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第16話
玄関前の廊下、高い天井。
記憶はそこで途切れていたのに、触れる場所はどこも柔らかかった。
髪を漉かれている様な感覚と、項を擽る柔らかい何か。微睡みよりも心地良いその感覚に薄目を開けると、背後から包み込む様な凹凸がより一層感じられた。
流生の唇に触れる指先は、当然自分の物じゃない。唇の形をなぞる様に触れるこの指先は一体? と、寝ぼけ眼のまま唇を開けてみると、指先の主に耳元で囁かれる。
「悪い、もう少し寝かせてやりたかったんだけど、……起こした」
低くて少し掠れた水野の声。気怠そうなその声と、肌で感じる息遣い。ぼやけていた意識がはっきりとしてきて、背中に感じる熱がわからなくなる程、身体が火照り始めた。
「……ぇ、あ、し、慎一郎君?」
「そうだよ。他に誰がいるんだ? ……、まさか、竹内さんに抱かれてるとでも思ってた訳じゃねぇよな?」
「そっ、……、そんな事無いよ」
「おい、動揺すんな。傷つくだろ」
言葉とは裏腹に水野の声は楽しそうで、思わず首を竦めたくなるリップ音と、首筋を伝う濡れた温もりに吐息が洩れる。
上擦った勢いで零れそうになる声を喉元で呑み込むと、水野の含み笑いが耳に触れた。
頭が真っ白になる位鼓動が煩いのに、身体中が幸せだと熱を帯び始めている。
「なぁ、ここに俺のだって印付けて良い?」
笑みを含んだ水野の声はとても機嫌良さそうで、流生の口元も自然と弧を描いていた。
項に柔らかい感触がして、舌なめずりを表現するかのように舌を這わされる。流生の肩が堪らず跳ね上がると、心地良い強さで甘噛みをされて思わず声が洩れた。
「ぁ……ん、っ、……。だ、ダメだよ」
「なんで?」
「だって、……、まだ撮影終わってないし、それに、そんな事したら、ぁ、週刊誌に載っちゃって、……大変だよ」
アルファがオメガの項を噛む。その意味さえも知らない程無知ではなくて、水野からの問いかけに目が泳いでしまう。狼狽え過ぎた末に口から出た言葉が悪かったのか、言い終わったと同時に項に歯を立てられた。
問答無用で噛まれる。そんな空気を背中に感じ、強く目を閉じると項に外気が触れる。
「竹内さんとは良くて、俺とは嫌かよ」
少しだけ拗ねている風な水野の呟きが聞こえてきて、目を見開いた挙句に息を呑んだ。
慎一郎君……、か、か、可愛いっ‼
口になんて出してしまったら、絶対に水野は不機嫌になる。そんな確信しか無くて言葉を呑み込み、幸せを噛みしめていると水野に名前を呼ばれた。
水野の腕に抱かれていた流生の身体はいつの間にか解放されていて、身体を捻って水野の方へと顔を向けるとキスで口を塞がれる。
甘く啄むような水野からのキスが、深く濃厚なものへと変わっていく。口内を探られ、執拗に絡みつく舌が気持ち良い。混じり合う水音が耳に厭らしく響き、意図せず声を洩らしてしまうと、どこからかシャッター音が聞こえてきて反射的に目を見開いた。
目と鼻の先の水野に見つめられ、水野の舌が退散していく。
唾液で濡れた唇を無意識に緩く結び、どうして水野は平然としているのかと上目遣いで様子を窺った。
途端に水野が破顔して笑い始める。
「え、……な、何?」
訳もわからずに流生が震え声で呟くと、ひとしきり笑った水野が眉を寄せ、僅かに赤みを帯びた目元でじっと見つめてきた。
熱の籠った視線を見つめ返す度胸なんて無くて、流生が自然と目を伏せると、水野の含み笑いが頬に触れる。
「プライベート撮影しとけって言われてたよな? これ使おうぜ」
そう言って見せられたのは、流生と水野がキスをしている写真。赤い舌が絡み合い、唾液で濡れて光を放っていた。水野の横顔は色気が凄くて格好良いのに、流生の顔は今にも達してしまいそうな程余裕を感じられ無い。
「だっ、ダメだよ、こんな写真っ!」
「なんで?」
「だって、僕、……、これ、全然ルキの顔できてないでしょ? 僕なんて、誰も」
慌て過ぎてスマートフォンを奪おうとしてしまったが、身体能力の差は大きい。自分のキス顔なんて初めて見たし、それがデータとして残っている事にゾッとして、思わずネガティブな本音が口から飛び出そうになった。
最後まで言えなかったのは、水野にキスをされて口を塞がれたからだ。
少しだけムッとした顔をした水野が溜息を吐き、横目で一瞥される。
「誰も、じゃねぇだろ。……、罰として、これは俺の待ち受けにするからな」
「えっ⁉ だ、ダメだよっ、本当に!」
素の自分を待ち受けにして貰えるなんて、本当は凄く嬉しい。でも、羞恥心がどうにも抑えきれず、大きくなっていた自分自身の声にハッとして口元を手指で覆った。
「冗談だよ。でも、待ち受けにしたいって思ったのは本当だし、消さねぇけどな」
水野のストレートな物言いが擽ったくも心地良くて、顔の火照りも鼓動の速さも変わらないのに、自然と水野の腕の中に潜り込んでいた。
人肌の心地良さに、いつの間にか熟睡していたようだった。
小麦の香ばしい香りと、ダージリンティーの華やかで甘い香りが鼻孔を擽り、睫毛の隙間から光が差し込んでくる。
昨夜は水野のベッドで一緒に眠ったはず。
それなのに、流生の視界に映るのは自分の腕のみだった。
寝ぼけ眼のままシーツに顔を埋めると水野の匂いがして、夢では無かったと、やっと実感できる。
慎一郎君、先に起きたのかな……。
頭の中の靄が徐々に晴れて行き、恐らくリビングから流れてきているだろう朝食の匂いに上半身を起こした。
「流生、おはよ」
「流生君、おはようございます」
「ルキさん、おはよう」
水野の部屋からはリビングが丸見えで、逆もまた然り。リビングに集合していた水野、竹内、岩田の顔が流生へと向けられると、三人同時に挨拶をされ、思考が停止した。
「ぉ、おはよう、ございますぅ」
条件反射で流生の口から出た声は、ルキなのか流生なのか判別不能で、水野が片眉を下げて笑いながら近寄ってくる。
「ごめんな。すげぇ気持ち良さそうに寝てたから、そのままにしてた」
ベッドの縁に腰を下ろした水野は表情も口調も素の水野で、顔を覗き込まれると昨夜の行為が脳裏を過った。
目を見ていられないどころか、合わせる顔も無い。そんな風に思ってしまい、緩やかに水野から顔を背ける。
ベッドのスプリングが僅かに軋んだかと思うと流生の視界の端に影が落ち、水野の含み笑いと共に甘く囁かれた。
「……、なんだよ、照れてんのか?」
耳に響く低音は笑いを含んでいて、水野の息遣いが擽ったくて首を竦めると、頬にキスをされる。
リップ音が妙に気恥ずかしくて、赤面していく顔をどうにも出来なくて眉を寄せると、リビングから声が掛かった。
「水野君、そこまでです。うちの流生君を、苛めないで下さい」
「本当に申し訳ありません。…、慎一郎君、そういう事は二人だけの時にしようね」
竹内と岩田、二人の対照的にも聞こえる声色と台詞が性格の差を色濃く感じさせ、追い打ちのように疑問が浮かんでくる。
「僕達の事……、知ってるの?」
普通なら驚きそうなものなのに、竹内も岩田も驚いている様子はない。それがどういう事なのか。聞くのが怖いと思う反面、その疑問が声となって出てしまっていた。
「知ってる。俺が全部話した」
肩が触れ合う距離の水野に聞こえていないはずも無く、流生の想像する中の一番最悪の答えがはっきりとした口調で返ってくる。
――全部、全部って、全部?
脳裏で自問自答してみるが、身体中から変な汗が吹き出すだけだった。
ともかく、ベッドに入ったままでは朝食は取れない。そもそも、竹内も岩田も来てくれているのに、これでは失礼だ。そう考える事が精一杯で、掛布団を退かそうと手を伸ばすと、水野に手首を掴まれる。
手首から伝わる、水野の体温が心地良い。でも、それ以上に鼓動が高鳴るのを感じ、手を離して欲しいなんて口に出来ずに水野を見上げると、困惑気味の笑顔に迎えられた。
「流生、お前下に何も履いてないだろ」
気のせいでは無く、部屋の空気が凍り付いた気がした。
上半身には白いシャツが見えていたから、当然ズボンではないにしても服を着ていると思っていた。けれど、何も履いていないと言われたら、心当たりしかない。
そう気づいた瞬間に流生は両手で顔を覆っていて、隣にいる水野の笑い声が耳に届く。
き、消えてしまいたい――。
掌から伝わる熱に、そんな風に思っていると、岩田のマイペースな声が聞こえてきた。
「では、ここからですがご説明致しますね。結論から申し上げますと、解決しました。何故スピード解決をしたかと言いますと、変態社長が俺の義兄だからです。…、姉に報告させて貰いまして、二度とルキさんにちょっかいを出さないと約束させました。まぁ。数ヵ月は歩くのも難しいとは思いますが」
岩田の話は他人事みたいに聞こえたのに、水野に肩を抱かれると安堵の息が洩れた。
「流生君、私が今後の監視役となっておりますので、安心して下さい」
「はい、ありがとうございます。……、岩田さんも、ありがとうございました」
無意識に吐いた息が震えてしまうと、水野の手指に力が籠るのを感じた。
「慎一郎君も、ありがとう」
下を向いていた視線を水野へと向けると、柔らかく微笑まれる。
「そこは、慎一郎も、ありがとう。だろ」
熱の籠った真っ直ぐな瞳、低くて甘い声に胸を熱くしていると、不意打ちの様に甘いキスをされた。
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