10 / 18

第10話

「…、何してんだ?」  声を掛けられると共に、テーブルの上に美味しそうな匂いのする紙袋が置かれる。 「ほら、夕飯だ。食えよ」  頭の上から水野の声が降ってきて、恐怖で握りつぶされた煙草が視界から消えた。 「煙草は吸う物で、…、潰して遊ぶための物じゃねーぞ」  溜息交じりの水野の声に、酷く安堵する。  水野がライターを弄る音が耳に届き、煙草の匂いが部屋に広がると脱力できた。  そして、気が抜けると同時に流生の腹の音が辺りに響き渡る。 「…、なんだよ、腹減ってるならさっさと食えって。俺は外で済ませてきたし、気にしなくて良いから」 「ぁ…、ありがとう。…、いただきます」  テーブル越しに相向かいで座った水野が小さく吹き出してから言うと、紙袋を流生のすぐ手前まで寄越してきた。  盛大に腹を鳴らしてしまった事をてっきり揶揄われるのかと思っていたけれど、水野は煙草をふかす方が重要なのか言及はしてこない。揶揄われなかった事は喜ぶべき事のはずなのに、少しだけ寂しい。  複雑な心境のまま紙袋を開けると、漂っていた肉の匂いが濃くなる。中身はハンバーガーとポテト、それとコーンスープだった。 「ルキはともかく、お前はそんな美意識高そうもねーから大丈夫だろ?」 「え…、ぁ、うん、大丈夫」  なかなかに失礼な事を言われた気もしたけれど、間違いでもなくて反論できない。  ただ、外ではこういった所謂ジャンクフードの部類は口にしていないし、プライベートで食べる機会も無かったから新鮮だった。  カリッとした食感が残るポテトは塩味も丁度良く、思わず口元が緩む。 「…、なぁ、お前の本名、聞いてなかったよな」  話しかけられるとは思っていなかったから完全に不意打ちで、喉にポテトが詰まりそうだった。手の甲を唇に押し当てながら呑み込み水野を見ると、視界が僅かに滲んでいた。  滲んだ水野は笑いを堪えている様な顔をしていて、眉を寄せると灰皿に煙草を置く。 「…っ、悪い。その見た目で、その反応。ギャップがあり過ぎて、色々ヤバい」  笑みを含んでいる様な水野の声は高揚している風にも聞こえ、顔を熱くしながらコーンスープでポテトの残党を流しこんだ。 「大丈夫か?」 「ぅん、…、大丈夫」  視界の隅にあった水野の手が煙草に触れ、灰皿に押し付けて火を消す。  もう吸わないの? とか思いながら水野に視線を遣ると、答えの代わりに水野は灰皿を遠くに押しやった。 「俺は、芸名と本名は同じで、水野慎一郎。…、そろそろ、下の名前で呼んでくれてもいいけど、…その前に、名前は?」  聞き間違えかと耳を疑った。  下の名前で呼び合える親しい友達なんて、今までにいた事は無い。だから動揺してしまってカップを持つ手が僅かに震え出し、溢す前にテーブルに置いて口を開く。 「僕の本名は、…草薙 流生(くさなぎ るき)。本名は、漢字で流生」  なんとなくテーブルに人差し指を置き、流生と書いて見せると、水野が数回頷いた。 「なるほどな。じゃあ、やっぱり下の名前でお互い呼び合おうぜ。それなら、間違って呼んでも周りにはわかんねーだろ?」 「えぇっ⁉ で、でも…」 「別にそんな大した事じゃねーだろ? 改めてよろしくな。流生」  反論する間もなく、水野は灰皿と箱の潰れた煙草を持ってベランダに消えてしまった。  無理矢理押し切られた。そんな一方的にも思える会話だったのに口元は強張るどころか緩んでしまっていて、それを誤魔化したくて流生はハンバーガーに齧り付いた。 「それでは、また明日。おやすみなさい」 「はぁい。竹内さん、岩田さん、おやすみなさぁい」  竹内と岩田を部屋の出入口まで見送り、竹内の背中が見えなくなると心許なさから視線が落ち、短く息を吐いてドアを閉めた。  竹内さんにも心配かけちゃってるな…。  相変わらずヒートはきていなくて、抑制剤の効果もあってか不意に欲情してしまう事も無い。これが良いのかと言われたら首を傾げてしまうけれど、何とか撮影終了日まで逃げ切りたい。そんな気持ちだった。 「そんなに竹内さんが好きなら、好きだって言ったらいいんじゃね―のか?」  流生がリビングに戻った途端、藪から棒な水野の発言に足が止まる。  先日までは竹内と付き合っていると思われていたけれど、どうやら最近の水野は流生にそんな甲斐性が無い事を見抜いたらしい。 「別に、…僕は、今のままで良いし」  今更竹内への気持ちを隠した所で、徒労に終わる。それがわかっているから曖昧な返事をすると、水野の眉がピクリと動いた。  苛立たせてしまったかと反射的に身構えてしまうが、水野は何も言わず煙草に火をつけると口から煙を吐いた。  水野と相向かいのソファに座り、何か言われるのかと視線を度々送るも反応は無い。  この重々しくも思える空気に居た堪れなくなり、明日の撮影の話でも振ってみようかと意気込んだ瞬間、スマートフォンの着信音が室内に響き渡った。 「…、俺じゃねーぞ」 「ぁ、うん。ごめん…」  素っ気ない水野の声に居た堪れなさが振り切ってしまい、ソファから立つとポケットのスマートフォンを手にしながら流生のスペースに小走りに向かう。  逃げるようにして辿り着いた先で一息つき、ディスプレイを覗くと竹内からの着信で何やら嫌な予感がした。 「…、もしもし、流生です」 「竹内です」  竹内の第一声が、いつもと違った。 「流生君、周りに人がいない場所に移動できますか?」  少しだけ緊張が滲んだ声。大好きな竹内の声なのに、声を聞くのが怖くて目を閉じる。  でも、竹内を困らせたくは無かった。 「…、はい。今、自分のベッドです」  竹内との通話が終わり深く息を吐くと、手指が震えていた。  ものの数分だったのに疲労感が酷く、これから起こる事を想像して奥歯を噛み締める。  竹内との会話の内容は、流生にとって最悪の展開の始まりだった。 「社長が明日の朝には本社に戻るそうで、…今夜、流生君を、部屋に…、と」 「でも、僕、まだヒートが来てません」 「私もそれをお伝えしたのですが、…、強制的にヒートにすれば良いと、薬を渡されてしまいました。…流生君、申し訳ない」  社長が本社に戻ると聞いて期待してしまった分、その落差で気が滅入っているだけだ。  どの道避けられなかった事だからと自分に言い聞かせるけれど、まさか今夜になるなんて思ってもいなくて息苦しさを感じる。  ベッドの縁に座っているとスマートフォンのディスプレイが光り、竹内からのメッセージが受信された。 『着きました』  竹内を待たせるわけにもいかず、重い腰を上げて部屋のドアへと向かう。リビングに居た水野はいつの間にか姿を消していて、気にはなったがそれどころでは無く、ドアノブに手をかけた。 「流生君、こちらが例の薬です。即効性があるそうですが個人差があるらしく、部屋を出る時には服用してくるようにとの事です。…ですが、副作用も定かではありませんし、私は、お勧め致しません」 「そうですね。僕も少し不安なので、着替えながら、…考えてみます」  竹内と一言二言会話をして、準備が出来たら連絡すると言ってドアを閉めた。  手元のチャック付きポリ袋に入っている小さな錠剤を眺めながらドアに背を向け、流生のスペースに戻ろうとすると水野に呼び止められた。  あまりに上の空で、肩が跳ね上がった瞬間に手が滑って薬を落としてしまう。  慌てて薬を拾い上げて水野を窺う様に視線を向けると、怪訝そうに眉を寄せていた。 「…、何それ?」 「ぁ、…、えっと」  胸の前で上を組んだ水野は仁王立ちで、首を傾げる仕草でさえ威圧感が凄い。目を合わせているだけなのに落ち着かなくて、流生が視線を泳がせて口籠っていると、水野が一歩前に踏み出してきて距離が縮まった。 「あっ…! だ、だめ」  無言の水野にあっと言う間に薬を奪われ、拒絶を口にするが見ている事しか出来ない。  水野が指で摘まみ上げた袋の角度を変えながら中にある薬を注意深く見つめ、言外に問い詰める様な瞳を向けてくる。  その視線は射貫く様に強くて、以前にも感じた事のある鋭さだった。  もしかして…? そう思うと同時に首の後ろがゾワゾワして、確信に変わる。  流生が心霊現象かと危惧していたあの視線の正体は、きっと水野だ。  一体どうして水野が? そんな疑問が沸々と湧いてきたけれど、今はそれを気にしている場合じゃない。 「流生、さすがにこれは不味いだろ」  水野の冷たい視線が痛い。こんな目をされる理由は、きっと勘違いされているからだ。 「違う、慎一郎君、それは、そういうのじゃなくて…」 「じゃなくて、何だよ?」  言葉尻が震えてしまい、言葉にも詰まる。  ヒートを早める薬だなんて、それだけは言えない。これを使う理由なんて、もっと言いたくない。  痺れを切らした水野は詰め寄ってきて、流生が反射的に後退りをした瞬間、奥底から湧き上がる様な異変に身体が強張った。  身体中が薄っすらと熱を持ち始め、身体の中心が流生の意志とは無関係に疼く。敏感な部分が僅かに布と擦れるだけで、身体はそれを快感と捉え震えてしまい、吐く息も熱い。  とにかくこの場から逃げ出したいのに、両脚が思う通りに動いてくれなかった。  水野にヒートで発情する自分を見て欲しくはないし、性器が貞操帯に食い込む痛みも恐怖でしか無くて視界が滲む。 「ごめ…っ、僕、…、ぁ、行かないと」 「行かないとって、…、おい、流生、大…」  後ろ手にドアノブを掴もうとするが触れるのは平面だけで、簡単に追い詰められた。  だが、水野の声が中途半端に止まり、流生の視界にあった水野の爪先が慄きながら遠ざかって行く。  視線を上げて、短く息を吐きながら上目遣いに覗き見ると、水野の表情が一変していた事にやっと気が付いた。 「…、流生、お前まさか、…オメガか?」  目を見開いて顔を真っ赤にしている水野の様子が、あからさまに変だった。  水野の声は興奮気味に震えているし、瞳の奥には欲が見え隠れしていて、…、そんな目で見られる事が嫌で仕方が無かったのに、心が躍るかのように後ろが疼く。  後ろが疼けば当たり前に下腹部も反応を示し、それを阻止する締め付けに膝が折れた。 「ぁ…、痛っ、はぁ…、嫌ぁ」  耐え難い痛みで、全身から汗が吹き出す。立っている事なんて出来なくて、気付いた時には床に座り込んでいた。 「おいっ! 竹内さん呼ぶぞ。…、俺は、お前に、これ以上近づけない」  辛そうに顔を歪めた水野がそう口走り、流生が左右に揺れる視界で見上げると、ゆっくりと水野の唇が開いた。 「…、俺は、アルファだ」  水野の声以外が耳に入ってこなかった。  水野がアルファなら、この痛みから解放してもらえるかも知れない。  溜まっていた涙が頬を伝い、縋る思いで唇を震わせ首を緩く左右に振ると、水野のスマートフォンに触れていた手指が止まる。 「僕の部屋の、はぁっ…、香水、ここで、あっ、…、使って」  呼吸をする度に肌に布が擦れ、その感覚が指先でなぞられている風で息が熱い。きっと凄くはしたない表情を水野に向けている。  でも、背に腹は代えられなくて懇願すると、水野は頷いてくれた。  間もなくして水野が「これで良いか?」と例の香水瓶を持って戻ってきて、それを振り撒いて欲しいと頼んだ。  一か八かの賭けではあったけれど、水野は異変に気づいたらしく不思議そうな表情をしたまま固まっていた。  だが、すぐに流生に向き直ると、眉を寄せ見つめてくる。  水野に見つめられていると、一時的に落ち着いているヒートの昂ぶりが大波に変わってしまいそうで、視界から外しながら香水の仕様を簡単に説明した。 「こんなの、あるんだな…」  水野の声は戸惑いを隠せていなかったけれど、実際に自身の高揚感が薄れた事で納得せざるを得なかったのか、話が終わる頃には落ち着きを取り戻している風だった。  なんとも例え難い気まずい空気に包まれているようで、束の間無言だった。  この沈黙を破ったのは水野で、床に力無く転がったまま流生の傍に腰を下ろすと、話しかけてきた。 「流生がオメガだってのは、わかった。…、けど、なんか病気でももってんのか?」 「…、持ってないよ。酷い」 「いや、だってお前、すっげー痛そうな顔してたよな? ヒートって別に、…、そういうもんじゃないだろ?」  反射的に否定してしまった後にハッとするが後の祭りで、煩い鼓動に追い打ちをかける様に、水野からの疑いの眼差しが鋭く突き刺さり、抉ってくる。  全てを話したなら、楽になるかも。  そんな思いが脳裏を過るけれど、話したところで何が変わるわけでも無い。もしかしたら、悪い方に転がってしまうかも知れないと、喉元まで出かかった言葉を呑み込んだ。 「…、悩みとか、困ってる事とか、そういうのあるなら話してみろよ。竹内さんに話せないような事でも、…ぁ、性病とかでも、俺はひかねーし」 「そ、そんなの持ってないってば! …、ぁんっ」  けれど、水野の挑発にも感じられる言動に思わず反論し、顔を勢いよく上げた途端、硬くなった乳首に布が擦れて声が上擦る。  慌てて唇を噛むけれど、放ってしまった淫らな声は無かった事に出来るわけが無い。大きな溜息が聞こえた先を一瞥すると、水野が目元を手で覆って首を振っていた。 「ごめん、なさい…」  よく見ると水野は耳まで赤くしていて、指の隙間から見え隠れする眉は余裕無さそうに下がっていて、なんだかとても珍しい顔を見られた気がして見入ってしまう。  目が合った水野はバツが悪そうにしながらも立ち上がり、床に転がっている流生を一瞥すると舌打ちをして膝をついた。 「…、なんだよ、別に怒ってねぇよ。でも、あれだろ、ヒートになったなら、しないと、なんだろ? 部屋出ててやるから、一人で思う存分…、?」  流生の目と鼻の先に水野の顔が近づき、あれよという間に身体を起こされたかと思うと、怪訝そうな顔をした水野の唇が止まる。  水野の視線は流生を見ていなくて、その視線の先を辿っていた最中、もう一度淫らな声を上げる羽目になった

ともだちにシェアしよう!