3 / 45

ひとりぼっちのふたり 2

 サンゴのあいだをすり抜けて、広場をつっきって。  岩礁のトンネルをくぐり抜け、ケルプの薄暗い森をぬけた奥の、背のひくいやわらかい海藻がふわふわ茂る原っぱの真ん中まで一気に泳ぎぬけて、ネロは後ろをふりむいた。  ネロの泳ぎは、ちょっと速すぎたらしい。  その子はしがみつくようにネロの手を握りしめて、くすんだ灰色の髪にちぎれた海藻をもさもさと絡まらせ、大きな青い目を見開いて、びっくりしたように口をパクパクさせていた。  手を引っぱって砂のうえに座らせてやったら、抱えていた本をぎゅっと抱きしめて、大きな両目からまたポロポロと硝子玉の涙をこぼした。   「げぇっ、泣くなってば!」 「ごめっ……ちがっ、ぼくっ……うぅっ……」 「はいはい、聞いてるよ。ほら、しんこきゅー、しんこきゅー」    となりに腰をおろし、ネロは困って、その子の背中をポンポンなでてやった。  ネロを拾ってくれたじいちゃんは、ネロが泣いているとよくこうしてくれた。じいちゃんのことを思い出すのは久しぶりだった。だって、もう、ずっと昔の話。ネロがひとりで小魚を捕まえられるようになってすぐ、じいちゃんは海の泡になった。  ポロポロ涙をこぼしながら、青い目がじっとネロを見つめてくる。  深く水を吸って、ゆっくり吐き出して、かぼそい声でその子が言った。   「ごめん……ぼく、泣いちゃうっ、の。泣きたいわけじゃっ、ないのに」 「そうなの?」 「ぼくはっ……貝殻が、ちいさいんだって」 「カイガラ?」    ネロはポカンと彼を見つめた。  彼の腰からは魚の尾びれが生えている。背中にはちっちゃなやわらかい背びれが、指のあいだにはネロのよりずっと控えめで薄いけど、ちゃんと水掻きが。どう見てもネロとおなじ、魚の人魚。ホタテ貝やオウム貝の人魚には見えない。  ちがうよ、と彼がくしゅんと鼻を鳴らした。泣きながら笑おうとしたらしかった。   「みんなね……カラダのなかに、気持ちをためる貝殻をもってるの。怒ったり、悔しかったり……悲しかったりするとっ、そこに気持ちがたまっていって、あふれると涙になるんだって。本にね、書いてあった」 「オマエのはちっちゃいの?」  灰色の髪の毛をゆらして、彼がちいさくうなずいた。   「すぐっ、気持ちがあふれてっ……頭が真っ白になって、なにも言い返せなくなっちゃうのっ……いやなのにっ……でもっ、だめなのっ……」  肩をゆらしてポロポロ涙をこぼして、彼がすんすん鼻を鳴らした。  ネロにはよくわからない。けど、苦しんでいるのだけはわかった。  たとえばさ。  めちゃくちゃムカついてるのに、口や尾びれを押さえつけられてやり返せなかったら? オレだったら、怒りでハリセンボンみたいにふくれあがって、爆発しちゃう。   「行かなきゃいいんじゃねーの、広場なんか」    そうでしょ。  イヤな目に会うってわかってるのに。  ネロが見たところ、彼はみんなと泳ぎまわって遊びたいわけでもなさそうだった。ひとりでゆっくりしてるのが好きなタイプ。なら静かでいごこちのいい巣穴の奥で、ずっと本を読んでればいいのに。  ううん、と彼が首をふった。   「おばあさまがね、ぼくは大人しくてのんびりしているから、積極的にみんなのいる場所に行きなさいって」    ふーん?  トモダチつくれって?   「他の子を身代わりにすれば、生き残る確率が上がるから」 「ぶっ、ぷはははっ。おまえのばあちゃんサイコーじゃん!」    砂をはね飛ばしてケラケラ笑い転げているネロを見ていたら、彼もおかしくなったらしい。  抱きしめた本のうしろでクスクス笑った。青い目を細めて、くすんだ灰色の髪をゆらして。そうやって笑うと、けっこう可愛い子だった。   「なぁ、それなんの本?」 「これ?」 「いっつも読んでるでしょ。げぇっ、文字ばっかり。こんなの楽しいの?」 「面白いよ」    砂に寝転んだネロのとなりに一緒に寝転んで本をひろげて、パラパラめくって見せてくれる。彼の青い目はきらきらしていて、『好き』という気持ちが本物なのが伝わってくる。   「これはねぇ、天気の本」  ページをめくりながら歌うように彼が言った。   「なぜ雨がふるのか、どうして雷が落ちるのか、そういうことが書いてあるんだよ」    たしかに彼が指さしたページには、どんよりと空をおおった黒雲から、ピカッと稲妻が光って海に落ちていく絵が載っていた。でも、書いてあるのはぜんぶ陸の文字。人魚の文字ならネロもじいちゃんから少し教わったけれど、この本はちんぷんかんぷん。  むうっとページをにらんでいるネロを見て、彼がまたクスクス笑った。   「読んであげようか」 「うーん、いいや。それよりさ、遊ぼうよ」 「え?」  キョトンとしている彼の手を、ネロは引っぱった。  ひとりで遊ぶのは飽きてしまって、ネロは広場に行ったのだった。  でも集まっているのは気の弱い、つまらない小魚たちばかりだった。青黒い尾びれをゆらしてやってくるネロの姿を見たとたん、震えあがって物陰に身を隠してしまい、あるいは仲間たちと寄り集まって、ヒソヒソとささやきあっているだけ。何度行っても、いつもおなじ。 (つまんねーヤツら)  いいよ、あんな連中。  オレだって、ビクビクしてるヤツらはゴメンだもん。   「えっと……ぼくで、いいの?」  戸惑った顔で彼がネロを見た。   「いいよ。おまえは?」 「シェル」 「え?」 「ぼくの名前」  ふーん、シェルか。  オレはねぇ。 「知ってるよ」と彼が笑った。 「ネロでしょう?」  

ともだちにシェアしよう!