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深海から見る夢 1
深い谷底にひろがる闇。
その、さらに奥深く。
陽の光のとどかない暗闇の底でネロが独りで暮らしはじめてから、たくさんの季節が流れ去った。
今がいつなのか、あれから幾度季節がめぐったのか、ネロはとっくに数えることをやめてしまった。
適当に小魚を捕まえて、巣穴にもどって眠る。
それ以外ことに、ネロは少しも興味をもてなかった。
……ただ、ひとつをのぞいて。
光のむこうへ泳ぎ去っていった、真っ白な尾びれ。
巣穴の奥で丸くなってネロが目を閉じるたび、何度も、何度も、しつこく目の前をちらついた。
ざっくり切り裂かれて血を流している心臓を、さらにぎりぎりと締めつけられて。
痛くて、苦しくて、岩陰に潜りこんで泥を握りしめて、必死に忘れようとした。
心臓の傷が歪 な形にふさがって、見えないフリがうまくなって、明るい光のなかで泳ぎまわっていた子どもの日々が、遠い昔に見た夢の記憶に変わったころ。
ネロの尾びれは闇からにじみでたような漆黒に染まり、身体もすっかり大人になっていた。
谷底の冷たい闇のなかでは、何もかも、時が止まったようにひっそりとしている。
海藻が芽吹き、旅をする魚たちの群れが入り乱れ、サンゴがいっせいに産卵し、枯れた海藻の下からまたべつの海藻が海面をめざしてぐんぐん伸びていく……そんな、上層の明るい海のようなめまぐるしい変化は起こらない。すべてがただひっそりと、闇の底で眠っている。
けれど、そう見えるだけ。
冷たい闇の底にも、やっぱり季節はめぐってくる。
一番はっきりした、一番鬱陶しい季節が今年もやってきたことを、波にのってただよってくるソワソワと浮わついた水の気配でネロも感じとっていた。
ねぐらにしている岩穴からすべるように抜け出して、ネロはしずかに尾びれを蹴った。
陽の射さない闇のなかでもネロの目は遠くまで見通せる。
あっちの岩陰で、こっちの岩陰で、尾びれを巻きつけて絡みあう人魚たちの影が、ゆらゆらと不自然にゆれているのが嫌でも見えた。
(……また、コレかよ)
わざとらしい嬌声と、喘ぎ声。
安っぽい、その場限りの愛の誓い。
不愉快なそれらが聞こえないよう、感覚を閉ざして泳ぎ抜けようとしていたら。
一瞬、気づくのが遅れた。
甘ったるい、ねっとりした匂いが、すぐうしろを追いかけてきていたことに。
とっさに水を蹴って振り切ろうとしたネロの反応よりわずかに早く、絡みついてくる生ぬるい腕を尾びれに感じた。それから、なにか、やわらかい物を押しつけられた弾力。
「チッ」
舌打ちしながらふり返ったら、メスの人魚がひとり、ネロの尾びれにしがみついて、うっとりとネロを見上げていた。
尾びれをとめたネロに喜んで、腕をのばして肩に抱きついて、やわらかい胸を夢中で押し当ててくる。ネロの尾びれに自分の尾びれを這わせて、ぴったりそわせた腰を意味深にこすりつけてくる。ネロのスリットの奥を刺激する、扇情的な律動。……昨日から、これで三人目。
振り払うのも億劫で、ネロは仕方なく、物欲しそうなメスの腰を抱きよせて、こすりつけてくる穴を自分のもので貫いた。甘ったるい喘ぎ声をあげてのけぞる背中を抱きかかえてゆさぶって、ぬるぬる締めつけてくるそこに、無理やり高めた熱を放った。
「……これで満足か?」
まだ物欲しそうな顔をして、尾びれを絡めてしがみついてくるから、ウンザリして水を吐いて、やわらかい胸に吸いついて、腰をゆさぶってもう何度か突いてやって、求められるままキスをして抱きしめてやって、夢見心地でぐったりしている身体を岩のうえに置き去りにして、水を蹴った。
名前も知らないメス。
もう顔もわからない。
この闇の底では日常だった。
尾びれが力強くてイイだとか。
厚い胸がたくましくて好きだとか。
太いうえにすごく長くてたまらないとか。
色んな唇が甘ったるくささやいて、色んな尾びれがネロの尾びれに鬱陶しくからみついてくる。
相手がどんな人魚かなんて、ネロは興味なかった。胸がやわらかくて、穴があればそれでいい。求められればキスだってしてやる。でも相手が愛の言葉を欲しがったら、そこまでだった。行為の途中でも無理やり引き抜いて泳ぎ去って、ふり返りもしなければ、もう思い出しもしない。
(愛?)
アホくせぇ。
俺に求めんじゃねえよ。
そんな、クソみたいなもん。
ネロに愛を教えられる人魚がいるとしたら、この海にたったひとりだけ。
その人魚とは、もう二度と逢うことはないのだから。
その後も何度か、絡みついてこようとする腕を振り切って泳ぎ抜けて、さすがにぐったりして、ネロは尾びれをゆるめた。
鬱陶しい気配がしなくなったと思ったら、いつの間にか、谷のはずれまで来ていたのだった。
ずっと頭上の遠くの海が、きらきらと銀色に光っている。
ずいぶん懐かしい光だった。
あの辺りまでいくと、海は夜でもあんなに明るかっただろうか。
あるいは。
(俺が、暗闇に染まりすぎたのか)
思い出してしまいそうだった。
ふさがったと油断していた心臓の古傷が疼きはじめて、ネロは光から目をそらして、暗闇へ引き返そうとした。
その尾びれを、ネロはふと、とめた。
谷の上から流れてくるかすかな波に、不思議な匂いがまじっている気がした。
「なんだ、この匂い」
ほんのり甘くて、やさしくて。なんとなく……懐かしい匂い。
血がざわめいた。
気づいたら尾びれを蹴って、光をめざして泳いでいた。
海が明るさを増すほどに、甘い匂いも強くなっていく。
すこしずつ。
まだ遠い。
でも感じる。
(どこだ)
なんでこんなに……胸が締めつけられるんだ。
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