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予感 4
真っ白い洞穴での暮らしは、3日も続かなかった。
洞穴が悪いわけじゃない。
ネロの体質の問題だった。
身体が大人に近づいて、しなやかな尾びれが黒っぽい青から深い黒に変わってゆき、背びれのトゲと爪の鋭さが増していくほどに、ネロは夜目が利くようになってきた。
けれど、暗闇をより遠くまで見通せるようになればなるほど、明るい光を鬱陶しく感じるようにもなっていた。
じいちゃんはよく、銀色にきらめく海面を忌々しそうににらみつけて、明るい上層へ泳いでいきたがるちっちゃなネロをつかまえて言い聞かせた。
――――覚えておけ、あの光は毒だ。
じいちゃんがなぜ薄暗い谷の底から出たがらなかったのか、今のネロにはよくわかる。
(ここの光は、強すぎるんだ)
眩しくて、目が痛くて、その容赦ない明るさが、だんだんうるさくなってくる。
洞穴いっぱいの貝殻をガチャガチャ鳴らされ続けているみたいで、頭がガンガンして目がまわって吐き気がしてくる。
逃げるように目を閉じたところで、やっぱりまぶたを透かして明るい陽の光がネロをギラギラ照らしていて、見えない手でずっとウロコを逆さまに撫でられているようにゾワゾワして一瞬も気が休まらなくて、ようやく夜になって落ち着けるとホッとしても、寝室の天井にぽっかり空いた穴からは巨大な鏡みたいな真ん丸な月がピカピカとネロを見下ろしているのだった。
「夢みたいだよ。月を見上げながら眠れるなんて」
となりに寝そべっているシェルは、うれしそうに尾びれをゆらしているから。
(あのクソみたいな穴を、今すぐ塞げよ!)
そう、わめきちらすのも可哀想で。ネロはケルプを頭までかぶって、ぎゅっと目を閉じて丸くなる。
けれど夢のなかですら、凶暴な光があっちでもこっちでもギラギラかがやいて、ネロをやさしい暗闇から追い立てて、明け方まで逃げまわってぐったり疲れきったネロがようやく眠りに落ちた途端、また眩しい陽の光が容赦なく射しこんできて、ネロを極彩色の光のなかへ引きずり出すのだった。
「ネロ、大丈夫?」
シェルが心配そうに覗きこんできた。
この真っ白な洞穴で唯一陽の光のとどかない本棚の裏の暗がりに逃げこんで、ケルプをかぶってうずくまっているネロに、海藻の束を寄越してきた。
「食べて。頭痛に効くよ。こっちの巻貝は齧るとよく眠れるようになる。それからこっちの」
「……シェル」
「うん、なにか欲しい?」
じっと覗きこんでくる青い目を、ネロは悲しい気持ちで見あげた。
(ごめん、シェル)
おまえは、あんなに嬉しそうだったのに。
「オレ……ここ、ダメだ……」
自分の口から出たとは信じられないほど、弱々しい声だった。
ネロを見つめる青い目がハッと大きくなって、シェルがほんの少し、悲しそうな顔をした。チラッと、明るい家のなかを見まわして。何かをふり払うように、シェルが明るく微笑んだ。
「うん、わかった」
「ごめん……」
「ネロのせいじゃないよ。きっと、もっといい家が見つかるよ。出られそう? ちょっとせまいけど、今日はいままでの洞穴でゆっくりしよう」
明るすぎる巣穴は、もうこりごりだった。
三日三晩寝こんでようやく寝床から這い出したネロは、もっと深い場所を探してみようと、シェルの手を引いて下へ下へと泳いでいった。
シェルはずっと浮かない顔をしていた。
ネロには何も言わないけれど、あの真っ白な洞穴が恋しいに違いなかった。
まだ昼前だというのに辺りが薄暗くなってきて、水が肌寒くなってきた頃。下のほうから流れてくるゆるやかな波に、ネロは懐かしいにおいを感じた。
(このにおいだ)
ひんやりしていて、ちょっとカビ臭くて、やわらかい泥のようにすべてを覆い隠す、深い、深い、闇のにおい。
ワクワクした。
冷たい水が尾びれの先まで染みわたって、まだまぶたの裏でチカチカしているうるさい光の幻覚を洗い流してくれる。
じいちゃんと暮らしていた深い谷底へとつづく崖まで泳いでくると、ネロの後ろを恐る恐るついてきていたシェルが、目に見えて怯えはじめた。
「ほら見て、シェル。この崖の壁」
「ネロ」
「このあたりの壁には横穴が多いし、棲んでる人魚も少ねーから、空いてる穴がいっぱい見つかると思う」
「ネロ」
「あっ、あそこの穴どう? すげー良さそうじゃねえ?」
「ネロ!」
手を繋いだまま下へ泳いでいこうとするネロに首をふって、必死に踏んばって手を振りほどこうとしていたシェルが、突然、崩れ落ちるように座りこんだ。
尾びれと片腕で岩にしがみついて、目の前にぽっかり口をあけている崖と、底の見えない暗闇を血の気のひいた真っ青な顔で見下ろして、シェルがまた、首をふった。
「ネロ……ぼくここ、怖い……」
「大丈夫だって。たしかに凶暴な連中もいるけどさ、そういうヤツらが棲んでるのはもっとずーっと深い場所。この辺りまでは来ねーよ。それに、万が一襲ってくるヤツがいてもオレが」
「ネロ」
岩にしがみついたまま、シェルが首をふった。
ネロを見上げた青い目から硝子玉のような涙がポロポロあふれだして、岩のうえを転がって、崖の底の真っ暗な闇へ落ちていった。
「……ほんとに、無理?」
ネロを見つめて力なくうなずいて、ぎゅっとつぶったシェルの目からまた涙がこぼれた。
「わかった。戻ろう」
岩の上から動かないシェルを腕をのばして抱きあげたら、震えている身体はゾッとするほど冷たかった。
同じなんだと気づいた。
オレと同じ。
(オレが、あの光がダメだったように。シェルは、暗闇がダメなんだ)
いやな予感がした。
「……ごめんね、ネロ」
「いいよ。シェルのせいじゃねーって」
ぼんやりした予感だった。
濁った水のむこうで、チラッとひるがえる尾びれのような。
思考の隅をちらつくその予感を、頭から追い払いたくて。
ネロはシェルを抱きしめたまま尾びれを蹴って、明るいほうを目指して泳ぎだした。
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