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深海から見る夢 2
ずいぶん明るいと思ったら、今夜は満月だった。
この時期の夜は、どこでも変わらないらしい。
ふだんの浅瀬なら、谷底からのぼってきたネロの異様な姿に震えあがって逃げていくのに。どの人魚もただ、夢中で目の前の人魚を追いかけてる。
サンゴの陰で、海藻の茂みで、抱きあって尾びれを絡めて、密やかに愛を交わしあっている。
(世話ねぇよなぁ)
乾いた笑いがこみあげてきた。
野蛮だの、下品だの。
谷底の俺たちをさんざんバカにしておいて。
(お上品ぶった上層だって、やってることは同じじゃねえか)
海藻をそよがせる明るい波のむこうから、甘い匂いがいよいよ強く香ってきた。
どうしてだろう。
――匂いのもとへ、一刻もはやく。
見えない何かにそう急かされて、水を蹴る尾びれの力が増していく。
この程度の光ですら、ネロの目には突き刺さるように痛いのに。それでも闇の底へ引き返す気には、どうしてもなれない。
月明かりにきらめく海のむこうに、やがて、なにかが見えてきた。
色鮮やかなソフトコーラルがゆれる岩礁と、そこに集まった人魚たちの群れ。
テーブルのように平らなサンゴのうえに腰かけて、仲間たちからは少しはなれて尾びれをゆらしている人魚の姿を見つけたとたん、ドクンと心臓が鳴った。
色とりどりの人魚のなか。
その人魚だけが、月光のような白銀の尾びれをしている。
やわらかく波打つ髪は真珠色にきらめいて、白い肌は淡くかがやき、何もかもが真っ白いなかで、ためらいがちにまばたきする大きな目だけが、真昼の浅瀬のように、鮮やかな青色――――
(嘘だろ)
心臓がばくばく鳴っていた。
(まさか)
全力で水を蹴っているのに、ちっとも近づいていない気がした。もどかしかった。
(くそっ)
もっと、はやく。
まだまだ遠く。
小石ほどの大きさに見えるその人魚は、やわらかく尾びれをゆらしながら、さっきから何度も目を伏せたり顔をそむけたりしていて、困っているようだった。
(どうした?)
訝んだ瞬間、その白い姿をさえぎって、べつの人魚が視界に飛びこんできた。
身体の大きな、オスの人魚。
そのオスは赤い尾びれをゆるくひるがえして、白い人魚のまわりをしきりに行ったり来たりしている。それが白い人魚を困らせているらしかった。
からかっているとか、邪魔をしているとか、そういう事ではなさそうだった。それよりも、熱心にまとわりついて、必死に懇願しているような……
赤い人魚が通り過ぎざま、意味深に尾びれを絡ませて腰をすりつけて、白い人魚が身をちぢめて尾びれを震わせたとたん。波のなかにただよう甘い匂いが、はじけたように強くなった。
――変わろうとしている。
そう気づいたとたん、心臓が狂ったように鳴った。
尾びれを急かして、猛烈に水を蹴っていた。
あの赤い人魚が何をしているか、白い人魚が何に困っているか、全部理解した。
ある種の魚がそうであるように、人魚のなかにもメスからオスへ、オスからメスへと変化する個体が時々いる。でも人魚の場合はごくごく稀で、目の当たりにするのはネロも初めてだった。
それでもわかった。
この匂い。
(聞いたことがある)
途中で変わった人魚からは、異性を惹きつける特別な匂いがするという。
それは本能を強烈にゆさぶって、まわりの人魚たちを狂わせる。
よく見れば、少しはなれた場所からふたりを遠巻きに窺っている人魚たちも、全員オス。
おそらく赤い人魚に追い払われて、でも諦めきれなくてあそこで悶々とたむろしている。あるいは……隙を狙っている。
邪魔者を蹴散らした赤い尾びれのオスは、必死にまわりをうろついて愛をささやいて誘惑しているらしいけれど、白い人魚はそれが迷惑らしかった。
(はやく)
はやく、あそこへ。
真っ二つに裂けてちぎれてしまうくらい尾びれを動かし続けているのに、彼らの姿はまだずっと遠い。
何度も、何度も。
赤い人魚にしつこく尾びれをこすりつけられて。
頑なに拒んでいた白い人魚は、だんだん疲れてきたのか、あるいは絆されてきたのかもしれなかった。
こわばっていた白い頬がほんのり染まりはじめて、絡みついてくる尾びれに応えるように白銀の尾びれがやわらかくゆれた。
その白い先端が、赤い尾びれをそっと撫でた。
赤いオスがニヤニヤいやらしい笑いを浮かべ、となりへ泳ぎよっていく。我がもの顔で腕をのばして、白い人魚を抱きよせようとする。
(くそっ)
はやく。
はやくしろよ、俺の尾びれ。
いやだ。
待って、
待ってよ――――
「シェルッ!!!」
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