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予感 3
子どものふたりが寄りそって眠っていた洞穴は、いよいよ窮屈になってきた。
「引っ越しだっ!!!」
芸術的に寝相が悪いシェルの尾びれで引っぱたかれ、しあわせな夢から叩き起こされて、イライラしながらネロは叫んだ。
「この洞穴じゃ、さすがにもうムリ!」
「ぼくは、せまくても別に」
寝癖でもさもさした髪をゆらして、シェルがあくびしながら何か言いかけたけれど。ギロッとネロににらみつけられて、口を閉じて肩をすくめた。
新しい巣穴探しは、びっくりするほど難航した。
ただの洞穴ならすぐに見つかる。
なにしろ海は、成長したネロやシェルの尾びれでも泳ぎつくせないほど延々と果てがなくて、岩場やサンゴの下には最低でもひとつ、ふたつ、良さそうな穴がぽっかり空いているものだから。
けれどそういう穴は大抵がふたりで棲むには小さすぎたり、潮の流れが強すぎて入り口がすぐ砂に埋もれてしまったり、逆にちっとも波がこなくて穴の中全体がなんとなく澱んでいたり、狩り場から遠すぎたり、近所に棲んでいる人魚たちがいけ好かなかったり……
「なぁ、シェル。あの穴は? けっこー良さそう」
通りかかった大きな岩礁の底のほうに、ネロはぽっかり口をあけた洞穴を発見した。
尾びれを蹴って泳ぎ寄っていこうとしたら、シェルがあわててネロの手を引っぱった。
「待って、ネロ! もう棲んでる人がいる!」
シェルが指さした窓辺には、たしかに巻貝のポットをならべてピンク色のイソギンチャクが植えてある。入り口から見える奥の部屋にも、海草で編んだクッションだの沈没船から拾ってきたらしい陸の地図だのが飾られていた。
またこれ。
ネロたちが良さそうだと目をつける穴は、どれもこれも、すでに埋まってしまっている。いい加減ウンザリしてきた。
「あー、面倒くせぇ。もう追い出しちゃえばいいよ」
「追い出す?」
「オレがちょこっと睨みつけて歯ぁ剥いてやれば、すぐ尾びれ巻いて逃げてくもん。荷物外に捨てちゃおーぜ。オジャマシマース!」
「ネロったら!」
奥へ泳いでいこうとするネロを尾びれを掴んで引きずり戻して、シェルがネロをにらみつけた。
「ダメって言ってるでしょ! だれかを脅して奪った家になんか、ぼくはぜったい棲まないからね!」
「じゃあどーすんだよ! 朝からもう何万クジラぶん泳ぎまわってると思ってんの? このままじゃ日が暮れちゃうっての! 今夜もシェルに蹴っとばされたら、オレはシェルの尾びれ噛みちぎるよ!」
「もうちょっとだけ、探してみよう。……ね?」
ネロの手をとって、シェルがなだめるように覗きこんできた。
長い睫毛の下から、ちょっと上目遣いでネロを見あげて、思わず見惚れてしまうほどやわらかい笑顔で。シェルのそういう顔にネロが弱いことをわかっててやってるんだから、最近のシェルはタチが悪い。
「ねえ、ネロ。この丘のむこうを見てみようよ。上の方ならまだ空いてるかも」
「上ぇ?」
「ほら、行こう」
シェルに引っぱられて泳いでいった丘の上は、別世界だった。
海面がいつもよりずっと近くで煌めいていて、夢のように明るくて……ちょっと、明るすぎるくらい。
頭が痛くなるほど白く煌めくサンゴのあいだをぬけて、目がチカチカするようなカラフルな小魚たちが泳いでいくのをきらきらした目で見つめて、シェルがうれしそうに笑った。
「すごくきれいな所だね」
「そーお?」
「それに波が甘くておいしい。ぼく、ここ気に入ったな。ぴったりな家が見つかるといいんだけど」
「どーだろな」
しばらく泳ぎまわってシェルが見つけ出した家は、真っ白いサンゴと真っ白い岩でできた、何もかもが真っ白な洞穴だった。
「サイコーだよ!」
真っ白なリビングの真ん中でくるっと尾びれをひるがえして、シェルがうれしそうに笑った。
「広さも充分だし、波も気持ちよくて陽当たりもいい。まだ空いてるのが不思議なくらい」
「幽霊でも出るんじゃねーの」
ネロは窓をあけてバルコニーに首を出してみた。
降ってきそうなほど近い海面の眩しさにびっくりして、あわてて海草のカーテンを閉めた。
「見て、ネロ。こんなところに落書きがある。家族で棲んでたんだね。せまくなったから引っ越したのかも」
「なー、シェル。ここもいいかもだけどさぁ、もうちょっと他も――――」
「ネロ、こっち!」
シェルに手をつかまれて引っぱりこまれたのは、寝室らしかった。
あまりの真っ白さと眩しさに目をパチパチさせていたら、ぐいっと引きずり倒されて、やわらかい砂のうえに転がっていた。明るいと思ったら天井に大きな穴が空いていて、きらきらゆれる海面から陽の光が射しこんでいるのだった。
となりに寝そべったシェルがうっとりと尾びれをゆらしながら、ネロを見つめて笑った。
「ぼく、ここがいい。すごく気に入っちゃった」
「えぇー……」
「ねぇ、ネロ。だめ?」
長い睫毛でまばたきして、ゆるく細めた青い目がネロを映して煌めいている。白い頬をほんのり染めて、やわらかそうな唇をゆるくひらいて、本当に、うれしそうに微笑んでいるから。
ドキドキした。
耳に響く鼓動がうるさくて、呼吸が浅くなって、頭のなかまでこの洞穴と同じくらい真っ白になってしまったみたいで、自分を見つめて微笑んでいるシェルの姿から目がはなせなくて、ほかのすべてのものが波に流されてしまったように、ただ、シェルの笑顔しか見えなくなった。
「…………しょーがねえなぁ」
「ほんと?」
「試しにね。3日だけ。問題があったらすぐ別の穴を探すからな」
「ありがとう、ネロ!」
シェルが飛びついてきて、ネロを砂に押しつけるようにぎゅっと抱きしめた。
その身体が重たくて、重なりあった肌が温かくて、自分の尾びれに触れる彼の尾びれがぞくぞくするほどなめらかで……
いつもみたいにシェルを抱きしめ返せなかった。
だってオレ。
いま、シェルを抱きしめたら。
(砂の上に押し倒して、サイテーなことしちゃいそう……)
行き場をなくしたネロの両腕は、シェルの背びれにギリギリふれない距離で、水中を虚しくさまよっているのに。
シェルはちっとも気づかずに、ネロに抱きついたまま嬉しそうに歌を口ずさんで、ゆらゆらと尾びれをゆらしていた。
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