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第9話
結局昨夜はメイクオフシートで顔を拭き、ペットボトルを空にしてから布団に潜り目を閉じた。
思い切って投げ出す事も出来ず、一人が好きなのに嫌われたく無くて、保身の為に言いつけを守る。…、ずっと、こんな事の繰り返しだった。
ともかく悪い夢を見る事無く眠れた様で、自然と外の光が感じられて目が覚めた。
スマートフォンのアラームを止めた記憶も無く、久しぶりにアラームより早く目覚めた事に感動を覚える。
両腕を上げて伸びをすると背中が伸びて、爽快さが吐息として口から零れた。
早速上半身を起こし、欠伸を噛みしめながらアラームを停止しようとスマートフォンを手に取ってディスプレイを見る。
束の間思考が停止して、我に返ると想定外の結果に思わず悲鳴を上げてしまった。
「えっ、えぇ⁉ えええええぇぇ⁉」
ディスプレイには午後一時十一分と記されているけれど、今日の撮影は九時からだ。
スマートフォンを持つ手は今までに見た事も無い程に振動していて、寝坊した事は明白なのに、何が起きたのかと思ってしまう。
現実逃避の準備をし始めた脳内は錯乱一歩手前で、ただ震えてスマートフォンを見つめていると、嘲笑の後に鼻で笑うような音が聞こえてきた。
「おい、慌てなくてもいいぞ。今日の撮影は中止だ。…、休みが欲しかったんだろ? 喜べよ」
耳を疑うこの声は紛れも無く水野で、その気配を窺う様にリビングへと視線を送ると、リビングのソファで足を組み寛いでいる水野の姿があった。
この爽やかさの欠片も無い、上から目線な口調と低い声。以前に一度聞いただけの声ではあるけれど、印象深く脳裏に残っていた。
どうして、いつもの水野君じゃないの?
そう思わずにはいられなくて、瞬きをする事も忘れてしまう程、酷く狼狽していた。
「…、ルキさんが具合悪そうなので、今日はゆっくり寝かせてあげませんか? …、って、俺がマネージャー二人に言っておいてやった。感謝してくれよ?」
気怠そうに首を左右に傾けながら水野が近付いてきて、左の口角を上げて笑うと、好青年水野の声で喋り始める。そして、嘲笑する様に鼻で笑った後、低い声で話し始めた。
今日の撮影が中止になったというのは間違いないだろう。けれど、水野が、水野慎一郎という好青年キャラを捨て、流生の前にいる理由が全くわからない。
「ぁ…、えっと、どうして?」
「…、どうしてより先に、ありがとうじゃねーのかよ?」
水野からの鋭い指摘に流生の肩が大きく跳ね上がり、鼓動が速くなる。苦手なタイプを目の前にして冷静な判断が出来るわけもなく唇を震わせていると、水野の呆れ返るような溜息が耳に届いた。
「お前、ルキってキャラを仕事にしてるだけなんだろ? 昨日の反応でわかった。…で、思ったんだよ。俺も部屋で位、良い子ぶらずに寛ぎてぇなって」
本当の自分を隠す様子も無く水野は言い放ち、片手に持っていたグラスを口元へと運ぶと喉を鳴らした。
突然の「お前」呼びには悲鳴が出そうになったけれど、心に小さなルキを掲げて喉元でなんとか呑み込む。
「お前の秘密は守ってやるから、お前も俺の事は誰にも話すなよ」
鋭い視線と半笑いの口元。水野の有無を言わせないその言い草には逆らえず、流生が呼吸を整えながら小さく頷いて見せると、意外にも柔和な笑顔が返ってきた。
無意識に握り締めていたシーツがゆっくりと開き、胸の奥がほんのり温かくなる。
「…、昨日も、色々、ありがとう。迷惑かけて…、ごめんなさい」
水野の様子を窺いながら流生が呟くと、視線の先の水野が目を丸くし、次の瞬間には破顔して腹を抱えて笑い出した。
無邪気さは感じられないけれど、妙に楽しそうに水野は笑っている。何がそんなに可笑しいのかと首を傾げたくなるが、理由を訊けるはずも無くてただ見守る。
ひとしきり笑った水野が涙を拭うような仕草をして、さらに距離を詰めてくると流生のベッドの縁に腰を下ろした。
水野の大胆なこの行動には肩を竦めてしまい、膝を抱えて防御態勢を取ってしまうが、水野は意に介さず話しかけてくる。
「お前、凄いな。ルキとキャラが違い過ぎて、脳がバグるかと思った」
Tシャツとスウェット姿の水野は完全に部屋仕様で、いつもと見た目は一緒なはずなのに言動も雰囲気も別物過ぎて目が離せない。
「ん? どうした? あぁ、喉乾いてるなら飲むか?」
「…、麦茶?」
自分の心臓の音が煩いし、水野と目が合った途端に逸らしてしまった。
ルキを演じながら、一ヵ月もの間を水野と一緒に過ごす事に胃を痛くしていた日々が懐かしい。流生として水野と接する難しさに、目が回りそうだった。
「…、麦茶なわけねぇだろ」
そう言って、水野はグラスを持つ手を流生へと差し出してくる。
流生が顔を寄せ、鼻を鳴らして匂いを嗅ぐと、途端に顔を顰める事となった。
「うわっ、ぉ、お酒?」
「そうだよ。昼間っからとか言うなよ。夜に飲むわけにはいかねーから、今飲んでんだからさ」
「…、どうして、夜、は…、駄目なの?」
「水野慎一郎は、酒も煙草も一切やらないキャラだからに決まってるだろ。…、ルキは良いよなぁ。どっちも嗜む程度って事になってるんだろ? 酒はクソ弱いみたいだけど」
話している間中、震える手をずっと布団に入れて隠していた。
なんて返して良いのかわからずに流生が黙っていると水野は去っていき、血の気が引いた感覚のまま水野を遠目に捉える。
変な奴って、思われたかな。
そんな風に思う事を止められず、視線が自然と手元に落ちて行った。
「ルキさーん、みんな集まってるよ。起きてー。…、…、早く起きろ。朝飯食わねぇともたねぇぞ」
好青年水野の優しい声色の後、その三倍は低い囁く声が耳に届く。半覚醒だった脳が一瞬にして覚醒し、勢いよく上体を起こすと流生のスペース向こうに立つ水野に笑われた。
「早く来いよ」
水野の唇が声を出さずに言ってきて、なぜだか熱をもち始める頬を知らぬ振りして頷くと、水野は竹内と岩田のいるリビングへと戻って行った。
その笑顔は爽やかというよりは野性的で、素の水野だと確信して息を呑む。
言葉使いは少しだけ怖いけど、悪い人では無さそう。
そんな風に思うと、口元の緩みを感じた。
そわそわするような、擽ったいような不思議な感覚のままベッドから這い出ると大きく息を吸い込んだ。
「みんな、おはよぉー。昨日は本当にごめんなさい。体調管理出来ないなんて私も駄目だよねぇ。…でも、今日は絶好調! お休み、ありがとうございましたぁ」
リビングで朝食を待っていた三人に頭を下げ、キラキラの満面の笑みを見せつける。
その場にいた水野も竹内も、岩田も全員の目尻が下がるのを見届けると、いつも通りルキを演じて朝食を取った。
この日の撮影は前日の遅れを取り戻すかのようにハードで、スケジュールでは夕方には終わる予定だった撮影が延び、部屋に帰れたのは午後八時過ぎだった。
「ルキ君、夜更かしせず休んでくださいね」
「わかってますよぉ」
夕食が終わると竹内と岩田が部屋から出て行き、竹内を出入口のドアまで見送る。
エレベーターに乗り込む竹内に手を振り、今日も竹内の顔が見られた事に感謝しながらドアを閉めた。
「ひぃっ⁉」
いつの間に後ろを取られていたのか。振り返った途端、目と鼻の先に水野がいて、十センチも満たない身長差が仇となり、水野の顎に鼻先が触れた。
「なぁ、ルキと竹内さんってマジで付き合ってんの? 竹内さんが絡んでる時のルキって、…なんていうか、ちょっと雰囲気違うんだよなぁ」
全く可愛くもない声を上げてしまった。さらには不可抗力ではあるが水野に触れてしまった。そんな思いが連なり、唇が震える程に動揺してしまう。
でも、水野君は普通だ…。
この自分との落差が妙に切なくて、視線が自然と下へと落ちていく。
「…ん? どうした? そんな強くぶつけてねーだろ?」
水野の声が聞こえた側から、見せてみろと言わんばかりに顎を掴まれ上を向かされた。
驚いた拍子に見開いてしまった目が水野を捉え、思考が停止する。瞬きも忘れて硬直し、束の間水野と見つめ合ってしまった。
水野の唇が僅かに開き、そこでやっと我に返ると、汗が吹き出す感覚に瞳が揺れる。だが、脳裏には切り取られたかのような水野の口元だけが残っていて、消えてくれない。
なんで、僕は水野君の唇を…。
そう思った直後にヒートが近いせいだとピンときて、思うより先に軽く添えられた水野の手指から顎を下ろすと後退っていた。
フェロモン対策は万全だけど、怖かった。
咄嗟に取ってしまった流生の動作に水野は面食らったような顔をしていて、流生の口から謝罪が突いて出る。
「ご、ごめんなさい」
「いや、別に良いけど。…? なぁ、竹内さんってオメガ?」
「え?」
「…いや、ルキは、アルファなんだろ? だから、竹内さんはオメガなのかなって」
少しだけ困惑した様に視線をふらつかせた水野が一歩下がり、出入口扉の方に視線を遣りながら言った。
流生の手が無意識に自身の首筋を撫でる様に触れ、空調の効いた室内であるのに汗が噴き出て思考が停止する。
上手い返しをしようと思うのに、幾ら考えても空白のままで何も浮かんでこない。このままでは不味いと窺う様に視線を上げると、水野と目が合った。
「お前…、まさかとは、思うんだけど」
僅かに目を見開いた水野の表情は驚愕しているかの様にも見え、流生の背筋に冷たいものが伝う。
正直に話したら、内緒にしてくれるかな。
そんな都合の良い願い事で頭の中をいっぱいにして息を呑むと、眉を寄せた水野の唇が開いた。
「竹内さんと、セックスしてないのか?」
物凄く気の毒そうに顔を顰めた水野の口からは、流生の予想の範疇を軽く超えた単語が飛び出してきて、絶句してしまった。
「…、そうだよな。ルキなら想像つくけど、お前じゃ…、無理だよな」
「そ、そうだよ。…、僕は、そういうの、…、得意じゃないっていうか、苦手だし。それより、水野君こそ、岩田さんとはどうなの? よく夜中に出かけたりしてるでしょ?」
その場にへたり込んでしまいたい位に気が抜けた。恐らく脚に力を入れていないと、膝から崩れ落ちる。
安堵から多弁になってしまい、前々から疑問に思っていた事をつい口にすると、水野の表情から笑みが消えた。
不味い…。
言った後に後悔する事はしょっちゅうだけれど、このタイミングでしくじる自分には本当に呆れてしまう。
ともかく早々に謝罪をしようと深呼吸をすると、水野が大口を開けて笑い始めた。
「俺と岩田さんには何もねーよ。そりゃ、岩田さんも竹内さんと同じ位に性格も顔も良いけどさ、俺のタイプでは無い。…、これだけは言い切れる。あと、夜、出かけてんのは、…、煙草吸いに行ってんだよ」
言葉尻を小さくした水野が、唇の前で人差し指を立てると「しーっ」っと囁いた。
「そ、そうなんだ。僕はてっきり…」
「マジで止めとけ。気持ち悪すぎる。岩田さんは、本当に無理。そもそも、俺、女としか付き合った事ねーし」
水野は笑いながら弁解をし、腕を胸の前で組むと流生に首を振って見せる。
気を悪くさせてしまったかと焦った分、状況が回復したかに思える水野の笑顔はとても眩しくて、口元が自然と綻んだ。
だが、水野の言い分が拒絶に聞こえてしまい、上がったかと思っていた気分が落ちていき密かに肩を落とした。
「一体、いつくるんだろう…」
前兆はあれどヒートが来ないという、もどかしい日々が続いていた。
本日の撮影も無事に終了し、竹内と二人でエレベーターに乗り部屋まで送ってもらう。
「…、少しでも体調不良を感じたら、私に連絡して下さい。何時でも構いませんので」
「はい…、ありがとうございます」
こんなケースは初めてで、体調が悪いのではないかと竹内に心配され、医者に診てもらう事も考えた。だが、その優しい気持ちが擽ったく感じ、余計に診察に行く気にはなれなかった。
どうせ、あと一週間もすれば、このホテルでの撮影も終わる。
それに、ヒートが来なければ、社長の部屋に行かなくて済むかもしれない。
水野と竹内もいるこのホテルで、ヒートになりたくないのが本音だった。
早く終わって欲しいと思う一方で、こんな風に考えてしまいうんざりする。ドアノブを下げて中へと入り、大きく息を吐いた。
まだ水野は戻っていない様子で、室内は真っ暗だった。壁のスイッチに触れて照明をつけると、足が流生のスペースでは無く自然とリビングへと向いていた。
ここに来た当初では考えられない程の進歩に自分でも驚いてしまうけれど、これもルキとは正反対の流生を受け入れてくれている水野のお陰だと思っている。
ただ、水野君が無関心なだけかもだけど。
確信めいた事を思うと、少しの切なさと共に乾いた笑いが洩れてしまうけれど、詮索されないというのは好都合だと思った方が良い事も十分理解していた。
「あぁ、水野君、出しっぱなし」
テーブルの上に置かれたままの、ルキが吸っている事になっている煙草。一本だけ箱から飛び出している所が、細かい事を気にしない水野らしい気がして微笑んでしまう。
無意識にそれを拾い上げ、ソファにふんわりと腰掛ける。深く息を吐きながら窓へと視線を遣り、ふと最近は射貫く様な視線の気配が無い事に気が付いた。
あの強烈な視線に気が付けない程、疲弊していたのかと思い返してみるけれど、そこまで鈍感になってはいなかったと思いたい。
それにしても、あれは何だったんだろうと静まり返った室内に視線を巡らせてみると、気にも留めていなかった不気味な程の静けさに肩が縮み上がった。
ひ、人影かと思った…。
途端に神経が過敏になり、視線を手元にある煙草に落としたまま、周囲の気配を探る。
物音がしない空間に一人きり。止せば良いのに、オカルト的な方向に思考が進む。終には転がり出した思考が止まってはくれず、視界の端に映る観葉植物にさえ、息を呑んでしまう始末だった。
早くベッドに入ってしまえば良かったと後悔するが、まだ夕食を食べていない。こんな状況だというのに流生の腹の虫は低く唸り、眠る事を拒否している様だった。
ご飯どころじゃないよ…。
そんな風に思いながらソファの上で小さくなっていると、無機質な音が部屋に響く。
気のせいなんかでは無い物音に、吸った息が吐けずに硬直し、心臓の音を煩くしていると近づいて来る気配に目を見開いた。
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