10 / 45
予感 2
ふと、夜中にネロは目を覚ました。
背中になにか、温かいものが触れるのを感じた。
きっとシェルだ。
ネロのかけがえのない相棒は、ふだんの控えめで大人しい様子からは信じられないほど寝相が悪い。どうしてそんなことになるんだか、夜、ならんで寝床にもぐりこんだはずなのに、朝起きるとネロのお腹の上でひっくり返っていたりする。
(また、はみ出してきたな)
そう思ったとたん、身体の警戒がとけて、またうとうとした。
最近のネロはすっかりこの調子。フヌケている。谷底で暮らしていた頃のネロが見たらショックで目を丸くして、ぶっ飛ばしにくるに違いない。
でも、誰にでもってわけじゃない。
シェルだけだ。
シェルのとなりでなら、ネロは頭の片隅で常に周囲をうかがうことをやめ、安心して熟睡できる。
もう一度、夢の海へもぐっていこうとして。
ドクンと、ネロの心臓が跳ねた。
シェルの腕が抱きついてくるのを感じたから。
ネロの背中にぴったり寄りそって、シェルが顔をうずめてくる。触れ合ったシェルの胸があったかくて、なめらかで。とくん、とくんと、ネロのものとはちがう鼓動が伝わってくる。
ドクン、ドクン。
心臓がうるさい。
シェルとくっついている背中が、痛いくらい熱い。
(なんだ、これ)
オレ、なんでこんなにドキドキしてんの?
わかんねぇ。
でも止まらない。
心臓が尾びれを生やして、いまにもネロの胸を食い破り、夜の海に飛び出していってしまいそう。
「……シェ、シェル?」
しかたなく、ネロは後ろに声をかけた。
このままシェルとくっついてたら、どうにかなってしまいそうだった。
「どうした? 眠れねぇの?」
ハッと、シェルが顔をあげた。
いたずらが見つかってしまった顔をして、ネロの背中からパッとはなれ、恥ずかしそうに目をふせた。やわらかい髪が波打って、チラッと見えた耳が、すこし赤かった。
「……ごめんなさい」
「へ?」
「その、ぼく、夢を見て」
「怖い夢?」
「そんなとこ」
ふーん。
だから表情が暗いのか。
「……んじゃ、ほら」
ネロは寝返りをうって、シェルに片手をのばした。
手、にぎってやるよ。
そう言うつもりだったのに。
シェルは目を丸くして、それから、ネロの腕の中にもぐりこんできた。
(へぇっ!?)
情けない悲鳴が出そうになった。
(ち、ちげーよ、そうじゃなくって)
あせって首をふって、追い返そうとして。
でも、シェルがほっぺたをちょっと赤くして、うれしそうにネロの胸に顔をうずめたから。
腕の中のシェルを追い出せなくなった。できるわけないじゃん。こんなシェル。すげえ、かわいい……
しかたがないから、ネロも腕の中のシェルを抱きしめた。
(い、いいよな?)
ドキドキして、なんとなく後ろめたくなる。
(ヘンなことしてねーよな、オレ?)
だって、いつもやってるもん。
いままで何百回も、シェルとこうしてきたもん。
ネロの胸に鼻先をつけ、シェルがふふっと笑った。
「ネロの匂いがする」
(はぁっ?)
「な、なんだよっ。クセェって言いてーのっ?」
あわてて自分の腕に鼻を近づけてクンクンしたら、シェルがまた、くすくす笑った。
「ううん。落ち着く匂い」
「あ、そ」
ドクン、ドクン、ドクン。
うるさくい鼓動がとまらない。
このままくっついていたら、たぶんシェルにも気づかれる。寝てしまおうにもすっかり目が冴えている。……くそっ。だんだん腹立ってきた。
仕返ししてやりたくて、ネロもシェルのやわらかい髪に顔をうずめて、思いっきり水を吸った。
「……シェルは、甘いな」
甘くて、やさしくて、胸の底がキュッとする匂い。
けど、なんだろう。
今夜はいつもよりちょっとだけ、甘ったるさが濃い気がする。
嗅いでいると、くらくらする。頭がじんわり痺れてくる。背びれから腕へ、指先へ、ピリピリする痺れがひろがっていく。ゆっくりひろがる甘い痺れが、尾びれの先まで満ちていく。
シェルがくすぐったそうに笑った。
尾びれをくねらせて逃げようとするから、ぎゅっと抱きしめてつかまえて、さらに深く顔をうずめて、水を吸い込んで――――ハッと気づいたら、シェルのほそい首筋に、噛みつく寸前だった。
(やべっ)
血の気が引いて、あわててシェルを離した。
「ネロ?」
シェルが顔をあげて、不思議そうにのぞきこんでくる。そのゆるくひらいた唇が、どうしようもなく、やわらかそうで……
だ、ダメだ、ダメだ。
気をそらさねぇと!
「シェル、なんか話してよ! めちゃくちゃ面白いやつ! 今すぐ!」
「え?」
シェルがぽかんとした。
「突然だなぁ」
「あーあ、気持ちよく寝てたのになー。目ェ覚めちゃったなー。どっかのだれかのせいでー」
「それは、ごめんってば! うーん、面白い話かぁ……」
シェルが困ったように笑って、ちょっと考えて。
「この話はもうしたっけ? 西の海の話」
「西の海?」
どこだそれ。
聞いたことねーな。
「あのね、この浅瀬のほかにも、人魚たちがすんでいる海があるんだよ」
「西に?」
「うん。ずーっと西。ここよりもたくさん人魚がいるの。街をつくってるんだ」
「マチ? 行ったことあんのか?」
「ううん。でも歌でたくさん聞いたよ。その街はね、大昔の都の名残なんだって。まだ人魚たちに王さまがいた頃の」
腕の中からシェルがネロを見上げてくる。
波がシェルの髪を甘くゆらした。
その下の大きな目が、ここではないどこか遠くを、うっとり見つめていた。
「王さまのお城はね、巨大な硝子サンゴでできていたんだって。夜でも白くかがやいていたんだ」
「もういねーんだろ? その王サマとやらは。いつまでも出ていかねーなんて、西のヤツらはモノ好きだな」
「大きな建造物はまだ残ってるんだよ。それに、王さまの子孫たちの血筋も。すごいよね! 古の人魚の血筋だよ!」
「王サマねぇ」
ネロはあくびのフリをして、ちいさく泡を吐いた。
なんだろう。
胸の底がモヤモヤする。
「それにね、都の図書館にはこの海のすべての巻貝が収められていたんだ。明け方と夕方、波が流れを変えるとき、棚にならんだ巻貝がいっせいに歌を歌いだして、大合唱で都を満たしたんだって」
「ふーん」
たしかにその光景は、ちょっとワクワクするけど。
「ねえ、ネロ」
やわらかい髪をゆらして、シェルがネロを見あげた。
ネロを見つめる大きな目が、月明かりに砕けた波間みたいに光っていた。
「一緒に行こう、いつか」
「けど、あっちの約束は? 最果ての海にいくんだろ? どうすんの?」
「どっちも! いいでしょ、ネロ?」
シェルの白い尾びれがゆれて、ネロの尾びれをやさしく撫でた。
ドキドキした。
心はモヤモヤしてるのに。頭が真っ白になって、何も考えられなくなった。
(……しょーがねーなぁ)
「いいよ。連れてってやる」
「約束だよ!」
シェルがネロの手をにぎって、うれしそうに笑った。
「ぼくね、君となら、どこまでも泳いでいける気がするんだ」
ふたりで砂のうえに寝転んで、ネロはもう一度目をとじた。
(そーいえば)
ふと思い出して、となりのシェルを見た。
「なんかさ、王サマがどうって自慢してるヤツいなかったっけ? 王サマの血がどーのこーのって」
「……ダリオでしょ」
返ってきたシェルのつぶやきは低くて、波に散ってしまいそうなほど細かった。
(ダリオ?)
眉をよせてちょっと考えて、「ああ、アイツか」とネロは顔をしかめた。
図体ばっかりデカい、いじめっ子のリーダー。
このまえもシェルにちょっかいかけて、盛大に引っぱたかれてたダセェやつ。
なるほどね。
だからシェルはビミョーな顔してんのか。
「ダリオのご先祖さまは、西の海からきたんだって」
「ほんとかぁ?」
「わかんない」
「どーせアレだろ、いつものウソ。群れの中心でふんぞり返りてーだけなんだ」
「うん……」
シェルがうつむいて、ちいさな泡を吐いた。
ネロは、うとうとしていたから。
その意味が、その時はわからなくて。
気にとめないまま、眠りの底へ落ちていった。
ともだちにシェアしよう!

