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予感 1

 ふたりが一緒に暮らしはじめて、何度目かの春がきた。  寄りそって眠る洞穴はすこし窮屈になってきて、シェルはますますきれいになった。  朝、目を覚まして。  となりで寝ているシェルを見ると、ネロはなんだかおかしな気持ちになってくる。  シェルのことを自分の片割れのように大切に思っているのに。なのにシェルを無理やり砂に押さえつけて、めちゃくちゃに泣かせてみたい気持ちが湧いてくる。  腹の底がざわざわして、息苦しくて、薄くひらいたシェルの唇が、妙にやわらかそうに見えて……  あるいは、昼下がり。  海藻のゆれる岩陰にふたりでのんびり腰かけて、シェルの口ずさむ歌を聞きながらウトウトしていると、その白い背中に覆いかぶさって押さえこんで、細い腰を抱きよせて、思いっきり……思いっきり? (オレいま、シェルに何してやりたいと思ってた……?)     一時的なものだと、ネロは必死に自分に言い聞かせた。   (オレ、ちょっとイライラしてるんだ)  季節の変わり目だしさ。  それか、オレたちが成長したから、寝床がせますぎるのかも。もっと成長してものびのび暮らせるように、そろそろ大きめの洞穴を探してみねーと。    けれど、ネロを苛立たせる理由は他にもあった。  シェルはきれいになった。  ネロから見ても、誰から見ても。それは、余計なものを惹きよせるということ。 「書庫の整理をしてくるよ。夕方までかかるかも」  そういって言って、その日のシェルは朝食をすませてすぐ、ひとりで出かけていった。  ネロと暮らすようになってから、シェルがおばあさまと棲んでいた古い岩穴はすっかりシェル専用の物置になっている。  なにしろシェルは読書家で、蒐集癖があり、おまけに物を捨てられない人魚だったから、寝床に日々あふれかえっていくガラクタにブチ切れたネロと一度大ゲンカになったことがあった。それ以来シェルは反省して、コレクションはむこうの岩穴に置くようにしているらしかった。  予定どおり夕方近くに帰ってきたシェルに、ネロは「おかえり」と声をかけた。  返事はなかった。  どうしたんだろうとふり返ったら、シェルは洞穴の入り口でぼんやりしていた。  硝子瓶のランプの明かりのなかでシェルの青い目がネロを映してきらめいて、その途端、シェルがまっすぐに泳いできてネロの胸にしがみついた。  シェルの肩は震えていて、シェルが泳いできた砂のうえには、小さな硝子玉のような涙がいくつも転がっていた。  腹の底が冷たくなった。   「……誰に、何された?」    食べかけのカニをテーブルに置いて、ネロはゆっくり深呼吸しながら、震えているきょうだいの身体を抱きしめた。  シェルは、黙って首を振るだけ。  その目からまたポロポロ涙がこぼれ落ちて、砂のうえに散らばっていく。シェルのきれいな白い髪は乱れていて、砂と、ちぎれた海藻がいくつも絡みついていた。それに、首筋についた赤い傷。まるで歯形みたいな……  怒りで腕に力がこもった。  鼓動がうるさかった。   「教えて、シェル。オレが全員噛みちぎってやる」    やっぱり黙って首を振って、シェルがネロの胸に顔をこすりつけてくる。  肩を震わせて、ぐすぐす鼻を鳴らして、ネロにぎゅっとしがみついて。  ようやく顔をあげたシェルが、赤くなった目でまっすぐネロを見つめた。   「……ネロ」 「うん。どこのどいつ? 今すぐバラバラに引き裂いてくる」 「ケンカのやり方を教えて」 「え?」    ネロを映してゆれる彼の目は、泣き腫らして真っ赤で、涙でいっぱいで、けれどまっすぐだった。  やり返そうとしていた。  あの、岩陰で泣いているだけの、ちっぽけで弱っちかった人魚が。   (……逞しくなったじゃん)    嬉しくなって、思わずぎゅっとシェルの身体を抱きしめていた。   「わかった。けど、オレのやり方よりもさ、シェルなら……」         ――パシン!  高らかな音が、明るい海いっぱいに響き渡った。  砂のうえに転がって、頬をおさえてポカンと見上げている人魚に、本を抱えたシェルがにっこり笑いかけた。   「ごめんね、アメフラシの死骸かと思って叩いちゃった。視界の隅をユラユラしてて、すごくジャマくさかったから」 「なっ……!?」 「失礼。ぼくにご用だった? ふぅん、その耳障りな音って、あなたの声だったんだ。シャコ貝にしっぽを挟まれたオットセイの断末魔じゃなかったんだね」    岩陰やサンゴの下のあちこちから、ぷっと吹き出す声、くすくす失笑する声が聞こえてきた。  砂に転がった人魚が真っ赤になって食ってかかろうとするのを、かかえた本を抱きしめて、シェルがキッと睨みつけた。   「さっ……さわらないでっ。あなたと話すことなんて、ぼくには無いから!」    ほんの少し震えながら、それでも顔をあげて相手をまっすぐ睨みつけ、ぷいっと泳ぎ去っていくシェルに、あちこちから驚いたような、感心したようなため息がもれた。 「シェル!」  少しはなれた岩陰から見守っていたネロは、大声で笑いながら泳ぎよって、シェルの肩を抱きよせた。その肩越しに、うしろをジロッと睨みつけながら。  真っ赤な顔で砂のうえから起き上がって、シェルの背中に飛びかかろうとしていた人魚たちが、震えあがって砂をまき散らして逃げていく。 「ねえ、ネロ! ぼく、やったでしょ!」 「ああ、サイコーだよ!」  嬉しそうに見上げてくるシェルを、ネロはにっこり笑って、思いっきりぎゅっと抱きしめた。  

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