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第14話
迎えに来た竹内と一緒にエレベーターに乗り、社長の部屋を目指す。竹内との時間はとても安らぐのに、それが後数秒で終わるかとわかっているだけに気が重かった。
「流生君……」
「大丈夫です。……、慣れましたから」
竹内の顔を見る事は出来なかったけれど、唇に力を籠めて笑ってみせる。
ノックをして部屋に入ると、こういうシチュエーションは初めてじゃないはずなのに足も、心も竦んでいた。
前に進めずに留まっていると、奥から流生の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
その声は決して厳しいものでも無く、どちらかと言えば柔和。それなのに首の後ろはゾワゾワと粟立ち、身震いをしてしまう。
息を呑み、身体を硬直させながら一歩、また一歩と前に進んだ。
開け放たれた扉の奥から物音がしたかと思うと、バスローブ姿の社長が顔を出す。
「ルキ君、待ってたよ」
「……、お待たせして、ごめんねぇ」
既に社長所望のプレイは始まっていた。
小首を傾げて舌を出して陽気に笑って見せる流生に、社長は至極機嫌が良さそうだ。
歩み寄ってきた社長にやんわりとエスコートされる様に手を繋がれて奥に進むと、ベッドサイドに見覚えのある物が置かれていた。
――黒い短鞭だ。
一般的には乗馬で使うイメージのある短鞭だが、これは社長がこの行為の為だけに海外から取り寄せた名品で、用途は人を叩く事。
馴染みのあるそれに自然と視線が流れてしまうと、社長の含み笑いが聞こえた。
「先に貞操帯を外してあげよう。それが付いていると、辛いだろう?」
目を細めて微笑む社長の息遣いが流生の項に触れ、弧を描いた唇の奥で声にならない声を上げる。
ヒート真っ最中の時には何とも思わなかった、このちょっとした触れ合いでさえ眉が動いてしまいそうだった。
こんなことなら薬を飲めばよかった……。
僅かに身体は熱を持っているものの、湧き上がり、溢れ出る程の欲望が今は無い。水野とのキスを思い返すと顔は火照り始めるが、今から流生が相手をするのは水野では無いと、視覚と嗅覚が言っていた。
「スカートを上げてごらん」
「……、うん、痛くしたら嫌だよぉ」
いつものやり取りだった。
流生がスカートを腰までたくし上げて前を露出させ、社長が跪いて見上げてくる。太腿に社長の腕が絡みつき、恍惚とした顔をした社長が感嘆の声を洩らして頬釣りを始めた。
鳥肌しか立たなくて、きつく目を閉じる。
目を開けさえしなければ、この肌に纏わりつく感覚も、やがて快楽に変わるから。
でも、ただ身体は震えるだけで疼きもしなければ、昂ぶりもしなかった。
嫌悪感だけが胸裏を占め、きつく結んでいる唇からは悲鳴でも洩れてしまいそうで眉間に皺が刻まれる。
どうしよう、今の僕は、ルキなのに。
下腹部に荒い息遣いを感じ、性器が生温さに包まれた。
流生の呼吸は荒くなる一方なのに、欲なんて微塵も湧いてこない。性器が窮屈さから解放されると、ひんやりとした外気を感じた。
流生の性器は完全に興奮を喪失していて、一目でヒート状態では無いとわかる。
――どうしよう、どうしたら良い?
そう思い悩んでいる矢先、きょとんとした社長が見上げてきて、何と言ったのかは聞き取れなかったけれど、唇が「ルキ君」と動いた気がした。
「遅くに失礼いたします! お世話になっております、水野慎一郎と申します。ご挨拶が遅くなり大変申し訳ございませんでした!」
何故、社長の声が流生の耳に届かなかったのか。その理由がこれだった。
暗闇に光が差し込んできたかの様な、良く通る水野の声。好青年を気取った水野の声が流生の後方から聞こえてきて、スカートをたくし上げたままだというのに、思わず勢いよく振り返ってしまった。
顔を引き攣らせた水野が苦笑いを浮かべ、水野の指先に何度も下を示される。
数秒の間、その動きが何を言わんとしているのかに苦悩したが、すぐにスカートをたくし上げている事だと察して、手を離した。
安堵と共に湧いた羞恥心で顔が火照り、俯くと呆然としている社長と目が合う。
何が起きているのか理解が追いつかない、社長はそんな顔をしているし、流生も同様に何も言葉が出てこなかった。
なんとかしてやる。水野はそう言っていたけれど、期待と諦めは半々だったから、この状況は予想外だった。
置かれた立場は違えど、今起きている状況を呑み込めずにいる。そんな流生と社長の間に水野は割って入ってきて、流生を後ろ手に庇うようにすると口を開いた。
「……なっ、何をされているんですか? これって、これって、まさか、……、コンプライアンス違反ですよね⁉」
「違うんだ、これはっ」
律儀にも水野の片手には菓子折りらしき包みがあり、流生がそれに気を取られて目を丸くしている間にも、水野と社長は押し問答を繰り広げている。
弁解をする社長と、好青年さはそのままで非難の言葉を浴びせ続ける水野。
そして、水野の声が突然止まった瞬間、菓子折りに水野の指がめり込み、目を疑った。
「おい……っ、お前、それで流生を今日も叩こうとしてたのか?」
水野の声が普段使いの低いものへと変わっていて、恐る恐るに顔を覗き込むと鬼の形相がそこにはあり、「ひっ!」と図らずも小さな悲鳴を洩らしてしまった。
水野の眉間には皺が深く刻まれているし、口角は片側だけが上がっている。ブチ切れ寸前といった雰囲気に血の気が引き、無意味に辺りを見回してしまう。
ついさっきまでとは違う「どうしよう」が脳裏を占めるが、思考が忙しすぎて良い案が思い浮かばない。
だが、流生がこんな状態でいる間にも、水野によって社長は壁際にじりじりと追い詰められていた。
水野は今にも掴みかかりそうなオーラを背中から放っていて、まさに一触即発だ。
「……っ、ふざけんなよっ‼」
水野の怒声が部屋に響き、反射的に流生の肩が縮み上がる。
でも、無力だと自覚していたのに、気付いたら水野の腕にしがみついていた。
「し、慎一郎君……」
鼓動が煩いし、竦み上がった身体は思う様に動いてくれない。とにかく水野に自分の方を見てもらいたくて名前を呼ぶと、同じタイミングで後方から岩田の場違いな、おっとりとした声が聞こえてきた。
「慎一郎君、落ち着いてー。ずっと憧れてたルキさんの事で熱くなるのもわかるけど、怪我をさせてしまうのはさすがに不味いよ」
「岩田さん、それ、今言う事じゃないんで。あと……、遅いんですけど」
示し合わせたかの様に水野と同時に振り返ると岩田の隣には竹内の姿もあり、竹内の視線が水野の腕にしがみつく流生の手元にきている気がして、慌てて手を離した。
竹内と岩田の登場で場の空気が一変したのを肌で感じ、息を呑んで様子を窺う。
苦笑いを浮かべた岩田が近づいて来て、水野に耳打ちをした。何を話していたのかはわからないけれど、水野の舌打ちが聞こえたから良い話では無さそうだ。
「……、行くぞ」
「え?」
水野に溜息交じりに声を掛けられ、手首を掴まれると訳もわからないまま部屋を出た。
無言のままエレベーターに乗り、流生と水野の部屋の前まで、水野の足元を見て、後を付いて歩くみたいにして向かった。
慎一郎君がルキのファンなのは事実で、だから……、僕に優しいだけなんだ。
そんな思いが払拭できず唇を結ぶと、水野の足音が止まった。
水野が部屋のドアを開けると振り返り、顎でしゃくられ、中へ入れと指示をされる。
「お邪魔します……」
口下手なくせに沈黙は苦手で、突いて出た言葉の後に顔の火照りを感じた。
部屋の中は照明がついたままで明るい。
つい数十分前にここで水野としてしまった事が思い出され、口元に手を当てると吐いた息が熱く感じた。
静かな空間にドアの閉まる音が響き、何気なく後ろを振り返ると真顔の水野と目が合った。
流生を値踏みするかの様に水野の瞳が上下し、その視線に圧倒されてしまい後退る。
背中に硬い物が触れ、それが壁だと直に気付いた。
鼓動は速る一方で、何か喋らなければと思うのに言葉が見つからない。居た堪れない様なこの緊張感に耐えられず、つい流生が目を伏せてしまうと、顔の横に水野の腕が映り込んできた。
「……、逃げんなって。怪我してねーか、見てただけだろ」
だったらどうしてこうなった? と胸裏で思いながら、顔の左右に置かれた水野の腕に目を白黒させる。
この体勢は所謂壁ドンで、目と鼻の先には水野の顔がある。気怠そうに話す水野の声は低く、水野の吐息で視界の端に映る流生の髪が揺れる度に密かに息を呑んだ。
「いつもあれで、叩かれてたのか?」
体勢は変わらないまま、神妙な面持ちの水野から問われる。
一瞬何の事かと思ったけれど、すぐに水野の言うあれが、サイドテーブルにあった短鞭の事だと察した。
「……、違う。あれで叩かれるのは、僕じゃなくて、社長の方…」
流生が緩く首を振って答えると、水野の目が見開かれ「あ?」と間の抜けた声が返ってきた。
今更、慎一郎君に隠す事なんて無い。
社長に強要されていた行為を水野に話すと、水野の顔の強張りが解けていく。張り詰めていた空気も徐々に柔らかくなるようで、溜まっていた空気を吐き出す様に、流生も深呼吸をした。
「……、あの社長、ドMなのかよ」
「うん、アルファなんだけど、ルキみたいな人に叩かれて、踏まれて、酷くなじられたいんだって」
水野の腕が壁を押すようにして離れて行き、その様子を横目で追う。
「色々な人がいるよな……」
「そ、そうだね」
話が纏まったところで再び沈黙が訪れ、気まずさから視線を泳がせて話題を探る。
ふと、社長にやられて嫌だったけれど、水野の時は違った事が脳裏に浮かんだ。
思い出しただけなのに顔が火照り、思わず生唾を呑んでしまうと、いつから見ていたのか、水野の目が「どうした?」と言外に言って訊いてくる。
「あのね、貞操帯、を、外す時は、慎一郎君にして貰った事と同じ事をされるんだけど、すごく、気持ち悪くて、……嫌だった」
口にした途端にその時の感覚が蘇ってきて、小さく身震いしてしまった。
こんな事を人に話した事は無く、つらつらと口にし始める自分に驚愕しながらも、窺う様に水野を一瞥する。
水野は僅かに険しい表情をしていたが、黙ったままだった。
水野からは何の相槌も貰えず、それが目当てだった訳でも無いのに視線が落ちる。
勝手に流生が話し始めた事だけど、何か言って欲しかったのだとすぐに気付いた。
もっと言えば、慎一郎君の気を、少しでも惹きたかった。
ルキより、僕を、見て欲しい――。
「慎一郎君にされた時は、……全然、嫌じゃなかったのに」
流生が息を呑んで呟くと、視線の先にあった水野の爪先がピクリと動く。
「ヒートだったから、……、切羽詰まってたからってわけじゃ、無かったのかよ」
やっと口を開いたみたいな、覚束無い、らしくない水野の声だった。
その声に誘われる様に、ゆっくりと顔を上げて上目遣いに覗くと、これ以上ないって位に胸が高鳴る。
「慎一郎は、……、僕の見た目と、フェロモンのせいじゃ、なかったの?」
水野の顔も、耳までもが真っ赤になっていて、流生の唇が自然に緩むと、次の瞬間には見つめ合っていた。
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