってくれたけれど、とてもそんな気分になれない程にクタクタで、強い日差しを浴びた肌のメンテナンスがしたいと理由を付けて丁重にお断りをした。
肌のメンテナンスよりも、ただ早く足を投げ出して横になりたい。それだけだった。
嘘をついてしまった罪悪感は勿論あったけれど、いざ一人で部屋に戻るとドアを開けた瞬間からの開放感が堪らなく心地が良い。
足が痛むのも忘れて小走りして、気の向くままにソファに寝転がってみると、心苦しさも疲れも全てが吹き飛ぶ様だった。
「あぁ…、快適すぎる」
気分が高揚しているせいか、吐息交じりに呟く声が歓喜に震えていた。
肌のメンテナンスを理由にした手前、早々にメイクを落としてパックをするか、人目を気にせずバスボムを入れた風呂に浸かるのが得策かも知れない。
だが、吹き飛んだと思った疲労が爪先から徐々に上がってきて、瞼が重くなってくると抗えなかった。
うっかり寝落ちしてしまった。
寝返りをした瞬間にそう思い、流生の睫毛が僅かに震えると目を覚ます。
またしても流生の身体にはタオルケットが掛けられていて、今回はすぐに竹内の顔が脳裏に浮かび、照れ笑いと共に口元が綻ぶ。
きっと、様子を見に来てくれたんだ。
そんな事を思いつつ身体を起こし、薄暗い室内を見回す。寝ぼけているから特に何が気になるわけでも無いのだけれど、壁掛け時計に目が留まり、針の指し示す時間に変な声が出てしまった。
「ひぇっ…⁉ よ、よ、四時ぃ⁉」
ほんの少しの仮眠のつもりだった。
だが現実はそんな可愛いものでは無くて、動揺から心拍数が上昇すると眠気も消えた。
そっとしておいてくれた優しさは有難いけれど、こんな時間までとなるとただの放置にしか思えない。真顔でそんな事を思うと悲しくなり、苦笑いが洩れた。
それにしても別室の竹内は兎も角、同室の水野にも放っておかれた事に憤りを感じて、胸の内がモヤモヤでいっぱいだ。
流生のスペースに戻ろうとふらつきながら立ち上がり、タオルケットを拾い上げた視線の先に水野のベッドが目に入る。
「…、あれ?」
四時といえば早朝で、目も慣れてきた事もあって視界はさほど悪くは無い。
だから、水野のベッドの違和感には首を傾げてしまい、何ともなしに近付くと、やはりベッドに人が寝ている様子が無かった。
「ま、まだ帰って来てないんだ…っ」
水野は夜遅く、というよりも、流生が「おやすみぃ」と言って照明を消した数分後に部屋を出て行く事が多々ある。
水野も大人だし、何時に何処へ行くのも自由。親しい間柄でも無いし、余計な詮索は無用だ。と、頭では理解しているが、頻度の高さに好奇心は確実に刺激されていた。
いけないとはわかっているのに、自然と水野のベッドに足が向いてしまう。周囲を気にしてキョロキョロしてしまうのは、覗く気満々だからだ。
だが、いざ水野のスペースに足を踏み入れようとすると、その瞬間部屋のドアがゆっくりと開く音が聞こえて身体が大きく跳ねる。
ヤバい、ヤバい、ヤバい…!
心の声が早口で口から洩れ、無駄に右往左往しながらソファへと戻り寝転がった。
廊下を歩く靴音も徐々に大きくなってくるし、絶体絶命だ。
恐らく水野だと思われる足音に背筋が凍り付き、物音を立てないように注意を払いつつタオルケットを頭から被る。
鼓動が速くて煩い。緊張で息が上がりそうになるのを必死に堪え、目を開けながら寝息を装って周囲を探った。
全身には薄っすら汗が滲んできて、水野がまっすぐベッドに行ってくれる事を、ただ願うばかりだ。
それなのに、足音は近付いて来る。
寝たふりなんてしないで、普通にルキとして接したら良かったのかも。そんな風に思っても後の祭りで、寝息の演技を続けた。
「なんだよ。…ったく、まだここで寝てんのか。風邪ひかれたら困るってのによ」
上から降ってきた声に、流生の表情が驚愕を表したまま硬直する。
そのすぐ後にやってきたのは酷い動揺で、聞き間違え等ではない、紛れも無い水野の声なのに、口調と声のトーンが完全に別人のそれで思わず息を呑んでしまった。
頭の中が真っ白になりながらタオルケットの中で身体を丸め、思い出したかのように寝息の演技を続けた。
好青年さの微塵も無い、水野の呆れ果てた様な短い吐息に首の後ろがゾクゾクする。
早く、早く寝た方が良いよ…。
ギュッと強く目を閉じて流生がそう念じると、水野の気配が徐々に気配が遠ざかって行き、呼吸一つするにも苛まれていた気持ちが幾分か楽になってきた。
だが、流生が安堵の息を吐き出そうとした瞬間、予想外に水野の足音が止まった。
神経を集中させ耳を澄ましていると、水野が鼻をスンスンと鳴らす音が聞こえてきて、再び窮地に立たされた気分になる。
水野はベータだがオメガのフェロモンに無反応なわけでは無く、アルファよりは鈍いというだけだ。生きた心地がしなかった。
万が一の、最悪の事態が脳裏にポンポンと浮かんでしまうのは、素がネガティブ思考だから。流生がいる芸能事務所が倒産するところまで想像し終わると、暑いわけでも無いのに背中に汗が伝ってくる。
水野の足音が流生のいるソファのすぐ傍でピタリと止まり、祈るような気持ちで流生が目を閉じていると、水野が困惑しているかのように小さく唸った。
「本当ならベッドまで運んでやりてーけど、勝手に触れるのは事務所的に不味いよな」
水野の独り言は流生を放置している言い訳にも聞こえ、口は悪いけれど流生の知っている優しい水野だとホッとした。
流生もルキを演じているし、水野も同じような事情で水野慎一郎という好青年を作っているのかも知れない。それなら余計に、見て見ぬ振りをしなければいけない。
同じ境遇かも知れないという想像が、えも言われぬ親近感を思わせてきた。
ともかく水野はリビングから遠ざかって行ったから、鼻をスンスンと鳴らしていた事も流生の思い違いだろう。
間もなくして聞こえてきたシャワーの音にはギョッとしてしまったが、同時に水野が傍にいないと確信も出来て脱力した。
水野君も苦労してるんだね。
そんな風に考える余裕も出来ると、新鮮な空気が欲しくなり、流生がタオルケットから顔を覗かせると、微かな煙草の匂いに鼻がピクピクと反応する。
水野君って煙草吸うんだっけ?
ふと脳裏に浮かんだのは事前に読んでいた水野の資料だったが、水野の口の悪さを体験した直後では説得力が無い。
だがら、この時は気にも留めなかった。
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