7 / 18

第7話

 あの水野の口が実は悪かった。性格もきっと違うはず。  けれど、流生もルキとして仕事をしているし、きっとこの業界には他にもそういう人は沢山いる、と思う。  だから気にしない様にしようと努めていたのだけれど、あの時の水野の低い声が頭から離れてくれなかった。  荒っぽくも聞こえるあの口調に少しだけ恐怖を感じてしまい、水野を見る度に身構えてしまって鼓動も逸る。  別に口が悪いからと言って危害を加えてくるわけでは無いとわかっているけれど、流生の本能がとにかく苦手だと言っていた。  けれど、今流生の目の前にいる水野は、初対面の時と変わらない物腰で笑っている。 「ルキさん、おはよう。もうすぐ竹内さんと岩田さんも来るってさ」 「水野君、おはよぉ。今日はお腹減ってるからいっぱい食べちゃおうかなぁ」 「…、珍しい。でも、ルキさんはもっと食べた方が良いと思うよ」  約束だとか決まり事では無いのだけれど、食事は基本的に四人で取る事が多かった。  竹内以外と二人きりになると緊張してしまって、きっと食事も喉を通らない。  だからとても助かってはいるのだけれど、今日は竹内が傍にいても気まずさを拭いきれなかった。  というのも、あの夜に水野から微かに感じた煙草と同じ匂いを岩田が纏っていたから。 「岩田さんって、煙草吸うんですかぁ?」 「えぇ。まぁ、そんなに頻度は高くありませんけどね。…どうかしましたか?」 「いえ、…ぁ」  確信欲しさで我慢できずに訊いてしまい、どうして予想していなかったのか。岩田に不思議そうな顔をされて問い返されると、とっさの返答が出来ずに竹内の顔を横目で見て助けを求める。  竹内はすぐに救援信号を察してくれた様で、コーヒーカップをテーブルに置いた。 「…、ルキ君も煙草吸いたくなってしまいましたか? 肌に悪いからと禁煙していたと思いますが」  柔和に微笑む竹内がそう言うと、岩田も「あぁ」と納得した様に頷く。  さすが竹内さん…!  竹内に言われるまで、ルキが極稀に煙草を吸うという設定を忘れていてゾッとした。 「竹内さんにはお見通しでしたかぁ。…、実はちょっと、恋しくなってました」 「ルキさん、煙草は身体に良くないですよ。吸わない方が良いです」  眉を寄せて笑ってみせると、水野が難しい顔をして会話に参加してくる。  この水野の台詞が岩田と水野の密会説を濃厚にさせ、竹内の顔が視界に映ると胸が少しだけ痛む気がした。  少しだけ焦る場面はあったけれど、テーブルの上の皿も綺麗になり解散の空気が漂う。  ここ最近は竹内と二人きりで話す機会もあまりなく、水野と岩田の仲の良さに少しだけ中てられた事もあって、いつもより積極的になっていた気がした。  丁度話さないといけない事があっただけではあるけれど、あまり気の進まない話題にこんなに心が躍るのは初めてだった。 「あのぉ、竹内さん。少しだけ、お時間良いですかぁ?」 「えぇ、勿論です」  竹内に寄り添うように身体を傾け内緒話をして、ベランダに誘った。  遠出したと感じさせる潮風に目を細め、後ろ手に窓を閉る。竹内の様子を窺う様に一瞥すると、竹内の髪が緩やかに揺れていた。  窓の向こう側には水野と岩田がいるけれど、背を向けてしまえば二人きり。この状況を望んだのは流生自身だと言うのに、吐いた息が緊張で震える。  竹内は急かしてくる事も無く、ベランダの柵に腕を掛けながら、流生が口を開くのを穏やかな表情のまま待っていてくれていた。  やっと心の準備が出来て、乾いた唇を軽く結ぶと竹内に向き直る。 「すみません、実は…、竹内さんにお話ししておかないといけない事が、ありまして」 「おや、なんでしょうか?」  ベランダの柵から手を離した竹内の手指が、風に流されて睫毛の近くを流れる流生の髪に触れた。  目に入るのを防いでくれただけ。そんな事は百も承知なのに、睫毛が震えて、頬が火照るのを感じる。 「すみません、目に入りそうでしたので」 「ぁ…、いえ、ありがとうございます」  自然と下向きになっていた視線を上げて、困惑気味の竹内に向けて左右に首を振った。  鼓動が煩くて、波の音が聞こえない。  でも、そんな風に思っている事を悟られるわけにもいかずに意を決して口を開いた。 「ぁの、…、実は、僕、そろそろ、…ヒートが、来てしまいそう、です」  ヒートの予兆が出た時は竹内に知らせなければならない。本当はもっと早く話した方が良かったのだろうけれど、ヒート時に自分の身体がどうなるのかを熟知しているだけに話題に出す事を避けてしまっていた。  もうすぐ発情しますと宣言するような感覚もあって、とにかく言い出し辛いのだ。  一瞬竹内の眉間に緩く皺が刻まれ、その後瞳が神妙なものへと変わり、流生に耳打ちをするかの様に顔を近づけてきた。 「…、失礼します」  竹内の気配が急に濃いものへと変わり、竹内から香る匂いが鼻孔を擽る。項、耳、首筋へと竹内の息遣いが移動していく感覚を肌で感じ、触れそうで触れる事の無い熱に思わず首を竦めると唇を結んだ。  これはただのフェロモンチェック。何回もして貰ってるし、竹内さんに他意は無い。  そんな事を思いながら視線を敢えて海へと向けるが、視覚以外は竹内に釘付けだった。 「流生君、すみません。もう少しだけ、…、我慢して下さい」  耳元で普通の声量で話されたら煩い。だからこその竹内の囁きが妙に甘く聞こえてしまい、喉が上下する事を止められずに一人で赤面してしまう。  こんな些細な事で過敏になってしまうのも、きっとヒートのせいだ。  そう言い訳をしたいけれど、口にしたらドツボに嵌りそうで喉元で呑み込んだ。  そうこうしていると竹内の気配が遠ざかっていき、安堵と共に心が冷えていく気がしてしまう自分は我儘すぎると息を吐いた。 「…、私では流生君のフェロモンを感じ取る事は出来ませんでした。ですので、ベータである水野君も問題無いかと思います。ただ、香水の効果が大きいかと思います。付け忘れには注意して下さいね」  流生から一歩下がった竹内に神妙な声音で言われ、まだ落ち着きそうもない胸の内を無視して頷いて見せる。 「ありがとうございました。ぁ…、すみません、何度もして貰ってるのに、慣れなくて」 「…、いえ、私もこの行為には内心、…照れているのでお相子です」  竹内を近くに感じる事は嫌じゃない。竹内に限ってそんな風に思う事は無いだろうとわかってはいるけれど、口にせずにはいられなかった。  竹内も片眉を下げながら冗談交じりに言って笑ってくれて、その笑顔が眩しくて、胸が締め付けられながらも釣られて笑う風を装った。  だが、こんな甘酸っぱい雰囲気も、竹内の浮かない声が終わりを告げる。 「流生君、社長にも話を通さなければなりませんが、…、よろしいですか?」  流生の肩が僅かに跳ねてしまったのは、社長という単語のせい。温かかった気持ちが急速に冷えていくと同時に両手が無意識に緩く拳を作っていて、緊張感で支配される。 「…、はい。大丈夫です」 ルキでいる時間が長くなったせいか、反射的に嘘も付けるようになっていた。  何処に出しても申し分ない笑顔を竹内に向けたつもりだったが、竹内の表情からは苦悩が滲み出ていて、見透かされている事を実感させられる。  でも、どうにもならないのが現実だ。  流生をここまで押し上げてくれたのは社長で、ルキというキャラクターを考案したのも社長だった。社長自らが唯一プロデュースに乗り出した流生への力の入れようは一部からは目に余るという批判もあった程で、当初は失敗した際の損失がどうとか、そんな陰口紛いの事も耳にした事があった。  けれどルキはブレイクし、今に至っているのだから事務所の力は計り知れない。当然のようにその「一部の人」の顔は見ていない。  ルキの秘密はトップシークレット扱いになり、ルキの秘密保持の為に決してアルファを近づけないとまで徹底されていた。 だがこれが上辺の理由だと、社長に頭の上がらない近しい者と、最後まで反対していた竹内は知っている。  流生の下腹部にある貞操帯の所有者は社長で、この貞操帯はアルファの唾液だけが鍵という仕様で作られている。アルファは希少で滅多に会う事は無い。だから鍵が外される事は無いに等しいが、流生を寵愛している社長は独り占めしたいが為だけに、用心深くアルファを遠ざけているのだ。  本社のある首都圏から遠いこの海辺のホテルにいる間だけは、社長室でヒートの度に行われていた行為を忘れたい。そう思っていたけれど、ヒートが来てしまったらアルファである社長を頼らざるを得なかった。 「流生君、力に慣れなくて、申し訳ない」 「そんな風に言わないで下さい。…、本当に、僕は大丈夫です」  海の香りに頬を撫でられると鼻の奥がツンと痛む気がしたのに、なぜだかさっきよりも上手く笑えた気がした。  竹内から連絡を受けた社長が、すぐに流生のもとへと来る事となった。  それを聞いてからというもの溜息の回数が増え、ルキを演じている時間が良い気分転換になる程だった。 「ルキ君、今日も綺麗で可愛い。キュンキュンしちゃうねー!」 「あっりがとーぉ!」  妙に陽気なカメラマンさんからの、少しだけ反応に困る褒め言葉にも動じていない。片腕が自然と上がり、ウィンクを返す事に抵抗が無い。いつもは苦手だとか余計な事を考えてしまうのに、他人事の様な感覚がする。  そして、ついに社長がホテルに到着してしまった。  ルキを演じて元気良く社長の隣に立つと顔が近付いてきて、反射的に後退りそうになる足に力を入れた。 「ルキ君、竹内から聞いているよ」 「すみません、こんな遠くまで…」 「良いんだよ。あまり長くは居られないけど、楽しみにしてる」  柔和な雰囲気を纏った、誰が見ても紳士な社長であるのに、話しかけられると息苦しさを感じた。それが嫌悪なのか、期待からなのかはわからないけれど、感情がぐちゃぐちゃになって、諦めろと声が聞こえた気がした。  心の休まる時間が殆ど無い日々に、さらなるストレスが加えられて余裕がいよいよ無くなってくる。…、肌荒れが心配だった。  撮影が終わってリビングでお茶を飲んでいると、突如テーブルの向こうから水野の声が聞こえてきて、ハッとして顔を上げた。 「ルキさん、大丈夫? …浮かない顔してるし、疲れてるみたいだけど」 「…、心配させちゃったぁ? ごめんねぇ。実は、自覚無かったんだけど暑いの得意じゃなかったみたいでぇ」  掌が湿る程に動揺してしまい、慌てて笑顔を作ると首を振って適当に弁解をする。  水野がいつから相向かいに座っていたのかもわからない。完全に上の空だった。  少しの沈黙さえもなんだか怖くて、もう底の見えかけているカップを口へ運んで水野を一瞥する。水野の唇が何か言いたそうに動いたが止まり、再び開かれる。 「ルキさん、身体も細いけど食も細いから夏バテ起こしてるのかな?」  水野が口にした台詞はありきたりで、そんな事を言うだけで、故呑み込む様な間があったのかが引っかかる。けれど深追いして墓穴を掘るのはどう考えて流生の方だ。 「かも知れないよねぇ。お休み欲しいなぁ」 「確かに。せっかく目の前が海なのに、ずっと仕事って辛すぎる」 「え、待って。休みの日も遊ぶつもり? 元気すぎるよぉ」  水野の話に乗っかり、身体が疲れている事にしてその場をやり過ごす。  普段ならルキとして過ごしている間はルキとして笑っているのだけれど、元気すぎる水野が可笑しくて本心から笑っていた。 心がスッと軽くなる気までしていて、そんな自分に首を傾げてしまいたくなるけれど、水野が自分と同じでキャラを作っている親近感からだと思うと合点がいった。  ただ、一人でいる方が好きだと思っていた自分が、水野とはこの短期間で邪魔だとか窮屈だとか、あまり感じなくなった理由はまだよくわかっていない。  水野君の口数が思ったより少ないのは、本当に助かるけど。  そんな事を思いながら一息ついていると、テーブルに置いてあったスマートフォンからシンプルな電子音が鳴り響いた。 「時間か。…、場所って何処だっけ?」 「確か最上階のバーじゃなかったかなぁ。竹内さんが迎えに来てくれるはずだけど…」  スマートフォンのアラームを停止させディスプレイを見ると、竹内から部屋に向かう旨のメッセージが届き、思わず口元が緩む。  程無くして部屋のドアがノックされ、竹内の顔が早く見たくて心が逸る。さっきまでの落ち込みが嘘のように、身体が軽くなっていて気付いたら水野を置いて走っていた。

ともだちにシェアしよう!